乙巳の変の登場人物の中で藤原氏の祖である中臣鎌足だけが出自が曖昧です。
中臣鎌足は古書に書いてある通り常陸国の鹿島の出身なのでしょうか?
それとも、噂されるように百済の皇子なのでしょうか?
《多氏(おおし)》
史書で中臣氏の祖は、天児屋命と書かれていますが、
中臣氏は古代の皇族から別れた多氏の支族と考えられ、常陸国の鹿島の中臣氏は多臣中臣氏とも呼ばれているそうです。
私は専門家で無いので、ネットで調べられる範囲で関係ありそうな事を下に書いておきます。
日本最古の皇族から別れた氏族とされる。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記される。
多氏は神武天皇の子の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔。
「神八井耳命は、意富(おお)の臣、小子部の連、坂合部の連、火の君、大分の君、阿蘇の君、筑紫の三家(みやけ)の連、雀部の臣、雀部の造、小長谷の造、都祁の直、伊余の国造、科野の国造、陸奥の石城の国造、常陸の仲(なか)の国造、長狭の国造、伊勢の船木の直、尾張の丹羽の臣、島田の臣、などの祖先である。」
(古事記)
神八井耳命は、勇敢な弟・神沼河耳命(綏靖天皇)に皇位を譲り、自らは祭祀を掌ります。
このときの事情は長くなるので、古事記で読んでみてください。
神武天皇東征の後、嫡子の神八井耳命は九州北部を、庶流長子の手研耳命は九州南部を賜与されたとされる。
(ウィキペディアに書かれてますが、出典は分かりません。)
ここで重要なのが、中臣氏の本家の多氏の祖である神八井耳命は九州北部を賜与された、と言うことです。
九州北部と言えば奴国(なのくに)の地です
神八井耳命は奴国の祖と言えるのかもしれません。
《中臣鎌足》
出自が曖昧だった中臣鎌足は、本家をたどれば奴国(なのくに)へたどり着きます。
そして秦河勝は、奴国から山城へ移住してきた秦氏です。
思わぬところで二人の接点が見つかりました
これが本当なら、乙巳の変の真相は意外な物となるかもしれません。
秦氏は、本来直接政治に関わってきません。
その豊富な財力で間接的に政治に関わってきます。
秦河勝は聖徳太子には可愛がられていましたが、中大兄皇子とは接点がありません。
秦河勝は、奴国の人間関係の中で中臣鎌足を以前から知っていたのではないでしょうか。
中臣鎌足は常陸国・鹿島の出身です。
一見、秦河勝との距離が遠く離れているように見えます。
しかし、常陸国は奴国とも関係性が深いのです。
①常陸の仲の国造は、神八井耳命の裔。
②「常陸の仲の国」の「仲(なか)」は、奴国の中心部とも考えられる筑紫国に多い地名です。「中臣氏」の「中」とも関係ありそうな気がします。
筑紫の地名…那珂川、中洲、etc.
筑紫に都した天皇・仲哀天皇の名前はタラシナカツヒコノミコト
③仲哀天皇の父・ヤマトタケルは、常陸国風土記では「倭武天皇」と書かれています。
この事は、仲哀天皇が統治した奴国で、ヤマトタケルは仲哀天皇の祖として「天皇」と祭り上げられたとも考えられそうです。
常陸国には確実に、奴国の力が及んでいたのではないだろうか
筑紫国風土記は現存していません。
大和朝廷がある程度日本を掌握した後に、握り潰したのかもしれません
古代氏族きっての名族である多氏を祖とする中臣氏。
秦河勝は、奴国の情報網で中臣氏の中の有望な人物・中臣鎌足を見つけ、中大兄皇子との仲介役とし、二人の後ろ盾になったのではないだろうか?
中臣鎌足は都から離れた田舎もの。
中大兄皇子は、その母・皇極天皇と対立していた事から考えても皇位継承権は持っていませんでした。
二人には後ろ盾が必要だったのです。
経済界のトップ秦河勝が一声かければ、一瞬でなびいたかもしれません。
秦河勝は、秦氏④乙巳の変でも分かるとおり蘇我氏に圧力をかけられていました。
中大兄皇子と中臣鎌足に、蘇我政権を倒してもらいたかったのだと思います。
《白村江の戦い》
この時代九州北部の奴国は、大和の自治州の様な存在だったのではないだろうか。
そのように考えると、白村江の戦いを推進した人物も浮かび上がってきます。
奴国(なのくに)の最大版図は、朝鮮南端から、壱岐、対馬、九州北部と考えられます。
奴国にとって、朝鮮南端が荒らされる事は大陸との交易の面で、マイナスとなります。
この事は、奴国と関係の深い秦氏にとっても言えると思います。
秦氏の豊富な財力は、朝鮮半島との貿易にも頼っていたでしょう。
中大兄皇子と中臣鎌足以上に、秦氏の方が百済を救援する動機が高いと思います。
中大兄皇子は都を奴国にある筑紫の朝倉の橘の広庭宮に移し百済救援に向かいます。
大和の豪族達は、この出兵に相当反対した事でしょう。
そして戦には負けてしまいます。
中大兄皇子の求心力は急激に下がった事でしょう。
中大兄皇子は、秦氏の勢力圏である大津に遷都します。
新羅と唐の連合軍による仕返しを恐れたため、大津に遷都したと考えられているようですが、
一番怖かったのは、外憂よりも内患だったのではないでしょうか?
無茶な出兵をしたため、大和なんかに都してたら命が幾つあっても足りません
大和の豪族達に嫌われたであろう中大兄皇子。
その存命中は何とか体を保ちますが、その子大友皇子は、反中大兄皇子勢力をまとめた大海人皇子(天武天皇)によって倒されます。
大海人皇子も秦氏の実力は、恐れていたのでしょう。
大津宮には一歩も足を踏み入れる事はありませんでした。
桓武天皇は日本書紀の外交に関する部分をかなり削除したと言われています。
奴国(なのくに)に関する記録を削除したのかもしれません。
大和の従であるべき奴国。
しかし朝鮮半島とも接し、経済力のあった奴国。
桓武天皇の時には完全に大和の支配下に入っていたことでしょう。
朝鮮南部にあったと言われる「任那日本府」。
「奴国(なのくに)を任せた日本の行政機関」ととれます。
私はこの表現を、大和の奴国に対する対抗心と背伸びの様に感じました
《聖徳太子》
最後に気になったことを…
中臣氏、多氏の祖は神八井耳命(カムヤイミミノミコト)。
秦河勝が可愛がられた聖徳太子は、厩戸豊聰八耳皇子(ウマヤノトヨトヤツミミノミコト)。
何かありそうな気がする…
中臣鎌足は古書に書いてある通り常陸国の鹿島の出身なのでしょうか?
それとも、噂されるように百済の皇子なのでしょうか?
《多氏(おおし)》
史書で中臣氏の祖は、天児屋命と書かれていますが、
中臣氏は古代の皇族から別れた多氏の支族と考えられ、常陸国の鹿島の中臣氏は多臣中臣氏とも呼ばれているそうです。
私は専門家で無いので、ネットで調べられる範囲で関係ありそうな事を下に書いておきます。
日本最古の皇族から別れた氏族とされる。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記される。
多氏は神武天皇の子の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔。
「神八井耳命は、意富(おお)の臣、小子部の連、坂合部の連、火の君、大分の君、阿蘇の君、筑紫の三家(みやけ)の連、雀部の臣、雀部の造、小長谷の造、都祁の直、伊余の国造、科野の国造、陸奥の石城の国造、常陸の仲(なか)の国造、長狭の国造、伊勢の船木の直、尾張の丹羽の臣、島田の臣、などの祖先である。」
(古事記)
神八井耳命は、勇敢な弟・神沼河耳命(綏靖天皇)に皇位を譲り、自らは祭祀を掌ります。
このときの事情は長くなるので、古事記で読んでみてください。
神武天皇東征の後、嫡子の神八井耳命は九州北部を、庶流長子の手研耳命は九州南部を賜与されたとされる。
(ウィキペディアに書かれてますが、出典は分かりません。)
ここで重要なのが、中臣氏の本家の多氏の祖である神八井耳命は九州北部を賜与された、と言うことです。
九州北部と言えば奴国(なのくに)の地です
神八井耳命は奴国の祖と言えるのかもしれません。
《中臣鎌足》
出自が曖昧だった中臣鎌足は、本家をたどれば奴国(なのくに)へたどり着きます。
そして秦河勝は、奴国から山城へ移住してきた秦氏です。
思わぬところで二人の接点が見つかりました
これが本当なら、乙巳の変の真相は意外な物となるかもしれません。
秦氏は、本来直接政治に関わってきません。
その豊富な財力で間接的に政治に関わってきます。
秦河勝は聖徳太子には可愛がられていましたが、中大兄皇子とは接点がありません。
秦河勝は、奴国の人間関係の中で中臣鎌足を以前から知っていたのではないでしょうか。
中臣鎌足は常陸国・鹿島の出身です。
一見、秦河勝との距離が遠く離れているように見えます。
しかし、常陸国は奴国とも関係性が深いのです。
①常陸の仲の国造は、神八井耳命の裔。
②「常陸の仲の国」の「仲(なか)」は、奴国の中心部とも考えられる筑紫国に多い地名です。「中臣氏」の「中」とも関係ありそうな気がします。
筑紫の地名…那珂川、中洲、etc.
筑紫に都した天皇・仲哀天皇の名前はタラシナカツヒコノミコト
③仲哀天皇の父・ヤマトタケルは、常陸国風土記では「倭武天皇」と書かれています。
この事は、仲哀天皇が統治した奴国で、ヤマトタケルは仲哀天皇の祖として「天皇」と祭り上げられたとも考えられそうです。
常陸国には確実に、奴国の力が及んでいたのではないだろうか
筑紫国風土記は現存していません。
大和朝廷がある程度日本を掌握した後に、握り潰したのかもしれません
古代氏族きっての名族である多氏を祖とする中臣氏。
秦河勝は、奴国の情報網で中臣氏の中の有望な人物・中臣鎌足を見つけ、中大兄皇子との仲介役とし、二人の後ろ盾になったのではないだろうか?
中臣鎌足は都から離れた田舎もの。
中大兄皇子は、その母・皇極天皇と対立していた事から考えても皇位継承権は持っていませんでした。
二人には後ろ盾が必要だったのです。
経済界のトップ秦河勝が一声かければ、一瞬でなびいたかもしれません。
秦河勝は、秦氏④乙巳の変でも分かるとおり蘇我氏に圧力をかけられていました。
中大兄皇子と中臣鎌足に、蘇我政権を倒してもらいたかったのだと思います。
《白村江の戦い》
この時代九州北部の奴国は、大和の自治州の様な存在だったのではないだろうか。
そのように考えると、白村江の戦いを推進した人物も浮かび上がってきます。
奴国(なのくに)の最大版図は、朝鮮南端から、壱岐、対馬、九州北部と考えられます。
奴国にとって、朝鮮南端が荒らされる事は大陸との交易の面で、マイナスとなります。
この事は、奴国と関係の深い秦氏にとっても言えると思います。
秦氏の豊富な財力は、朝鮮半島との貿易にも頼っていたでしょう。
中大兄皇子と中臣鎌足以上に、秦氏の方が百済を救援する動機が高いと思います。
中大兄皇子は都を奴国にある筑紫の朝倉の橘の広庭宮に移し百済救援に向かいます。
大和の豪族達は、この出兵に相当反対した事でしょう。
そして戦には負けてしまいます。
中大兄皇子の求心力は急激に下がった事でしょう。
中大兄皇子は、秦氏の勢力圏である大津に遷都します。
新羅と唐の連合軍による仕返しを恐れたため、大津に遷都したと考えられているようですが、
一番怖かったのは、外憂よりも内患だったのではないでしょうか?
無茶な出兵をしたため、大和なんかに都してたら命が幾つあっても足りません
大和の豪族達に嫌われたであろう中大兄皇子。
その存命中は何とか体を保ちますが、その子大友皇子は、反中大兄皇子勢力をまとめた大海人皇子(天武天皇)によって倒されます。
大海人皇子も秦氏の実力は、恐れていたのでしょう。
大津宮には一歩も足を踏み入れる事はありませんでした。
桓武天皇は日本書紀の外交に関する部分をかなり削除したと言われています。
奴国(なのくに)に関する記録を削除したのかもしれません。
大和の従であるべき奴国。
しかし朝鮮半島とも接し、経済力のあった奴国。
桓武天皇の時には完全に大和の支配下に入っていたことでしょう。
朝鮮南部にあったと言われる「任那日本府」。
「奴国(なのくに)を任せた日本の行政機関」ととれます。
私はこの表現を、大和の奴国に対する対抗心と背伸びの様に感じました
《聖徳太子》
最後に気になったことを…
中臣氏、多氏の祖は神八井耳命(カムヤイミミノミコト)。
秦河勝が可愛がられた聖徳太子は、厩戸豊聰八耳皇子(ウマヤノトヨトヤツミミノミコト)。
何かありそうな気がする…