Like A Blue Gale

ここは地の果て流されて俺

悪ふざけとユーモアの境界線

2004-09-08 09:52:58 | 駄文
ふと思う所があったので今回は、
「内輪ネタがユーモアとして機能するか否か」
という事について私なりの見解を述べてみようかと。

結論から言えば、「否」です。
人を笑わせるための「ネタ」或いは「ユーモア」、
「ウィット」、「ジョーク」の類は、
少なからず公共性を必要とするものであると思います。
ここで言う公共性というのは、
より多くの人に「共感」を与えるという事。
さらにここで言う「共感」とは「面白い」と思わせるという事です。
内輪ネタというものは、基本的にターゲットが狭いものなので、
より多くの人間に対する公共性はむしろ皆無に等しいのがデフォルトです。
扱うネタが密度の濃いものでなく、
世間一般にも「何の事かある程度解る」ものであれば、
コアな笑いを提供出来るかもしれませんが、
それでもやはり解らない人間には解らない。

世間一般にあるものですらそうなのですから、
極々内輪の、
ある個人をネタにした内輪ネタが公共性など持つはずがありません。
それを多くの人間が見るかもしれない、
「公共性の高い場」でやろうとするなど、愚行の極みです。
それが面白いと思ってるなら、その感覚は間違っている。
ただの悪ふざけと、ユーモアは違うのです。
ユーモアとして機能する悪ふざけもありますが、
それは前述した「コアな笑い」であり、
少なからず多くの支持を得るからこそ、機能しているわけで。

例えすぐに引っ込める事が出来たとしても、
一瞬でも「公共性の高い場所」にそれを出してしまう事が、
ネタにされる個人と、
ネタにした個人にどれほどのリスクを与えるか。
そういう事を考えられない人間のセンスは、
下の下以下と言ってしまって良いでしょう。

ただでなくとも、
ネットには個人攻撃の大好きな人間が集まる傾向があるのですから。
ウケを狙おうと思っている人は良く考えてやるべきです。