成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子と小橋三四子&『婦人週報』

2014年09月26日 | 歴史・文化
井上秀(M8生)が東奔西走する広岡浅子に随伴して九州の炭鉱にも行ったのに対して、小橋三四子(M16生)は最晩年の浅子のもっとも近くにいた一人であろう。
秀は京都府立第一高女を経て日本女子大学校家政学部を卒業するが、三四は東京府立第一高女を経て同校国文学部を卒業する。共に一回生である。
大正8年1月14日、浅子が逝去し、秀は「家庭週報」紙に「嗚呼広岡浅子刀自」という追悼文を寄せ、一方、三四は主宰する『婦人週報』誌に「天国は近づけり、広岡浅子刀自を悼む」という追悼文を寄せている。
1月12日の夜、東京麻布区材木町63の広岡別邸では、浅子が天文学者のフアネス女史と会談、頼まれて三四も同席、女史が辞去した後も、引き止められ10時半まで浅子のもとにいて、「また始終遊びに来て下さいよ」という言葉を後にしてお別れしたという。
翌13日終日外出して帰宅した三四は、浅子から「今から暇があったら来てくれぬか」という電話を受けたが、『婦人週報』の編集業務があり、「16日は是非伺いますから」といって断ったという。
明けて14日、この日も終日外出して帰宅した三四は、突然、「広岡さんが今日の午後8時遂に亡くなられました」という電話を広岡家から受けたという。
浅子の死を悼んで、『婦人週報』には、三四の追悼文とてい子の「広岡刀自の『一週一信』を読みて」という感想文が掲載されている。






最新の画像もっと見る