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村上宏之のブログです

坂本英三~その2~

2005-08-22 10:55:52 | DEFT・練馬マッチョマン
 台湾から帰って来て少し経った頃、英三さんから連絡が来て「宏君、ご免ね」と謝られてしまった。英三さんが謝ることでは無いし、正直がっかりはしてたけど怒っていたわけではなかったし、誘ってもらえた事はやっぱり嬉しかったので「残念だけど良いですよ」「新しいバンド、やりましょうね」という感じだった。

 確かその頃、違うバンドのヘルパーの話も来たんだったと思う。で、その話を持って来た人物とは、実はそれが池田賢輔で、それ以降も、形を変え、幾つかのバンドを経て、今日まで付き合いが続いて行くんだけど…。正直、そのヘルパーの話にも気分的に随分救われたし、英三さんとのバンドにしろ、池田賢輔とのバンドにしろ、とにかくこれからドラムを叩く時は大事に丁寧にやろう、常に「これが最後」のつもりで望もうと思いました。

 そんな経緯があって、ようやく英三さんとの新しいバンドは本格的に動き出したんだけど、当初の予定とは違って、新バンドは「新生・練馬マッチョマン」として活動して行くことになった。かつて目黒界隈で対バンした時は、将来、自分が練馬マッチョマンのメンバーになる時が来るとは夢にも思わなかったけど、特にこだわりがあったわけでも無いのですんなりと受け入れてしまった。練馬マッチョマンはちょっとおかしくて、でも演奏はしっかりしてる、という印象だったので、自分の役所があるんだろうか?っていう不安はあったけど。

 リハとか、一体どこのスタジオでどんな風にやるんだろう?と思ってドキドキしてたら、意外にもそこらの小さいスタジオで、地味に質素な感じで始まった。小さめのリハスタで全体の音量もそんなに大きくなかったのでやりやすかったし、メンバー全員、バンド・リハが始まるのを待ってる間、相当きっちり仕込みをやってたようで曲を完成させるのは早かったし、雰囲気も和やかだった。

 本格的にリハをやり出してみると、意外にも英三さんは超・マイペースだった。それとムード・メーカーで冗談を言ったり、ふざけたり…でも、リハの進行やライブの曲順とかはきちっと仕切ってくれるのですごく楽だった。しかも、色んな事にちゃんと裏付けがあって可能な限り説明をしてくれる。例えば「この曲の歌詞は、実はこうでこうで」とか「この曲のこの歌詞だけど、こういうことってない?」とか自ら解説をしてくれるし、「この曲が終わったら、SEを使って次の曲とはこういう風な展開で…」とか、どうしてそうなっているのかをよく説明してくれた。

 ドラムに関しては、拍子抜けするくらい、何も言わない。この時は打ち込みで作った音源の曲が主だったし、そのままやっても仕方無いので輪郭だけ残して相当いい加減に変えてしまったんだけど。それとやってると色んなアイデア…例えば「ハローワーク’99」のイントロにレインボウの「ロスト・イン・ハリウッド」のドラムロールを付ける、とかそういう遊びを思いついてやってみると、殆ど何も言わずにやらせてくれた。

 英三さんはギターを弾くからか、言うのはギターのニュアンスとか、それもチョーキングとかフレーズの捉え方とか細かいことが多いんだけど「格好良くして」とかじゃなくて「もっとこの曲に合うように」ってことが主だった。場合によっては「そこはそんなにちゃんと弾かないで」とか「もっと変な感じで」とか。

 英三さんとやってる時のキィ・ワードは「変」と「妖しい」が多いんだけど、英三さんとは年齢も学年も一緒だし、聞いて来た音楽も相当クロスしてて近い。(実を言うと俺の家にはポール・モーリアのレコードがあったし、「オリーブの首飾り」も子供の頃から知っていた)だから英三さんが曲をどうしたいのか、何を表現したいのかは大体分かった。

 練馬マッチョマンをやってみて、結局バンドをやるっていうのはアーティストとしての「世界観の提示」に尽きるんだ、という事に気付かされた。もちろん、曲や演奏レベルの善し悪しもあるけど、それは表現のための道具で、その人なりの見方や価値観や考え方っていうのが何よりも大切なんだ、という事を改めて実感した。

 流行りの音楽にとらわれ過ぎたり、必要以上にテクニックに走ったりとか、そういう世間の一般論をフィルターにしてバンドを見ても仕方ないんじゃないか、と思った。大切なのは自分自身の感性と同時に、バンドマンとしての目で世間を見ること、そして自分なりの感性で世界を表現するべき努力をすることなんだ、と思うようになった。

 練馬マッチョマンでは、出来ればただドラムを叩くことだけに専念したかったんだけど、やっぱり演奏以外の部分の重要性が強い。リハをやってても、いきなりステップの練習になったり、振りとか動きの確認になったり…。そういう時はただ黙って眺めてればいんだけど、正直、最初はちょっと面くらったし、そういう部分では自分は何をどうすればいいんだろう?と思った。

 でもしばらくすると望まれているキャラクターや、やるべきことは自然と分かって来たし、それは特別に何かを変えるようなことではなく、持っているものを誇張すればいいだけだった。だからあまり考えずに、出来ることを出来る範囲できっちりやればいいんだ、と分かって安心したし、楽しんでやれるようになりました。

 最初の頃はリハもきっちりやってバンドとして固まって行ったんだけど、そのうちやっぱり英三さんが忙しくなってしまって、リハはライブの前に2、3回とかになってしまった。でもその分、久しぶりにメンバーが顔を揃えてリハに入ると「すぐにライブがある」っていうのもあって、スタッフも含め、その場にいる全員のテンションも高かったし、みんなが考えて来たアイデア、そこから派生する更に練ったアイデアとかどんどん出て、みんな心の底から大笑いしながら楽しんでました。

 実際、ライブ当日よりも前日のリハで盛り上がり過ぎたことが多くて、リハをやりながらすでに打ち上げをやってるような雰囲気でしたね。曲もちゃんと覚えてて、ステージについて不明瞭な事もなく、自分自身のやるべき事もはっきりしてて余計な心配事が無かったので、本当に楽しかったです。

 練馬マッチョマンでライブをやり出すと、色んな人に「今日はすごく楽しそうで、ずっと笑ってましたね」とか言われるようになった。まあ、実際楽しかったけど、ずっと笑ってるなんて、そんな事はないだろう、と思ってたんだけど、ライブの度に同じような事を言われた。

 しばらくしてからライブのビデオをもらったんだけど、それはステージのすぐ側で撮っていて、俺をアップで撮ってる場面も多かった。ライブの映像は、撮った時は必ず見るんだけど、そこまで自分の顔や表情がはっきり分かるのは珍しい。それで、そのビデオを見た最初の印象が「これが俺か?」っていう感じだった。

 自分で見てても「こいつは一体、何がそんなに嬉しいんだろう?」という顔をしてた。叩いてる本人としては全く意識してなかったので、それを見てみんなの言うことがようやく分かったし納得出来た。機材やプレイに囚われず、本当に楽しんでる感じだった。「俺は変わったな」とその時思いましたね。それまでもライブは大好きだったけど、ステージに上がってドラムを叩く時は、気合いと表裏一体の恐怖感が常にあったし、いつもギリギリ過ぎて、笑うことなんて出来なかった。

 「そうか、音楽ともっと楽に付き合っても大丈夫なんだ」と、そのビデオを見てて初めて思えたし「こういうスタンスなら、自分は歳を取ってからも、ずっと音楽を続けられるんじゃないか?」と思ったし「練馬マッチョマンをやって良かったな」とも思いました。残念ながら今の練馬マッチョマンは不定期な活動になってしまっているけど、これからも誘ってもらえればいつでも参加するつもりです。

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1 コメント

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今のチェルシ-があるのは... (shinoだぁ~(^-^*))
2005-08-24 12:27:37
チェルシ-、(普段こんな呼び方してないので恥ずかしいっ)想像も出来なかったことが色々あったんだね。話がしたいねぇ。いやっ、話なんかしなくてもツルンデるだけでもいいっていうかさ。