レイノが死んでしまった。
正直なとろ、ここ何年かは縁遠くなってしまっていて、具合が悪かったことも全く知らなかったし、友達と認め合うような間柄ではなかったかもしれない。でも、俺は一時期、彼とバンドを組んで、毎週毎週スタジオに入って曲を作り、ライブをやり、その頃は同じバイトもやっていた。そんなわけで、彼の思い出を少しだけ話すことを大目に見てやってください。
経緯は忘れてしまったけれど、彼がドラマーを探してると聞いて会いに行ったのが始まりでした。俺はブリザードを、彼はキラーメイを辞めて少し経った頃だったと思います。歳も同じだったし、彼はとてもフレンドリーで楽しかったし、すぐに意気投合して「よし!バンドをやろう!!」ということになりました。それからは大体、週一回のペースでスタジオに入り…なんとそれまではドラマーがいないので、打ち込んだドラムを鳴らしてリハをやっていたみたいで…とりあえずは曲を覚え、ドラムアレンジをし、オリジナルを作って行きました。
その頃の俺はバンドをいくつも掛け持ちしながら、かと言ってどれもこれも、それほどお金になるような類の物ではなく、バンドの無い日は昼過ぎに起き出して夜中までゲームをやったりしてるような、だらしない生活だったので、見かねた親から「もうバンドは諦めて、ちゃんと働け」と言われてた時でした。バンドを諦める気は毛頭なかったので、「じゃあ働くか」と思い、人づてに見つけたバイトが深夜のキーパンチャーだったんだけど、俺はパソコンなんか触ったこともなかったのでやれる自信がなく、彼に相談したら「俺もやろうかな」と言ってくれたのでした。「大丈夫だよ、俺が教えてあげるよ」と言って、二人で面接に行きました。場所が日野で、彼の家から車ですぐ、というのも都合が良かったんじゃないかな、と思います。
キーパンチャーは休憩時間が多かったので、バンドのアイデアを練ったり出来たし、夜勤明け、駅まで送ってもらう車の中でリハの音源やネタになりそうな曲を聴いたり…今でも覚えているのがネルソンの「アフター・ザ・レイン」という曲で、俺は今でもこの曲が大好きで時々聴きますが、そういえばこれは彼に借りてダビングしたものでした。
彼とやっていたバンドは「LOVE」という名前で、目黒ライブステーションでやったりしてましたが、その時の対バンが練馬マッチョマンだったこともありました。それから彼は、丁度同じ頃にキラーメイのメンバーが参加して始めたバンド「イエロー・モンキー」をちょっと気にしているようで、渋谷ラママにライブを見に行ったりもしましたね。
・・・今思い返すと、俺は相当ワガママなことを彼に言っていたな、と思います。「こういう曲をやりたから作って」とか「キラーメイのこの曲をライブでやろう」とか、そしてギタリストにどうしても納得が行かなくて「替えた方がよくないか?」とか…その流れで孝之を連れて来てライブをやったこともありましたが。それでも彼は「作って欲しい」と言った通りの曲も書いてくれたし、キラーメイの曲もライブでやってくれたし、孝之のギターを気に入ってくれて、その後、孝之ともバンドをやったりしていました。…本当にいつも優しくて明るくて、いい奴だったと思います。
その他にも色んなことを思い出します。サッカーが大好きだったことや、辛い物が大好きならしく、バイト先で何にでも七味やなんかをドバドバかけていたことや、「レイノって名前は、昔の友達の名前なんだよ」と教えてくれたことや「実は俺はどっちかというと文学志向なんだ」と言われこと等々…いつも陽気で明るい雰囲気で、しかし、鋭くてとても強い目付きをしていたことなんかを思い出します。実はあの頃にも彼は一度体調を崩しました。それが原因でバイトも辞め、彼は治療に専念をしていて、その時は見舞いにも行きましたが、「手術が怖くて仕方なかったよ」といつもの調子で明るく言っていました。「ここからさ、東京湾の花火がよく見えて綺麗だったよ」とも言っていましたね。
訃報に接した日の夜と、その翌日の夜も俺はドラムを叩いていました。やっぱり思い出してしまうし、なんだかぼんやりとした気分でした。このところ疎遠だったことを悔いてしまったし、短い間だったけど一緒にバンドをやってくれたお礼を言えば良かったとか、バイトをしていた当時、体調が悪いことに気付かず、ちょっとからかうつもりで悪いことを言ってしまったことを謝ればよかったとか。「どうすればいんだろう?」と漠然と思ったり、「俺はまだ、こうしてドラムを叩いてるから」とか「孝之とまたやってるのを見せたかった」とか。
そして今日、孝之と連れだって告別式に行ってきて、久しぶりに顔を見、花を手向けることができました。出棺の時には棺を持つメンバーに加わったのですが、バンドをやっていたあの時も、俺はこれ位しっかり支えてやれてたのかな?と思いました。
告別式の場所は西八王子だったのですが、帰りは孝之と途中で別れて一人になりました。久しぶりに中央線から、以前何度も見た景色を見ましたが、日野の駅を過ぎて左側、多摩川のすぐそばにある、彼と通ったバイト先のビルも見つけられました。
彼とやったバンドは色々なことが原因であまり長続きはしませんでしたが、俺にとっては意味のあった大事なバンドの一つですし、俺のドラム・ケースにはガムテープにマジックで書き殴った「LOVE」という名前が残っています。今、彼に伝えたいことは、「ワガママだった俺のことを許して欲しい」、ということと、「まだ当分バンドを諦められない俺を見守って欲しい」、ということです。
心から冥福を祈ります。
正直なとろ、ここ何年かは縁遠くなってしまっていて、具合が悪かったことも全く知らなかったし、友達と認め合うような間柄ではなかったかもしれない。でも、俺は一時期、彼とバンドを組んで、毎週毎週スタジオに入って曲を作り、ライブをやり、その頃は同じバイトもやっていた。そんなわけで、彼の思い出を少しだけ話すことを大目に見てやってください。
経緯は忘れてしまったけれど、彼がドラマーを探してると聞いて会いに行ったのが始まりでした。俺はブリザードを、彼はキラーメイを辞めて少し経った頃だったと思います。歳も同じだったし、彼はとてもフレンドリーで楽しかったし、すぐに意気投合して「よし!バンドをやろう!!」ということになりました。それからは大体、週一回のペースでスタジオに入り…なんとそれまではドラマーがいないので、打ち込んだドラムを鳴らしてリハをやっていたみたいで…とりあえずは曲を覚え、ドラムアレンジをし、オリジナルを作って行きました。
その頃の俺はバンドをいくつも掛け持ちしながら、かと言ってどれもこれも、それほどお金になるような類の物ではなく、バンドの無い日は昼過ぎに起き出して夜中までゲームをやったりしてるような、だらしない生活だったので、見かねた親から「もうバンドは諦めて、ちゃんと働け」と言われてた時でした。バンドを諦める気は毛頭なかったので、「じゃあ働くか」と思い、人づてに見つけたバイトが深夜のキーパンチャーだったんだけど、俺はパソコンなんか触ったこともなかったのでやれる自信がなく、彼に相談したら「俺もやろうかな」と言ってくれたのでした。「大丈夫だよ、俺が教えてあげるよ」と言って、二人で面接に行きました。場所が日野で、彼の家から車ですぐ、というのも都合が良かったんじゃないかな、と思います。
キーパンチャーは休憩時間が多かったので、バンドのアイデアを練ったり出来たし、夜勤明け、駅まで送ってもらう車の中でリハの音源やネタになりそうな曲を聴いたり…今でも覚えているのがネルソンの「アフター・ザ・レイン」という曲で、俺は今でもこの曲が大好きで時々聴きますが、そういえばこれは彼に借りてダビングしたものでした。
彼とやっていたバンドは「LOVE」という名前で、目黒ライブステーションでやったりしてましたが、その時の対バンが練馬マッチョマンだったこともありました。それから彼は、丁度同じ頃にキラーメイのメンバーが参加して始めたバンド「イエロー・モンキー」をちょっと気にしているようで、渋谷ラママにライブを見に行ったりもしましたね。
・・・今思い返すと、俺は相当ワガママなことを彼に言っていたな、と思います。「こういう曲をやりたから作って」とか「キラーメイのこの曲をライブでやろう」とか、そしてギタリストにどうしても納得が行かなくて「替えた方がよくないか?」とか…その流れで孝之を連れて来てライブをやったこともありましたが。それでも彼は「作って欲しい」と言った通りの曲も書いてくれたし、キラーメイの曲もライブでやってくれたし、孝之のギターを気に入ってくれて、その後、孝之ともバンドをやったりしていました。…本当にいつも優しくて明るくて、いい奴だったと思います。
その他にも色んなことを思い出します。サッカーが大好きだったことや、辛い物が大好きならしく、バイト先で何にでも七味やなんかをドバドバかけていたことや、「レイノって名前は、昔の友達の名前なんだよ」と教えてくれたことや「実は俺はどっちかというと文学志向なんだ」と言われこと等々…いつも陽気で明るい雰囲気で、しかし、鋭くてとても強い目付きをしていたことなんかを思い出します。実はあの頃にも彼は一度体調を崩しました。それが原因でバイトも辞め、彼は治療に専念をしていて、その時は見舞いにも行きましたが、「手術が怖くて仕方なかったよ」といつもの調子で明るく言っていました。「ここからさ、東京湾の花火がよく見えて綺麗だったよ」とも言っていましたね。
訃報に接した日の夜と、その翌日の夜も俺はドラムを叩いていました。やっぱり思い出してしまうし、なんだかぼんやりとした気分でした。このところ疎遠だったことを悔いてしまったし、短い間だったけど一緒にバンドをやってくれたお礼を言えば良かったとか、バイトをしていた当時、体調が悪いことに気付かず、ちょっとからかうつもりで悪いことを言ってしまったことを謝ればよかったとか。「どうすればいんだろう?」と漠然と思ったり、「俺はまだ、こうしてドラムを叩いてるから」とか「孝之とまたやってるのを見せたかった」とか。
そして今日、孝之と連れだって告別式に行ってきて、久しぶりに顔を見、花を手向けることができました。出棺の時には棺を持つメンバーに加わったのですが、バンドをやっていたあの時も、俺はこれ位しっかり支えてやれてたのかな?と思いました。
告別式の場所は西八王子だったのですが、帰りは孝之と途中で別れて一人になりました。久しぶりに中央線から、以前何度も見た景色を見ましたが、日野の駅を過ぎて左側、多摩川のすぐそばにある、彼と通ったバイト先のビルも見つけられました。
彼とやったバンドは色々なことが原因であまり長続きはしませんでしたが、俺にとっては意味のあった大事なバンドの一つですし、俺のドラム・ケースにはガムテープにマジックで書き殴った「LOVE」という名前が残っています。今、彼に伝えたいことは、「ワガママだった俺のことを許して欲しい」、ということと、「まだ当分バンドを諦められない俺を見守って欲しい」、ということです。
心から冥福を祈ります。