東京新聞(夕刊)1/16、1/23に掲載された石井研士(国学院大学教授)さんの文章を読んで、いろいろなことを考えた。
宗教とか信仰なんてものは、ただ「生きる」、つまり生命を単に維持することにおいては不必要なものであるが、よりよく「生きる」ためには避けては通れぬものであろう、というのが私の基本的な考え。そして、信仰を得るということは、病や対人関係のトラブル等の非日常的な機会に、非日常的な信仰体験に出会い、それを日常レベルに浸透させていくことだと思っている。
現在のメディアでは、占いや神秘体験等の本来宗教性を帯びた内容の番組が、その「ウサン臭さ」をキレイに消して頻繁に登場している。一方、ラジオ等で頻繁に流れる某教団のコマーシャル等を除けば、特定の教義や教団名が表に出るような番組(早朝などにやっていたもの)は減っているらしい。
石井さんは「この国の宗教文化が、教育のなかで正当に評価される機会を失いながら、家庭で受け継がれることもなく、バラエティー番組として存続していくことに大きな危惧を感じざるをえない」と言っているが、なんでもニオイを消してしまえば疑いもなく日常レベルで受け入れてしまうような雰囲気は、ニオイのする人間からみても、ちょっとオカシイ気がする。
宗教とか信仰なんてものは、ただ「生きる」、つまり生命を単に維持することにおいては不必要なものであるが、よりよく「生きる」ためには避けては通れぬものであろう、というのが私の基本的な考え。そして、信仰を得るということは、病や対人関係のトラブル等の非日常的な機会に、非日常的な信仰体験に出会い、それを日常レベルに浸透させていくことだと思っている。
現在のメディアでは、占いや神秘体験等の本来宗教性を帯びた内容の番組が、その「ウサン臭さ」をキレイに消して頻繁に登場している。一方、ラジオ等で頻繁に流れる某教団のコマーシャル等を除けば、特定の教義や教団名が表に出るような番組(早朝などにやっていたもの)は減っているらしい。
石井さんは「この国の宗教文化が、教育のなかで正当に評価される機会を失いながら、家庭で受け継がれることもなく、バラエティー番組として存続していくことに大きな危惧を感じざるをえない」と言っているが、なんでもニオイを消してしまえば疑いもなく日常レベルで受け入れてしまうような雰囲気は、ニオイのする人間からみても、ちょっとオカシイ気がする。
覗いてみたけどワカラナイ・・・。申し訳ない。
根本的に考え直すことが必要です。
その一つの提言は、次のブログ。
http://blog.goo.ne.jp/i-will-get-you/
いわゆる神の存在証明がもたらす意味について
一般法則論者