Rin's Tsure-Zure Diary

Tsurezurenarumamani Kataru wa …

進まないんです。。。

2006-09-15 12:36:42 | 存在と時間
 さて、ハイデガー『存在と時間』。これがやっぱりなかなか難航しているんです。今回は、節ごとに要約をしながら読み進めているんですが、たまに1週間ぐらい空けちゃうと、どうしても前に戻って読み返すことになる。そうするとさらに前が気になる…なんてことを繰り返しているんです。それで、結局解説書なんかに「浮気」したりして、さらに遅れる。悪循環。

 今は、まだ世界内存在の「世界」のところです。そう、道具連関です。ここね、客観的な世界ではなく、我々が生きる世界というのは、個々の人間(ハイデガーでは現存在)の「今、ここ」による「世界」があって、というか「世界」のありようはそれしかないってことになるんだろうけど、今の時点で納得できないところがアリです。

 それは、ハイデガーが言うように、そんなに人間中心なあり方しかない?ってこと。例えば、行ったことないけどヒマラヤとかの話。私たちの日常生活における環境っていうか「世界」はたしかに人間のサイズとか動くスピードなんかをどこかしら前提にして作り上げられているけど、ヒマラヤの山々の雄大さとかに出会ったら、それはものすごいスケールであって、人間が自然の一部なんだなぁ~って実感すると思う。人間の存在を否定というか、問題にしないような自然のあり方は、どう捉えられるんだろう?
 
 読み進めていけば、明らかになるのかもしれないけど、世界の捉え方というのは『知覚の現象学』のメルロ=ポンティとは、根本的に異なるような気がなんとなくします(具体的に書けなくてスミマセン!)。
 
 そして、明日の晩から再び家を離れます。今度も10日ぐらい。あ~、また逆戻りかも~~~。

初!Jリーグ

2006-09-14 09:46:27 | Weblog
昨日、長男とJ2湘南ベルマーレVS.ヴィッセル神戸戦を観てきました。サッカー観戦は高校時代に国立競技場へ高校サッカーに行ってからだから、18年ぶりぐらいかな?結果は2-2の引き分け。わがベルマーレの失点は、どちらもキーパーのこぼしたボールを押し込まれたものだったからか、途中なかなかボールがつながらずに相手に奪われる場面が目立ったせいか、終了後熱心なサポーターからは結構きつい反応が返ってましたねぇ。
元ベルマーレは現在10位ぐらい。対する神戸は昨日の引き分けで1位になったらしい。全体的なプレーのレベルに大きな違いはなかったけど、ミスがどうしても相手の決定機になってしまうところがイタイですな。それと、中盤がボールを持った時やスローインの際にボールをもらおうとする動きが小さいような気がしました。少し自信がないのかな?
ベルマーレのホームページで監督のコメントを見たところ、現在はチーム建て直しの時期のよう。長い目で応援しましょう!

さて、長男にとって昨日は初のサッカー観戦。我が家ではめったにこういうイベントがなく、さらに退場者2名という荒れた雰囲気も影響してか興奮して帰ってきました。やっぱりホンモノはよいですね!

私が9.11に思うこと

2006-09-11 15:10:36 | Weblog
あれから5年とのこと。この出来事に関わり様々な被害に遭われた方に深く哀悼の意を表します。

昔、ある雑誌で、脚本家の山田太一さんが「臨床心理学に期待する」と題して記されたエッセーに次のようなことが書かれていた。

氏がアメリカのある町でメディテーション(瞑想)の会に参加した際、ある参加者から次のような言葉を聞かされたという。

「フロイド以降、医者って奴は、患者が忘れたがってる過去とか深層の心理をほじくり出して、傷をひろげてるんだ。そんなことは沢山だ。そんなことで心は癒せない」

この参加者は、だから瞑想という治療を選択したのだろう。山田氏は、この参加者に出会った感想を次のように述べている。

「私がそれに共感したというのではない。だったらこういう場所に、物は書かない。
ただ、彼の中の、強い、いってみれば思考停止欲求のようなものには、胸をうたれた。怖いような気もした。・・・
一気に単純化してしまいたい欲求。
そのようなことのない、ねばり強い臨床科学に期待する。・・・」

私たちの住むこの世界は多様である。しかし、「私」として何かを述べ立てようとする時、そこには「私」を一つの中心とした秩序が生まれる。そうしなければ、コトバを発することもできなくなってしまうだろう。

その秩序を例えば”敵-味方”、”役に立つ-立たない”、”正常-異常”といった単純なものにしようと煽り立てる力が大きく社会に働いているような気がしてならない。それが、私たち一人一人の「一気に単純化してしまいたい欲求」とつながった時、その勢いは加速してしまうのではないか。そんなことを常に恐れとして抱いている。

様々な臨床現場に携わる人々と同様、私も粘り強く考え、行動できる信仰者でありたいと、今日の日に思う。

おせっかいモード

2006-09-08 14:21:11 | Weblog
9月は天理教の人々が全教を挙げて布教に取り組む月です。私も普段よりも意識的に戸別訪問等を行っています。

なぜこんなことをするのか。みなさんのお宅を訪問していて、話を聞いて頂けたり、おさづけ(病人の方に対して神様の代わりに私たちがさせて頂く宗教的な行為です)を取り次ぐことはなかなかありません。だから、なかなかできない、やり始めても続かない。

世の中には健康や家族関係に悩み苦しんでいる方が大勢いらっしゃいます。教えが伝わりにくいのは、おそらくその悩みや苦しみを解きほぐすことと、天理教の教えとの間になかなかつながりが見出せないのでしょう。それは、私たち信仰者がきちんと教えの根本を伝え切れていないからに他なりません。

大正時代の私の曽祖父母も、最初は天理教の話なんてまともに聞いていなかったようです。ある布教師が嫌われ、疎まれながらも根気強く押しかけてくださったことで、私の先祖は心を救っていただきました。

多くの人が宗教にマイナスのイメージを持つようになったようですが、自分が「たすけて頂いている」という感謝の気持ちをエネルギーとして、いつもよりもちょっと”おせっかい”モードで、神様とみなさんの橋渡しができればなぁ、と思っています。