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布施弁天鐘楼と飯塚伊賀七のこと 1

2021年10月04日 | ぼくのとうかつヒストリア
はじめに
子供の頃から親しんでいた布施弁天。何度か訪れるうちに境内にある鐘楼の不思議さに惹かれました。一般的な鐘楼とは趣を異にしていて装飾が多すぎるし、鐘がどこにあるのかも分かりません。この鐘楼がなぜ、どのように建てられたのか、好奇心を掻き立てられました。



【写真1】
布施弁天の顔、楼門(最勝閣)。階下に四天王、階上に釈迦三尊を安置しています。竜宮城を思わせる白い1階部分が弁天様らしいところ。周囲は寄進された石柱で囲まれています。


1 布施弁天
布施弁天(紅龍山東海寺、千葉県柏市布施)は、地元では布施の弁天様などと呼ばれて親しまれている真言宗のお寺です。創建は大同2年(807)という名刹で、関東三弁天の一つに数えられています。
布施は利根川に近いので、江戸時代には舟運で栄え、弁財天も多くの参拝者を集めたと言われます。ご本尊は弘法大師がお作りになったという八臂弁財天像。


子供の頃は、田んぼの中の山にある竜宮城のような寺という印象でした。曙山(現あけぼのやま農業公園)から松並木の参道、鳥居があり、楼門のすぐ下には食堂兼土産物店(弁天茶屋)があり、必ず立ち寄ったものです。それ以外は見渡す限り田んぼでした。参道は雨の後はぬかるんで歩くのに苦労しました。

江戸時代後期に赤松宗旦が著した『利根川図志』は「布施弁才天社」を挿絵入りで紹介しています(図1)。その挿絵が子供の頃見た風景とほとんど変わっていないことに驚きます。昭和30年代頃までは江戸時代とほぼ同じ風景だったということになるかも知れません。今は、農業公園の一角となり風景は一変しましたが、四季それぞれに地元や近隣、また遠方からの参拝客で賑わっています。



【写真2】
参道からの眺め。楼門と本堂の屋根が重なって見えます。子供の頃、最も印象深かった松並木は、この写真に見えるものくらいになってしまい寂しいところです。



【写真3】
古い絵葉書(大正時代)に記録された門前風景。参道の松並木、小さな鳥居、木立の陰の茶屋が判ります。楼門の白さが目立ちます。周囲の木立は現在ほど密生してはいないようです。



【写真4】
上の絵葉書とほぼ同じアングルで撮影してみました。楼門の上に本堂の屋根が見えるのは変わりがありませんが、田んぼは駐車場となり一変しています。



【写真5】
あけぼの山公園(曙山)から見た布施弁天全景。山は紅龍山と名付けられ、『利根川図志』に、「大同2年(807)7月7日の朝、湖上に紅龍現れ、一の塊(つちくれ)を捧げて島を作る」と縁起が引用されています。
写真は、『図志』の挿絵(下図)とだいたい同じ範囲ですが、画面右側に筑波山(写真では見切れています)が、左側には、現在の「渡し」と言える新大利根橋(白いガードレールの一部が見える)が位置します。『図志』には、「戸頭の渡舟を望み、曙山の桜楓を眺めて、頗る勝景と称するに足れり」とあり、図の左側に布施村の家々と渡し付近の様子、その奥に筑波山が描かれています。


【写真ア】別テイク写真です。右端に筑波山がうっすらと、左端に白いガードレールが、微妙ですが、確認できます。



【図1】
赤松宗旦著『利根川図志』 (安政2年(1855)刊) 巻二から「布施弁才天社」
埼玉県立図書館所蔵(一部トリミング)



【写真6】
布施弁天本堂は、大きな屋根、総朱塗りで重厚な中にも華麗な印象で目を引きます。
布施弁天は、布施村が本多氏の領地になると手厚い庇護により発展します。宝永2年(1705)には布施村の東海寺(真言宗)が移転し、布施弁天と東海寺が一体化した神仏混交の形態となります。その後、享保2年(1717)に現在の本堂が建立されました。



【写真7】
古絵葉書(明治末~大正初期頃)の本堂。堂々とした藁ぶき屋根です。手前の人物と比べるとその大きさが判ります。存在感のある建物だったことでしょう。志賀直哉の短編『雪の遠足』(昭和3年作)にも「本堂の厚い茅葺きは立派なもの」と書かれています。(右下の白い点は破損)



【写真8】
上の絵葉書と概ね同じアングルで撮影してみたもの。



【写真9】
本堂の見事な木鼻彫刻。




2 布施弁天の鐘楼
さて、この本堂の脇に不思議に思っていた建物があります。
御影石を積んだ土台が八角形、その上に円形のベランダのようなものが張り出し、十二面の花頭窓を囲んでいます。その上に乗る大きな屋根は銅板葺の入母屋造で四角形。軒下には十二支の彫刻が突き出ていて、鐘楼としては凝り過ぎではないかと思える外観です。しかも、鐘楼なのに鐘が見当たりません。

説明板を読むと設計は飯塚伊賀七とあります。身分は名主。しかも、発明家だと言うのです。名主が建物の設計ができるのでしょうか? しかも、布施から遠い谷田部の在。現地調査、工事の監理はどうしたのでしょうか、と疑問が湧き上がります。



【写真10】
古絵葉書(大正7年以降)に見える鐘楼の姿。



【写真11】
鐘楼の全景を上の絵葉書と同じアングルで撮影したものです。鐘楼の周囲の環境と出入り口の様子が異なっています。
『利根川図志』の布施弁才天の挿絵(図1)では、本堂の隣にこの鐘楼が描き込まれていて、特徴的な円形の中央部分が見てとれます。

この風変りな鐘楼が造られる前、弁財天では、老朽化した先代の鐘楼の建て替えを計画していました。まず、楼門の二階に設置しようとしたのですが重量の関係から許可されませんでした。
そこで、改めて鐘楼堂を再建することとし、その設計を評判が高く信者でもあった飯塚伊賀七に依頼したという説があります。

飯塚家に残る設計図の日付は文化7年(1810)4月。信心深かった伊賀七は天下の布施弁天のために意気込んだことでしょう。ちょうど壮年期にあたり、十分な自信があったのではないでしょうか。棟梁、職人も自らの技を惜しみなく注ぎ込んだはずです。本堂に引けを取らない華麗で豪華な鐘楼が完成したのは文化15年(1818)と少し時間がかかったようです。



【写真12】
鐘楼の裏側に回ると鐘を突く橦木を見ることができます。十二角形の空間の内部に鐘を吊り、橦木は半分が窓から外に出る構造です。唯一無二の形態ではありませんが、からくり臭いではありませんか。時を告げる大きなからくり時計をコンセプトとしていたのかも知れない、というのは全くの私の空想です。

ところで、言い伝えでは、大工たちは大きな鐘を入れる方法が分からず、急遽、伊賀七に照会したということです。すると、先に入れて吊るせばよいと言われたそうです。鐘楼一体型というか、完成後の搬出入は想定していなかったのでしょう。
ところが、戦時中に軍により鐘が供出されることになり、その際、出口より大きい鐘の出しようがなく、ついに鐘を三つに割って搬出したと伝わっています。まったく野蛮なことをしたものです。
現在は復元した鐘が下がっているとのことです。さて、その鐘はどのようにして搬入したのでしょう。



【写真13】
軒下の構造とその下の木鼻彫刻は、これが鐘楼であることを忘れさせます。12の彫刻が方角、時刻を指すことは容易に知れますが、その巧みさは当時の大工(常陸や下総の職人)の腕のよさを物語ります。右に見える木鼻の装飾は西を向き酉が彫られています。



【写真14】
写真13の一部(酉)を拡大したものです。




【写真15】
布施弁天鐘楼堂の設計の際、伊賀七が参考にした可能性があると言われる来迎院(天台宗)の多宝塔(茨城県龍ヶ崎市馴馬町)。関東では数少ない多宝塔で弘治2年(1556年)頃建立とされています。下が方形で上の塔身は円形。その間は白い漆喰が塗られた饅頭のような亀腹という部分で連接されています。こけら葺きの均整のとれた美しい塔です。国指定重要文化財(建造物)。



【写真16】
円形になっている多宝塔の塔身部分は弁才天鐘楼と相通じるものがあります。



注記
①布施弁天の本堂、楼門、鐘楼は、いずれも千葉県指定有形文化財です。
②飯塚伊賀七は、フルネームかつ敬称を付すべきですが、敬意を込めて伊賀七と表記させていただきました。
③布施弁天は、布施弁才天、弁財天等とも表記し、特に統一をしていません。
④旧字体は新字体に改めました。
⑤写真は、2021年9月中・下旬に撮影したものです。

修正履歴
2021/10/5 写真ア及び文章を追加しました。

Nikon Z 6 / NIKKOR Z 24-70mm f/4 S


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