大江戸日記

ダイエット・ダイアリー(心と身体のダイエット)

東京オリンピック遺物

2006年08月31日 15時54分59秒 | Weblog
昨日、福岡とのコンペに勝ち、東京が2016年国内オリンピック候補地となった。
しかし、解説では、今回はアジアは分が悪く、従来開催のない、南米やアフリカが有力だろうという。さもありなん。
前回東京オリンピックがあったのは、1964年。早、42年前である。当時、東海道新幹線・首都高速など社会的インフラが急速に整備され、日本は高度成長に突っ走った。その結果、ひずみが生まれ、25年後にはバブルが弾け、また、環境破壊も進み、例えば、日本橋架橋を地下化するだけで、5,000億円の代償となるという。
一方、東京オリンピックの直接の遺物は代々木の体育館、他が有名であるが、忘れてならないのが、当時東京に街角に作られたダストボックスである。今は分別ゴミとか、テロ対策で街角にゴミ箱など置かれていない。コンビニには店先に設置されているが使用に制限ある。しかし、あのオリンピック用に作られたダストボックスは確実に東京の美化に役立った筈だ。
42年経った現在、あれだけ東京の至る所にあったボックスは区画整理や道路工事で絶滅しつつある。そんな中で、東京丸の内仲通りのボックス受けだけは、何と先月まで残っていた。本記事の写真、今年8月15日の撮影である。何か予感がして管理人が撮影したものだ。それが、何と、本日同所を通りかかったら、何と消えていた。地面は掘り返された跡のアスファルトが未乾である。
これは、必要のなくなったダストボックスを何の感慨もなく、恐らく三菱地所が撤去したのであろう。そして件のボックス受けは今頃産廃として処理されているだろう。
過去をないがしろにする者に未来はない。この一事を見ても、2016年の東京開催は100%、無い。

ターミナルI駅での出来事

2006年08月30日 12時51分08秒 | Weblog
昨晩、22時過ぎであろうか、歩き慣れた私鉄I駅の改札に向かう地下道を歩いていた。
20前後の女性が横切る。夏なので開放的な服装をしているが、顔立ちは端整だ。脚も長く、スタイルが良い。
と思うまもなく、50歳過ぎの不健康そうな勤め人の男と女性が交差する。その際、2人は、軽く接触する。男はそのまま歩き続けようとする。
女性は怒った。男に歩み寄ると、文句をつける。男は面倒くさそうに言い訳をする。女性は何とか、男から謝罪の言葉を得ようとするが、埒が明かない。
1分程、脇でその様子を見てから、管理人は2人に声を掛ける。
「さきほどから、見ていましたが、(男に向かって)ぶつかった時、気づきました?」男、うなずきながら、「ああ、気づいた」管理人、「何も悪気があってぶつかった訳でもないし、どちらが悪くもないけれど、ついぶつかる時ってありますよね。ボクも良くそんな事あるんですが、そんな時は兎に角、ぶつかった相手を振り返って手を振るとか、会釈しちゃえば、何事もないですよね」男、女性とも、その通りだ、と言う様に頷く。管理人「だから、今回も何か謝りのジェスチャーをすれば、なんて事ないですよ」男「そうですね、(女性に向かって)すみませんでした」女性、男ではなく、管理人に向かい満足そうに微笑む。そして小さな声で言う、「ありがとうございました」
そして、3人は夫々の行き先に向かって分かれる。管理人が10Mも歩いた時であろうか?ふと、呼び止められる。「待ってください」振り返る。今の女性だ。「あのう、今お時間ありますか?」管理人に向かってはにかみながら問い掛ける。

(これは「電車男」と違い一部フィクションです)

知り合いのQ君に告ぐ

2006年08月30日 11時16分46秒 | Weblog
順風万班の管理人であるが、君のことだけが気がかりだ。

何時まで、独身を続けるのだ?

何時まで、面白くもないブログを送るのだ?

何時まで、コミュニケーションを拒否するのだ?

若し、このブログが眼に触れたなら、また身に覚えがあるなら、是非、コメントを残して欲しい。

どんな怨嗟の言葉でも良い。

君の本当の意見を聞きたい。

沈黙は、罪だ。人を傷付けている事を忘れないで欲しい。

充電期間

2006年08月30日 10時59分37秒 | Weblog
9月から、充電期間に入りたい。
平均年齢が伸びる中、管理人も高齢化社会を加速する立場にはなりたくないが、個人的には、最低100歳まで生きたい。その為、体力を充実するとともに、経営や歴史の知識を棚卸したい。今がマラソンで言えば丁度、折り返し点に差し掛かるところ。
難しく考えず、環境を変えてリフレッシュすると思えば良い。
このブログは、日本語で記入するものとして、残す積りだ。
日本の国内ニュースは、yahooで文字情報を、Youtubeで画像もチェックできるので、便利だ。ノートPCと通信手段があれば、地球上のどこへ言っても平気。
一方、ミラーサイトとして、英文のブログも開設する。
同じハンドルネームにするので、御興味ある向きはそちらもご覧頂ければ幸いである。

辞世三首(回答)

2006年08月29日 12時53分29秒 | Weblog
もうお分かりと思うが、上から、

お市の方(柴田勝家と北の庄で刺し違える)

駒姫(最上義光娘、豊臣秀次の側室にして、秀次謀反で京三条河原にて斬殺)

細川ガラシャ(明智光秀娘、関が原の戦時、大阪城登城を拒否し家臣に命じ刺殺)

今、NHKで放映している「功名が辻」では、お市の方は大地真央、細川ガラシャは長谷川京子が演じている。長谷川が適役なるも、大地はちょっと、疑問。織田信長の妹、戦国一の美女であるから、配役は困難だ。

駒姫は、余りにも悲劇的だから、ドラマには登場しないであろう。やはり、東国一の美しい姫だから、上戸彩か。(困った時の上戸頼みである)

旧東海道を行く(その2)

2006年08月28日 10時44分50秒 | Weblog
蒲田から新子安まで。紀行文第二弾である。

この歳になって、旅をする時は、以下3点の原則を貫きたい。
①費用は最少に。出来れば、博打にて路銀を稼ぎ、プラスに持っていく。
②一人旅を楽しむ。複数で行くと、ペースが守れない。
③テーマを決める。何でもよいが思い出に残る為、身体を鍛えるとか、どうしても見学・体験したいものがあるとか。単なる温泉旅行などは避ける。

今回も上記3点を満たす小旅行であった。

蒲田のカプセルで目覚める。前日の疲れからか、目覚めると8:30近い。大浴場に行く時間がない。慌しく、洗顔・荷造り。
チェックアウトして街へ。前夜から眼を付けていた駅前の「たちそ」へ。大盛のモリソバうまし。前でカレーを食していた年寄りが食器を片付けず、立ち去ろうとしたので、注意しようと思ったが、ティッシューを取りに行っただけであった。年寄りは動作が緩慢であるので、他人の誤解を受けやすい。誤解される位なら、早く淘汰されるべし。
第一京浜方面へ。腹具合が余り宜しくない。構わず歩き始める。
多摩川を越えるまでが長い。京浜急行沿いの国道をダラダラ歩く。神社仏閣多し。これが、東海道の特徴だ。
旧東海道は、道路の幅員が約4mの2車線だから、昔のままであろう。そう言えば、前日、青物横丁の旧東海道沿いに大型マンションを住友不動産が建設するとの看板があり、住民は大反対している様だ。その通りである。いくらマンションとは言え、昼夜駐車場から出入りする車があっては、周辺の住民は迷惑である。
多摩川を越える。といっても六郷土手の駅から多摩川大橋の川幅部全長の約7割は、河原であり、野球場・ゲートボール場、そして、ブルーシートハウスならぬホームレス仮設住宅だ。多摩川は、川幅50mもない。
橋を渡り、すぐのファミマで用を足す。ついでに、キャべジンコーワ液を飲む。これは効き目顕たかである。
気がつけば、川崎競馬場は多摩川土手沿いと言ってもいい立地に作られている。いつもJR川崎駅・京浜急行を利用するから、気がつかなかった。とすると、川崎は読んで字の如く、多摩川に張りついた街という事になる。
川崎駅方面を臨むと、有名の堀の内のソープ街、中に入ったが最後、二度と出られない様な佇まいである。
川崎宿の旧道は、蛇行する商店街である。開放的な雰囲気が江戸とは一線を画する。程なく、八丁畷駅となる。ここは、芭蕉の死の前年元禄7年(1694年)、故郷伊賀の国に帰る時、見送りの弟子と最後に茶店で別れを惜しんだ場所。その時の句に、

  麦の穂をたよりにつかむ別れかな

と吟じている。同年、旅の途中大阪で、

  旅に病んで夢は枯野を駆け巡る

なる余りにも有名は辞世を残している。
現代の八丁畷は、芭蕉の時代そのままのさびれた、忘れられた様な、活気のない街だ。しかし、蒲田を立って既に5km余り、走るのとは異なる歩くのは体力的に消耗がしんどく、一時の涼を求めて、昔ながらの喫茶店に。既に、昭和の時代と共に全滅した様な店だ。アイスコーヒー、うまし。ふだんは、ガムシロップは入れないが、この日だけは、半分程。急激に体力を回復する。
さあ、ここからは、鶴見川を渡り、ゆるやかな登り坂である。JR鶴見駅は中途半端に栄えている。途中で寄ったコンビニの高校生アルバイトの女の子の笑顔良し。何年ぶりかで、ガリガリ君を食す。マンゴー味だ。中々グッドである。このシリーズは何と言ってもコーラ味の独創性を買うが、それ以外は今いちであった。マンゴー味を食して分かった。やはり酸味だ。酸味は甘味と同時に疲労回復を促す。徒歩旅行は、食欲を生じない。ただひたすら渇く。しかし、水や茶などでは疲労回復の助けにはならない。
鶴見から魚河岸(本当に鮮魚屋が多い)を通り、住宅地に入り、生麦地区へ。言わずと知れた、幕末の生麦事件の舞台だ。事件概要を引用する。
 
生麦事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

生麦事件(なまむぎじけん)は、江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現 神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件である。京急本線生麦駅近くに事件の石碑が残る。

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経緯
江戸から京都に向かう途中であった薩摩藩主島津忠義の父 島津久光の行列が生麦村に差し掛かった所、前方を横浜在住のイギリス人4人(ウィリアム・マーシャル、ウッジロップ・チャールズ・クラーク、チャールズ・レノックス・リチャードソン、マーガレット・ポロデイル)が乗馬のまま横切った。これに怒った一部藩士が斬りかかり、リチャードソン1人が死亡、マーシャルとクラークの2人が負傷した。

この事件でイギリスは薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩は拒否し、結果として翌年 薩英戦争が勃発する。

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生麦事件を題材とした作品
吉村昭『生麦事件』上、下(新潮文庫、2002年)

事件の現場は、閑静な住宅街である。折りしも、現場の碑の真向かいの家で葬式を営んでいた。真夏の死だ。共に合掌。
そのまま直進すると、キリンビール生麦工場が見える。既に、この日10kmは歩いている。時刻は昼下がり。横浜までの走破は諦め、ビール工場見学を決意する。
ここは、キリンでは横浜工場と称するらしい。国内11工場の内、規模ではブービーの10番目。しかし、キリンの操業地は横浜の外人墓地辺りで、関東大震災で工場が崩れ、当地に移転したというので、実質的な創業工場の様だ。スタッフは親切だが、発酵の箇所で上面発酵と下面発酵の違いを質問すると、要領を得ず。
工場見学の後は、お約束の試飲会。ここで飲みすぎ、急性アルコール中毒で死ぬと、死因は試飲となる。10年程前であろうか、サントリー府中工場で飲んだモルツは印象に残るうまさだった。時間のある限り飲み放題でもあった。ガイドの女性が管理人の住所(当日書き残したもの)に手紙を送って来た事も驚愕の出来事だった。ここでは、一番絞りの麦汁を供する。試飲は2杯のみ。心なしかトゲトゲしい味がする。水の違いであろうか。
そして、JR新子安駅へ。すっかり疲労した脚を引き摺り、漸く地元へ戻る。その脚で、軽い気持ちで地元Oへ。その後の出来事は、2つ前に記事を御参照願い度い。



  

辞世三首

2006年08月27日 14時38分34秒 | Weblog
1583 さらぬだに打ちぬるほどの夏の夜の夢路にさそう時鳥かな 

1595 罪をきる弥陀の剣もかかる身のなにか五つの障りあるべき

1600 ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ

いずれも戦国時代、3人の悲劇の女性が詠んだ物。作者はお分かりだろうか?
年代で判断して頂き度い。

特報!大爆発

2006年08月27日 13時15分24秒 | Weblog
昨夕、地元Oで、2台並んだスーパー海の嵌り台を600回転余りから回し、スーパーが多発するので、かまわずつぎ込み850回転付近で、ダイビングサムが出現。プレミアムに付き、ワンセットと思いきや、何と18連する。途中で、閉店間際の図書館に行き、図書を受け取った事が奏功したのか、単発で当たっても、ラウンド中、確変引き戻しが連発したせいであろうか。18連終わっても、未だ当たる気配がする。以前、8連の後、保留玉連チャンがあった事を思い出し、期待したら、101回転目にクロスで海老のピョコ戻りとなった。隣の嵌り台もいつしか3人目で1500回転強で確変を引いており連チャン中であった。(結局13連)
こちらは、再度始まった確変が19連もし、最後時短中に閉店時間に。何と、18+19=37回大当たり。勿論、スーパーでは自己最高。総大当たり45回と台の新記録を更新した。不思議な雲に乗る様な気分であった。
やはり、1000回転付近の確変戻しは強い。しかし、それまでに10回前後の大当たりは必要だ。前日、前々日から好調である事も条件。


旧東海道を行く

2006年08月27日 12時30分25秒 | Weblog
金曜日、昼過ぎ地下鉄で大手町へ。
日本橋を基点に東海道を歩く旅を始める。
昼時の中央通りは混雑して歩きにくい。銀座は特にそうだ。人混みはあるが、活気のない事夥しい。漸く、喧騒を逃れて、新橋から汐留めへ第一京浜を歩く。
この辺りは、学生時代からなじみがあり、バブル期を経て、それが弾けて、また新しいビルが建ち、という訳で、何とか生き続けている。
田町、札の辻(歩道橋から見る東京タワーは恐らくベストアングルであろう)、高輪大木戸へ。見れば、この古びた石垣はこれから続く東海道の遺物の前触れであった。
品川へ、駅周辺は変わった。新井将敬代議士が自殺したパシフィックホテルは古びた外観をさらしているが、線路の向こう側は、30階級の新しいビルが林立、廃墟だ。
品川で佇む女性は皆新鮮に見える。しかし、残念ながら、覇気のない男のせいで、3-5年後には朽ち果てるのだろう。花の色は移りにけりな、である。
八山橋の踏み切りを越える。坂を下り、「連」という漢字を掲げる古い建物(現在はレストラン)の坂を今度は上がると、急に細い道となる。幅員は4mが標準、2車線はあるが、これが旧東海道の始まりなのだ。東京に長年住んでいても、鉄道を利用したり、車で移動していたら、この道の存在は一生気づかないかも知れない。正に今回その道を歩くのだ。しばらくは、品川宿の面影を歩く。主に静岡から送られた松が植えられている。日本橋から2里(8km)である。
歩き始めは、快調だが、やはり暑い。気温は30度に満たないが。路傍で氷レモンを食す。甘い、しかし150円は安い。
立合川の橋(泪橋)を渡る。鈴が森に送られる罪人の家族が最後に別れを告げるところだ。そこを越え、交差点を左折すると、大井競馬場だ。直進する。間もなく、鈴が森刑場跡だ。普通の駐車場脇にこんもりとした木立となっている。ここで江戸時代処刑が行われた。その有様が今もそのまま残る。江戸時代にタイムスリップどころか、その当時、そのままだ。
当地ゆかりの2名の経歴をWIKIPEDIAにて引用する。

八百屋お七 (やおやおしち、寛文8年(1668年)? - 天和3年3月29日(1683年4月25日)) は、江戸時代前期江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘。恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし、浄瑠璃等の題材となった。生年は1666年とする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となった。

お七は1682年(天和2年)12月の大火(天和の大火)で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(左兵衛とする説も)と恋仲となった。翌1683年(天和3年)、彼女は恋慕のあまり、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起したが、捕らえられて大森鈴ヶ森で火刑に処せられた。

その時彼女はまだ16歳になったばかりであったため奉行が哀れみ、お七は15歳だろうと聞いた(15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならない)が、彼女は正直に16歳であると主張し、お宮参りの記録を証拠として提出したほどだったという。

お七が火刑に処せられた3年後の1686年(貞享3年)、井原西鶴がこの事件を「好色五人女」の巻四に取り上げて以降有名となり、紀海音の「八百屋お七」、菅専助らの「伊達娘恋緋鹿子」、為永太郎兵衛らの「潤色江戸紫」、鶴屋南北の「敵討櫓太鼓」など浄瑠璃・歌舞伎の題材として採用された。


慶安の変

1651(慶安4)年に起こった牢人の倒幕計画事件で、由井正雪*(ゆい しょうせつ)の乱ともいう。由井正雪は楠(くすのき)流軍学者ともいわれ、槍術家丸橋忠弥*1(まるばし ちゅうや)らとともに、尾張候への仕官を好餌(こうじ)に牢人を集め、家光の死を機会に江戸・駿府・大坂・京都で挙兵を計画したが、事前にもれ、丸橋は死刑、正雪は駿府で自殺した。翌年には佐渡で辻右衛門(つじ うえもん)父子の牢人騒動、戸次庄左衛門(とつぎ しょうざえもん)が老中を暗殺しようとした承応(じょうおう)の変があった。
*由井正雪 駿府由比の紺屋の子と伝えられる。伝記の詳細は不明。彼の遺書によれば、この挙は幕府への反逆ではなく、天下の制法を匡し、上下の困窮を救うためとあるが、江戸時代初期幕府の浪人圧迫に対する反撥で、江戸時代を通じて庶民の関心を呼び、「慶安太平記」などの芝居となったり、講談に語られたがこの事件を契機として幕府の武断政策は文治方向へと転化されていった。
*1丸橋忠弥 幼名は吉十郎、名は盛澄。出羽国山形の人。宝蔵院流槍術の奥義をきわめ、江戸御茶ノ水に住んで槍術を教授した。1651(慶安4)年由井正雪とともに反幕府の陰謀に加わったが露顕し、捕らえられて磔刑に処せられた。この慶安事件は浄瑠璃・歌舞伎などで取り扱われているが、丸橋忠弥を花形人形として扱っている。「慶安太平記」は有名である。

鈴が森から平和島を過ぎ、三原通りの商店街も旧道の趣き。この近くにジャック・ニクラウスのゴルフ練習場がある。ここでレッスンを受けた事あり。コーチのプロは元気であろうか。場所のせいで、地元の人以外はアクセスの良くないところである。
その小道を抜けると第一京浜に。既に、日本橋から15km歩いている。目標の横浜までは、道半ばであるが、この日は蒲田に泊まるかという気になる。昼過ぎに出たのと、予想以上に信号が多く、時速5kmが精精だ。30km一日で行く為には、6時間歩く必要がある。夏場はきつい。
梅屋敷という場所を過ぎる。明治初年には、美しい庭園と宴会場があったところ。ここも道路の拡張で間もなく跡形もなくなる。
JR鎌田駅へ。以前、羽田発始発便に乗る為、宿泊した事のあるカプセルへ。施設の清潔さと、広い風呂・サウナば出色。韓国直輸入アカスリも絶品である。
街で居酒屋で好物を食べる。座敷にやくざさんが宴会中。「わしらはNPOだ」という言葉が耳に残る。Numerous Profitable Organizationの意味であろうか。
この街で最大と思われる、HIROKI西口店へ。スーパー海から旧海まで並列。スーパーで図った様に単発。すぐ新台CR松浦あやの嵌り台で更に嵌る。ふと思い、ショベルのギミックの破壊屋ゲンにてすぐに突確に。ラッキーである。なんだかんだで、4連する。投資額と回収額が一致した。不思議な気分である。
就寝前に再度、サウナ。湯上りに生2杯。発汗後のビールは何者にも替えがたし。
すぐに寝入るつもりが寝苦しい。街道で色々と触れたものが身体を巡る。

坂東真砂子の波紋

2006年08月25日 10時07分09秒 | Weblog
直木賞作家の日本経済新聞に掲載された子猫殺しのエッセイが波紋を呼んでいる。
きっこのブログでは、絶賛の対極、最大限の非難を浴びせている。
管理人の立場は、近年のペットブームと少子化はコインの裏表の関係にあると思っている。子育ての代償行為としての、犬猫哀願である。
それは、一種のファッションかも知れないが、犬猫も当然世代交代するのなら、未だ良い。坂東真砂子の様に初めから繁殖を念頭に入れなければ、生命も物扱いだ。
少子化も、可能性ある生を初めから権利放棄する意味では、殺人の一種と管理人は捉えたい。