キリストのあかしびと 公教会の教父たち

公教会(カトリック教会)の諸聖人、教父、神父らの伝記を掲載していきたいと思います。彼らは、クリスチャンの模範です。

地獄に墜ちた者からの手紙 ◆13

2017-10-23 22:11:57 | 地獄体験談
ミカエル・モスカ神父訳『わたしは亡びた』、13


 教会を訪れることもありましたが、それは芸術作品を見物するためでした。そしてそれらの作品の宗教的な香りを中傷し、案内人の修道者の物腰の貧弱さを笑っていたのです。こうしてわたしは、心の扉を叩かれる神の恵みを追い払ってしまったのです。わたしは特に、墓地や聖堂の壁にかかれている地獄の絵を、子供だましとばかにしていました。その絵には、悪魔が呪われた者の体を燃え上がっているかまどの中へ投げ込んだり、霊魂を地獄に引きずり込む場面が描かれていたのです。

 クララ、あなたがもし地獄の絵を描くとして、どんなに残酷に描いたとしても描きすぎることはないのです。わたしは地獄の火をばかにしていました。あなたと議論していたとき、わたしはマッチに火をっけて鼻の先に近づけて、「地獄ってこんな臭い?」と皮肉を言いました。あなたは、すぐその火を消してしまいました。でも地獄の火は、誰も消すことができません。

 わたしは、あなたに聞いていただきたいのです。聖書に記されている火とは、単に、良心の呵責による苦しみを指すのではありません。火はあくまで火です。「呪われたものよ、わたしを離れて永遠の火に入れ」というみ言葉は、文字通りにとらなければなりません。あなたは霊魂がどうして火で苦しむのか疑問に思うでしょう。それは、指を火に近づけたとき、熱いと感じるのと同じです。

 燃え尽きることのない霊魂の苦しみはどんなでしょう。わたしたちは地獄で、このように自分の本性と能力に応じて霊的な火に焼かれているのです。ここでは、わたしたちの霊魂に自由はありません。ですから、思いのままに望むことも考えることもできないのです。そしてわたしたちのこの状態は、永遠につづいているのです。

 わたしたちのもっとも大きな苦しみは、もう絶対に神を見ることができないということです。ナイフが食卓に投げ出されていても、足もとに転がっていてもそれだけなら大したことではありません。ところが、そのナイフがあなたの体に突き刺さったとしたら、どうでしょう。地上にいたとき、わたしも、神を失うことにっいて考えてみたことがありました。でも今は、それを味わい、苦しんでいるのです。

 苦しみは、誰もが一様なのではありません。その人が悪ければ悪いだけ、罪に腐りはてていればいるだけ、神を失ったことも大きく、その人が濫用した被造物から受ける腐敗は、もっとひどいものとなるのです。

 呪われたカトリック信者は、他の霊魂よりもひどく苦しんでいます。それは、多くの恵みを受けながら、その恵みを踏みにじったからです。悪意によって罪を犯したものは、弱さによって犯したものよりも苦しんでいます,「だれも、知らないで地獄に行く人はない」と云ったあなたの言葉を、わたしは気にもかけませんでした。でも、あなたの云ったことは本当です。生きているうちは誰も知りません。自動車事故で死ぬ前に、わたしは、地獄が何んであるかを知らなかったのです。でも、このことだけは、はっきり知っていました、もしこのまま死ねば、神に逆ってまっすぐ地獄へ行く。その責めはわたしにあると。わたしは習慣という波に足をさらわれていたので、生活を変えることなど夢にも考えなかったのです。まもなく死がやって来ました。苦しみのためにわたしは10年も前からここにいるような気がします。


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