キリストのあかしびと 公教会の教父たち

公教会(カトリック教会)の諸聖人、教父、神父らの伝記を掲載していきたいと思います。彼らは、クリスチャンの模範です。

神の恵みと宝を保つために聖母マリアのおん助けが必要です

2017-11-04 20:15:27 | 地獄体験談
ミカエル・モスカ神父訳『わたしは亡びた』、18

◆4-3、神の恵みと宝を保つために聖母マリアのおん助けが必要です

 わたしたちは、まことに弱く、まことにもろい者であって、せっかく神からうけた恵みと宝とを、長く自分の中に保つことは非常にむずかしい。

① 天地にもまさるこの宝を、どこにもっているかと言えば、人間というこわれやすい器の中である。「わたしたちは、この宝を陶器のうつわの中にもっています」(コリント後4・7)。変わりやすく落胆しやすく壊れやすい霊魂と、腐敗する体の中にもっているのです。

② ずるがしこいサタンは、その宝をわたしたちから盗み取ろうとして、ねらいを定めて飛びかかってきます。サタンは昼夜を間わず、一刻も目を離さずにわたしたちをねらっています。一瞬間の大罪で、長年たくわえた恵みと功徳とをすっかり奪いとろうとして、わたしたちのまわりを回っているのがサタンです(ペトロ前5・8)。

 わたしたちよりも、経験もあり恵みもある何人かの人々がこのずるがしこい悪魔に突然おそわれ、その不幸な餌食になったことを考えて、力をつくして警戒しなければなりません。ああ、レバノンの糸杉と空の星とが一瞬にしてその高さとその美しさを失ったことは幾たびだったでしょうか?

 この堕落は何のためでしょう? それは、人間皆が分け与えられている恵みが足りなかったからではありません。謙遜が足りなかったのです。かれらは、実際以上に自分たちの力を過信し、自分でその宝を守ることができると自信をもっていました。かれらは、自分自身に依り頼み、自分自身に信頼しました。恵みの貴重な宝を守るために、自分の家は充分安全で、自分の金庫は充分にしっかりしていると考えたのです。表面だけ見れば、神の恵みに依頼しているように見えたけれども、実際は、そういう自信にふくらんでいたので、正義である神は、かれらの思い通りにふるまわせ、かれらが宝を盗まれるのを打ちすてておかれたのです。ああ、もしかれらが、聖母に対する信心業を知っていたら、自分の宝を全部聖母のおん手にまかせたでしょう。そして聖母は、その宝を自分のもののように、力強く守ってくださったでしょう。

③ 世間は腐敗しているから、恵みを維持することは大変むつかしいことです。こういう世の中に生きているちりと、信心のある人でも、いくらかその塵をかぶらないではいられないとさえ言える程です。こういう激流の中にあって押し流されず、こういう嵐の大海の中にあって難船せず、また海賊の難に会わず、こういう不潔な空気の中にあって毒されないでいるのは、一種の奇跡だと言ってもよいのです。快く誠意をもって自分に奉仕する人間に、こういう奇跡を与えるのは、蛇にかまれたことのない唯一の人、かのおとめマリアです。

おわり

聖母マリアは救いの恵みの仲介者

2017-10-27 17:05:44 | 地獄体験談
ミカエル・モスカ神父訳『わたしは亡びた』、17

 マリアの熱愛者、聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォールが書いた次のことばを読みましょう。

◆4-2、聖母マリアは救いの恵みの仲介者

 仲介者なしに、直接神に近寄るのをひかえるのは、謙遜な心のしるしです。

 わたしたちの心の奥底は腐敗しているのであるから、わたしたちだけの業をもってしては、とうてい神にうけ入れられる値打ちがありません。神が、そのみ前に出る仲介者を定められたのには、それ相当の理由があったはずです。わたしたちをあわれまれた神は、ご自分のあわれみにふさわしい者とならせるために、権力ある仲介者を、人間のために定められたのです。その仲介者をないがしろにして、その推薦を退けて、至高の座に近よろうというのは、明らかに謙遜の不足であり、神への崇拝の不足です。この世の王であってさえも、その前に出るには適当な取りつぎ者がいるのであるから、まして「王の王」のみ前に出るには、そうなければ不敬の罪に当るでしょう。

 主イエズス・キリストは、いと高き神のみ前にあって、わたしたちの弁護者であり、救いの仲介者である。わたしたちは、「勝利の教会」と「戦う教会」と共に、イエズスを通して祈らなければなりません。わたしたちが、いと高き者のみ前に立つことができるのはイエズス」によってです。イエズス・キリストの功徳によりかかり、その功徳を着て、いと高き者のみ前に立てるのです。

 しかし、わたしたちにとっては、この取りつぎ者のイエズス・キリストのみ前に立つのに、もうひとりの取りつぎ者を必要とするのではないでしょうか? わたしたちは、直接イエズス・キリストのみ前に立てるほどに清いものでしょうか? イエズスは、万事においておん父と平等な神ではありませんか? とすれば、おん父と同様に尊敬しなければならない至聖なるお方ではありませんか?

 イエズス・キリストが、その無限の愛徳によって、おん父の怒りをなだめ、人間の負債を支払うあがない者となり仲介者となったとしても、それだからといって、「イエズス」をおん父よりも畏敬しなくてよいというわけではありません。

 では、わたしたちも、聖ベルナルドと共に、仲介者イエズス・キリストに対して、わたしたちには、もうひとりの仲介者が必要であり、その愛徳の役目を果すには、マリアがもっとも適当であると断言しましょう。イエズス・キリストは、マリアを通してこの世にくだったのであるから、わたしたちがイエズス・キリストに達するにも、やはりマリアを通してでなければなりません。

 イエズス・キリストの無限の偉大さを考え、わたしたち自身の卑小さをかえり見て、直接イエズスに向かうのを恐れるなら、わたしたちは、聖母のとりつぎを乞い願いましょう。マリアには、近寄りがたい程に厳しいところも、目がくらむばかりに輝しい所もありません。わたしたちは、罪に汚れない以前の人間を、マリアにおいて見つけます。マリアは、わたしたちの目が弱く、その光が強いために、目をくらまさせてしまう程の太陽ではありません。太陽の光線をうけて、わたしたちの弱さ小ささにふさわしいようにその光を和らげる、月のように美しく、やさしいお方です。

 愛にとむマリアは、とりつぎを願う者を、ひとりとして退けることはありません。聖人たちも云っているとおり、この世が初まって以来、ゆだねる心と忍耐つよさをもってマリアにより頼んだ人々の中で、その願いを聞き届けられなかった者はないのです。

 また、マリアの願いは、いつも神のみ前に聞き届けられます。おん子のみ前に立ちさえすれば、イエズス・キリストは、すぐマリアの願いを入れられます。イエズス・キリストは、愛する母の願いに、すぐ負けてしまわれるのです。

 今まで書いてきたのは、聖ベルナルドと、聖ボナヴェントゥーラとの言葉です。かれらは、神にのぼるためにわたしたちには三段階があると云っています。その第一段は、わたしたちにもっとも身近く、わたしたちの能力にもっともふさわしいマリアであり、第二段は、イエズス・キリストであり、第三段は、おん父である神であります。

 イエズス・キリストにとどくためには、とりつぎ者マリアを通さなければなりません。永遠のおん父にのぼるためには、わたしたちの救いの仲介者であるイエズス・キリストを通さなければなりません。

祈りは救いをえるために必要

2017-10-27 17:05:03 | 地獄体験談
ミカエル・モスカ神父訳『わたしは亡びた』、16

◆4、祈りは救いをえるために必要

1.霊魂の救いは神の恵み

 霊魂の救いは、人間にとって一番貴重な恵みです。恵みといえば、神から願うべきであるという結論になります。「わたしがいないと、あなたたちには何一つできません」とイエズスは明らかにおおせられたのです(ヨハネ15・5)。このために、この恵みを祈りで求めるようにとイエズスは教えて、「うまずたゆまず祈れ」(ルカ18・1)、「いざないに落ちないように、めざめて祈れ」(マタイ26・41)とおおせられています。

 この祈りを、わたしたちは、恵みのおん母、すべての恵みの取りつぎ者であるマリアを通じてささげるようにしなければなりません。マリアに対する信心は、わたしたちを地獄の火から救い、天国の門となります。

 ファティマの聖母は、3人の子どもたちに、地獄の恐ろしい場面を見せてから、罪人の改心のために、特別に祈りとぎせいをささげるように、しきりに願われました。

「ああ、イエズスよ、わたしたちの罪をゆるして、地獄の火から救い、すべての霊魂、とくにおんあわれみを最も必要とする霊魂を天国にみちびいてください」。

 この祈りをロザリオの祈りのときに祈れば、聖母マリアの取りつぎによって、わたしたちも確実に救われ、たくさんの人を地獄に落ちる危険から救うことにもなります。


地獄に墜ちた者からの手紙 ◆15

2017-10-27 17:03:11 | 地獄体験談
ミカエル・モスカ神父訳『わたしは亡びた』、15

◆3、神をもつ人に神だけで足りる

 アンネッタの手紙は、ここで終わっていました。最後の単語の綴りは、読めないほど乱れていました。そして手紙は、わたしの手の中で灰となってしまいました。押しつぶされるような重苦しさの中で、わたしは、やわらかなやさしい鐘の音色を聞きました。気がつくと、わたしはベッドに横たわっていました。

 朝のまばゆい光が窓から射し込んでいました。お告げの祈りの鐘が響いてきました。わたしはマリアさまのみ手にすがるように、"めでたし"の祈りを3回となえました。そして、恐しさにまだ震えながら急いで着がえると、お聖堂へと階段をかけおりて行きました。近くにいた寮生が驚いて振りむきました。

 ブダペストに住む初老の一婦人は、体が弱く目も不自由でしたが、霊的なことがらに敬度な人でした。その日の昼食後の散歩のとき、婦人はほほえみながらわたしに近づいてきました。

「お嬢さん、イエズスさまは走ってではなく、落着いて仕えられたいのですよ」。

「何も心配することはないという大聖テレジアの言葉を思い出しましょう。
何も心配するな、
何も恐れるな、
すべては過ぎ去るが、
神は過ぎ去らない。
耐えればすべてが得られる。
神をもつ人に
不足するものはない、
神だけで足りる」。

 婦人がこの詩をゆっくりと口ずさんで聞かせてくれたとき、わたしは、この婦人はわたしの魂を知っていると悟りました。

「耐えれば、すべてが得られる」、

 わたしは大きな慰めを覚えたのです。

地獄に墜ちた者からの手紙 ◆14

2017-10-24 00:35:44 | 地獄体験談
ミカエル・モスカ神父訳『わたしは亡びた』、14

 一週間前、わたしは、かれと最後になったドライブに出かけました。それは本当にすばらしい日でした。でもなぜか心のうずく日でした。車を走らせていると、突然横合いから車がぶっかって来ました。わたしの乗った車はその瞬間、宙に浮いていました。そして激痛が全身奇走り、わたしは意識を失ってしまいました。

 不思議なことに、ドライブに出かけるその朝、「ミサに行きましょう」という声が訴えるように心をかすめていったのです。「くだらないことを!」わたしは心の中でつぶやき返したのです。そのために今、わたしは地獄にいるのです。わたしの死後のことは、あなたも知っています。わたしの夫と母、わたしの遺体と葬式、ここでは自然にそれが分かるのです。でも、あなたたちの世界で起こる出来事は、ただ夢のように見ているに過ぎません。あなたがどこにいるかを知るように、親しい人たちがわたしのためにしてくださっていることも知っています。

 意識を失ったわたしは、次の瞬間、深い暗黒から目覚めたのです。さんさんと光がふりそそぐ庭に投げ出されたようです。そこは、わたしが死体となって転っている所でした。ちょうど劇場にいるようでした。突然一条の光が輝いて、どん帳が切って落され、舞台の上に赤々と照らし出されたのは、考えもしなかった光景、わたしの生涯でした。

 瞬時に、わたしは自分のすべてを見たのです。少女の頃からあの最後の否みに至るまで、踏みにじりつづけた神の恵みの数々・・・。わたしは、自分を殺害者のように感じました。審判の間、わたしは、自分が手にかけた犠牲者を目の前に置いていたのです。

 クララ、わたしが後悔したり、恥ずかしく思ったりしたと思ったら、とんでもありません。でもわたしは、わたしを払い退けた神のみ前にいることはできませんでした。わたしに残された道は、ただ逃亡です。カインがアベルのしかばねから逃れたように、わたしの魂も、この戦慄から一刻も早く逃れたかったのです。

 私審判は終わりました。目に見えない審判者は、「わたしから離れよ」と宣告しました。そのときわたしの魂は、硫黄の煙の立ちこめる永遠の苦しみへと落ちていったのです。