キリストのあかしびと 公教会の教父たち

公教会(カトリック教会)の諸聖人、教父、神父らの伝記を掲載していきたいと思います。彼らは、クリスチャンの模範です。

キリスト教における死者の追悼と慰霊

2018-11-13 08:38:52 | 煉獄
〈特集「宗教と文化-東と西-」1〉
キリスト教における死者の追悼と慰霊
緒  
――キリスト教人間学の表現――

前置きとして、この講演はカトリック教会の典礼と教義に限定
されているということを申し上げておきたい。東方正教会とプロ
テスタント教会も病人と死者のための奉事式を行う。この式は多
くの点でカトリックの典礼に似ているか、ないしは全く同じであ
る。あらゆるキリスト教社会の儀式を説明するのは本筋ではない。
臨終、死、および死後の生命に関して、キリスト教会教義に於け
るわずかの相違にお気付きになられたりもするであろうが、時間
が限られているのでそれについては説明できない。
1.臨終を迎えた者と死者に関する
カトリック教会の典礼
ルートヴィヒ・シック
a.病人への塗油の秘蹟
キリスト教徒は、人間の生命を、受胎ないし誕生とともに始ま
る終わりなき永遠の存在であると考えている。生命のそれぞれの、
そしてあらゆる相は特別な重要性を有しており、熟考に値するも
のである。キリスト教会に於ては病人と老人は最初から特別な敬
意や尊敬、そして心遣いや看護を亨けている。イエスは病人のも

第5章21節―34節)、このイエスの為した先例により、キリスト教
とを訪れ癒しを施したのであるが(例えばマルコ第1章29節―39節、
会は、人間愛という治癒力のみならず、食物、飲物と薬品をも
彼らに施す義務があると感じてきた。キリスト教徒の病人に対す
る看護の一部は、むろん、病からの回復を祈ること、および人が
死を迎えることになると、神により回復を得られるようにという
意図による宗教儀式とともに、優美な死の時が訪れ、永遠の救済― キ

スト


おけ





悼と


が得られることを祈ることである。「あなたがたの中に、病んで
いる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名に
よって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい」(ヤコブの手紙第
5章14節―15節)
病人の塗油による聖別の秘蹟――重病人はこれを亨けるよう求

められているのであるが――が発達してきたのは、実に過去にさ
のぼって、このイエスの聖書の教えからなのである(マルコ第
6章13節、ルカ第9章6節)。
b・コメンダチオ・アニマエ (Commendatio Animae)
もし病人もしくは老人に死期が迫ってくると、キリスト教徒と
しての関わりが一層強められる。キリスト教会は死の刻を人生で
最も重要な時であると考えている。それは救済かそれとも地獄に
落ちるかについての決定的審判の下りる時なのである。これは、
イエスが十字架上の死を迎えた時に明らかになったが、ここでは
二人の犯罪人がイエスとともに十字架にかけられていた。イエス
の右側の男がイエスに向かって言った。「イエスよ、あなたが御
国の権威をもっておいでになる時には私を思い出してください。」
この男は救われた。左側の盗人は、「口をあけて見とれている」
群衆とともにイエスを嘲笑い、イエスの贖罪の約束、すなわち
「今日、あなたは私と一緒にパラダイスにいるであろう。」という
ことばに耳を傾けなかった(ルカ第23章39-43節参照)。
キリスト教徒は、自らを救済の共同体と考えているので、臨終
の人々がキリストに立ち返るようすすめる。天に上られた救済者
であるキリストのみが、死にゆく者を救済し、永遠の生命を与え
得たのである。従って、人間の永遠の救済を引き受けることが教
会の第一の使命とされている。臨終の人々へ差しのべられる助け
は、昔も今もラテン語でコメンダチオ・アニマエ (commendatioanimae)と呼ばれているが、これはキリストにその当事者の
魂を委ねるという意味である。すなわち厳密に言えば、コメンダ
チオ・アニマエは、死者に対する慰霊の一部をなしているのでは
なく、なお病気のケアの機能を持ち、またその上あきらかに臨終
の時が近づいているならば、そのような病人を永遠に救済する機
能も持っている。古代から、典礼書がex ’equii’すなわち葬儀を
考慮する直前にコメンダチオ・アニマエを扱っているのは、まさ
にこの為なのである。しかしながらとはいえ、またそれゆえと言
っても、およそ次のように言えるだろう。即ち、教会はコメンダ
チオ・アニマエを死者の慰霊の一部であると考えている。コメン
ダチオーアニマエの本質は、聖書からの聖句、特定の祈り、およ
び臨終を迎えた人とその縁者の両者を慰めるための儀式であり、
彼らにキリスト教を頼るようにさせるとともに、神の慈悲への信
頼を授けるのである。キリストの受難と復活の話は聖句として新

14章1―16、20節、ルカ第22章1―24、53節、ヨハネ第18章1―21、25節
訳聖書から引用されるだろう(マタイ第26章1―26、20節、マルコ第
照)。ヨハネが言うところのいわゆる「イエスの祈り」(ヨハネ
第17章参照)も同様に新約聖書から引用されるであろう。諸聖人
の連祷、ロザリオの祈り、教父、教会博士や諸聖人の様々な祈り
は、その多くが伝統豊かなものであり、祈りとしてふさわしいも
のと考えられている。こうした祈りは、「死の前の祈り」と「死
の直後の祈り」に分けられる。その儀式には死にゆく者へ洗礼を
記念する象徴としての聖水散布およびろうそくの点灯が含まれる。
これにより人はキリスト教徒になり永遠の死から救済されるので
ある。この者は接吻するよう十字架も与えられる。キリストが人
類の救世主となられたのはこの十字架の上である。
コメンダチオ・アニマエはキリスト教徒であれば誰が行っても
良いが、できれば司祭や助祭によってとりおこなわれる方がよい。
状況が許されればだが、親族が立ち会うほうがよい。今日、 コメ
ンダチオ・アニマエはカトリック教会の典礼(liturgy)および

その法に従ってOrao unctinonis lntfirmorum eorumque curae
astoralis(病める者に対する聖職者の看護)に記述されている。
c・死者の洗い清めと着替え
「死者を弔う祈り」(これは、できるだけ多くのキリスト教徒
が、死去した者への祈りを捧げることができるように、教会の鐘
を鳴らすことでその土地のキリスト教徒に知れわたるようにす
る。)に続いて、葬儀がとりおこなわれる。これはカトリック教
儀)に記述されている。葬儀は洗い清め、着替え、遺体の据え付
会の典礼およびその法に従って”ordo exequiarum”(教会の葬
け、そしてそれに続く通夜ではじまる。遺体の衣類に関しては特
に教会側の規則はない。しかし、司祭や司教は聖なる法衣、修道
士の場合は僧衣を着せて埋葬する。すべての死者の手には、希望
とキリストによる救済の象徴である、十字架があたえられる。こ
の十字架に加えて、死者の両手にはロザリオ(数珠)がまかれる
ことが多い。時にはこの数珠で十字架の代わりとすることもある。
死者の両手は常に祈りの形に組む。
d・通  夜
古代の慣習(これはキリスト教に限らないが)に従って遺体は、

死んだその家の中にしばらくの間――一日以上――安置される。
の間、人々は遺体を見守る。この儀礼のためのある種の祈祷文
が一般に用いられ、「定刻の祈祷」が唱えられることもある。今

土二時間以内に――霊安室に運ばれる。遺体は、葬式の時まで一
日では遺体は、法律の定めによって――たいていの場合、死後二
二日間、そこに安置される。こうした手順のために、地方の教
会では死亡した日から葬儀の日までの毎夕、三〇分から六〇分間
「通夜の祈り」が親族、隣人や友人によって唱えられる。
e.レクイエム
昔は死者は上記の、祈りのための徹夜の後、教会まで行列を作
って運ばれて行くしきたりであった。そして教会で、死者のため
のレクイエム即ち死者のためのミサ、聖餐式が始められる習わし
であった。当時、遺体の納められた棺は――ふたが開いているこQ。
キリ
スト

にお






悼と




ともあったし閉じられていることもあったが――人々の目の前に
かれていた。今日のドイツでは遺体が葬式のために教会に運び
込まれることはほとんどない。衛生上の理由からである。だが、
他の国、例えばイタリアやポーランドやスペインでは、この慣行
が今でも広く行われている。しかしながら、葬儀のまず最も重要
な部分は、死者を神にとりなすと同時に、キリストが自らの死と
復活によって人類の罪を贖ったことを思い起こして行われる死者
のためのミサ・聖餐式であることは現在に至るまで常に変わりな
い。こうして死者は自らの罪から解放され永遠の生命に入ること
ができるのである。

・葬  儀
レクイエム(それは、葬式の後にも行われることがある)の次
が埋葬である。それは教会あるいは霊安室で始まり、そこでまず
遺体はお香をたきしめ聖水を振りかけ祈祷が死者のために唱えら
れる。次に遺体は、厳かな行列とともに、墓地に運ばれる。墓穴
に下ろす前後に遺体にはもう一度お香がたかれる。それは生きて
いる間「汝らの身の内に宿る聖霊の宮」(コリント人への第一の手紙
第6章、19節)であった遺体を尊いものにするためである。そし
て、それと同時に、棺の上には、この後に来る腐敗を表すための
土がまかれる。遺体には、洗礼を想起させるべく聖水が振りかけ
られる。そして司祭が救世主イエス・キリストのことをあらわす
十字架を、死者とその親族に示すのであるが、死者はイエス・キ
リストによって永遠の命を授かることになる。
キリス教信仰にとって土葬は最も適切な葬儀の方法である。
(遺体を尊いものにし、遺体という物質が残って復活を待ってい
るということを強調することが一番適切である。)しかし火葬や
海に沈めるという手段も可能である。
g・墓の整備
墓の整備もキリスト教においては、死者を慰霊する行為の一部
である。墓地は教区の所有となっているが、十字架や聖母マリア
の銅像(特にピエタ)で飾られている。親族が個々の墓の上に立
てた、石や木で作った十字架には故人の名前や生年月日、死亡年
月日が書いてあるが、十字架を立てる意味は、イエス・キリスト
に対する信仰があるということを示している。死者に敬意を表し、
その人をいつまでも想うために、死後何十年もの間、墓は花や花
環、ろうそくで飾られる。時には大きな墓石が建てられるが、た
いていの場合金持ちの墓石で、イエスの復活の様子が刻まれてい
る。またさらに、その死者を描いたものが(リアルか象徴的かの
いずれかで)墓石に刻まれた。つまり、その人もキリストと一緒
に復活する存在であることを示すためである。たいてい墓地は教
会のそばにあったが(今ではそういう事はだんだん少なくなって
いる)、その理由は、イエスはいつも教会におられるので、死者
はイエスのそばで復活を待ちたいからである。従って司教、司祭、
また地方豪族、貴族たちは教会の庭に葬られることもあった。今

日では司教のみ自身の大聖堂に墓が作られる。
h・死者の追悼記念式
葬式儀式の一部は葬式の二週間後そして四週間後礼拝行事(お
経をあげること)をしたということである。その後は死者の記念
日(毎年の記念式典)にお経をあげた。このような記念日には親
族、友人、知り合いが教会に集まり、神に対するとりなしの祈り
をし、死者を想い、お互いに慰めあうのである。
―臨終を迎えた者と死者に関する典礼の本質
2.キリスト教人間学
a.旧約聖書とギリシア哲学―キリスト教人間学の起源
臨終を迎えた者に対するケアと死者に対する追悼はキリスト教
人間学を表現している。キリスト教人間学は、自然および人間の
現存に関するユダヤ人とギリシア人の思想に基づいている。それ
にもかかわらず、キリスト教人間学は独自で創り出した概念を持
っている。その起源によると、人間の死とその結果に関するキリ
スト教の観念は、旧約聖書から発展したものだが、ギリシア哲学
から得たものもある。ソクラテス、プラトン、そしてアリストテ
レスにとって、霊魂こそ人間にとって必須であり生命の根源であ
る。しかしながら、肉体は単に霊魂の器であり、閉じ込めておく
牢獄なのである。それは下位のものであり、結局、死によって破
壊される。死において霊魂は「やっとのことで」肉体から釈放さ
れ、自由に考え楽しみ始めることができる。二元論的見解は、肉
体と霊魂の関係に対するこのギリシア人の態度に基づいている。
このほかは、ギリシア哲学は、死後の人間としての人格が存続す
ることを、はっきりと表現していない。ギリシア哲学者の中には、
明白に死が人格を破壊し、人間存在を消滅させると、そして死者
の霊魂は、個々の人間的特徴を失くした単子(モナド)あるいは
conesになると教えた者もいる。キリスト教教父や教会博士で
ギリシア人の肉体軽視、および人間の死に於ける、最終的に個人
の人格も破壊されるに至るというギリシア思想を引き継いだ者は
一人もいなかった。あらゆる人の人格の永遠の生命という「肉体
復活」表現は、まさに最初からのキリスト教徒のクレドー(使徒
信条、お唱え文)の一部であった。しかし、多くのキリスト教の
著述家たちは「慰めの書」、例えばミラノの聖アンブロシウスは
『良き死者たち』に於いて、あるいは聖アウグスチヌスは『神国
論十三巻』と『告白七と十』に於いて、霊魂の牢獄としての肉体、
および死に於ける魂の解放というギリシア的概念を採用した。し
かしながら、その意味するところは、死とは肉体の解放であり、
肉体は苦しみ、邪悪や罪に陥りがちであり死んでしまうものだ、
ということである。彼らの意図は、キリスト教徒から、朽ち果て
る人間の肉体の死の恐怖を取り去り、神とともにいます命が永遠
に幸せなのであると主張することであった。個人としてのあらゆ
る人格が永遠の生命を持つということの表現としての肉体の復活冖a
キリ
スト

にお




の追
悼と


に対する信仰はユダヤ教に根ざしている。旧約聖書は、ユダヤ人
が人間を霊魂/霊と肉体の統一体とみなしている事を示している。

その死において、統一体としての個人は死に、専ら別の世界で生
続けるのである。旧約聖書の初期のテキストは、主として現世
に言及している。現世では、人は働き、人生を楽しみ、神を崇め、
隣人を助けなければならない。死後の生活については推測すべき
ではなく、それにもかかわらず人は死後も生き続けると教えてい
る。人は、死者または影の領域であるシエオール(黄泉の国)に
移されるか、あるいはただ祖先のもとへ帰るだけである。そして
そこで生き続ける。しかしシエオールでの生活は、現世の生活に
比べると劣った影の存在である。イスラエルの神ヤーヴェは影の
領域の主人として、死者たちを地界から連れ出し、生き返らせる
ことができる。これは最初からイスラエル人の信じるところであ
った。しかしそれは個々の人が現世の生および死すべき体を回復
させることを意味している。例えばイエスの生きている時、ユダ

リヤ(シラクの子第48章10―12節、マタイ第16章14節参照)が、救世主
ヤ人たちはエノック(シラクの子第44章16節、第49章14節参照)やエ
到来を告げるために生き返ると考えていた。だから死者の復活
に関する旧約の考えは、クリスチャンの信仰とは著しく異なって
いる。紀元前三〜二世紀、ギリシアの影響でイスラエルは死後の
に召され平和に幸せに暮らすのは、神にとって心正しい者のみで
ある、と。他方、罪人は、地獄の責苦を永遠に受けることになる
であろう、と。死後の神の裁きは、神に従い、神の意志を行うの
か、それとも神に逆らうのかを決める時期である、その人の現世
での生き方をもとに、その人間が救済されるか地獄に落ちるかを

決定するのである(マタイ第25章31―46節)。教会の教義では、イエ
は、行動は法にそって正しいが、心が罪に穢れた死者に対して
煉獄での罪障消滅を宣言したという。死者は煉獄において清めら
れ。天国へ行く準備をするであろう、と。この世に生きているキ
リスト教信者は、祈りと捧げものをすることによって、死者の魂
ができるだけ速やかに天国に召されるように、煉獄にいる死者の
魂を助けることができる。この見解は旧約聖書「マカバイ記」第
二部ですでに展開されている。「彼(高潔なユダ)は、次いで各
人から金を集め、その額、銀二、〇〇〇ドラクメを贖罪の献げ物
のためにエルサレムへ送った。それは死者の復活に思いを巡らす
彼の、実に立派で高尚な行いであった。もし彼が、戦死者の復活
することを期待していなかったなら、死者のため祈るということ
は、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。だが彼は、
敬虔な心を抱いて眠りについた人々のために備えられている素晴
らしい恵みに目を留めていた。その思いはまことに宗教的、かつ
敬虔なものであった。そういうわけで、彼は死者が罪から解かれ
るよう彼らのために贖いの生贄を献げたのである。」(マカバイ記
2第12章43―45節)
死者の復活に関するイエスの言葉を除くと、死後の生命の存続
に関するキリスト教の考え方にとって重要なのは、ヨハネによる
福音書(第20・21章)と並んで共観福音書のマタイ・マルコ・ル
カ福音書である。その理由は、正しい人の死後の生活は復活され
たイエス・キリストの生活と同様であるためである。これらの伝
福音書は、一度蘇った人々は、この世に生きている人々と全く同
じであるが、それでも同一とはいえ非常に異なる形である、とい
う事を明示している。たとえ、復活されたイエスが弟子によって
キリストその人だと認められても(現世の人々と全く同じだとし
ても)、イエスはやはり閉ざされたドアや壁を通り抜けて歩くこ
とができるのだ(ヨハネ第20章19節、20章26節)。死と復活について
のイエスの言葉や、復活したイエスについての記述によると、死
後の生活も個人の人間生活であり、決して個性も人間的特質もな
くなった生活ではない、ということが明らかになっている。復活
したイエス・キリストは弟子とともに食べたり飲んだりし、神の
王国を、食事、結婚式やその他の祝宴や慶び事を比較したが、そ
れらは人間だけが楽しむものである。また、新約聖書の記述によ
ると、地獄の苦しみも人間だけが被るものである。
c・死亡したキリスト教徒についてのパウロの書簡
特に聖パウロはその書簡の中で、死および復活した者たちの特
性をより厳密に述べているが、キリスト教徒のことのみ述べてい7


スト

にお
ける





と慰

る。キリスト教徒は死ぬとまっすぐに神のおそばにいるキリスト
の御許に行く。キリスト教徒にとって、その方が地上で生きるよ
りも良いのである。聖パウロは自分自身について、「わたしの願
いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることである。」
(ピリピ人の手紙第1章21節)と記している。天国に於ける死者の
よろこびは、神を愛し、賞賛するため全ての罪の贖われた者とい
ることによって得られる。死者は復活したイエス・キリストと同
じように神とともに暮らす。ローマ人への手紙(第8章11節)の
中で、聖パウロは次のように記している。「もし、イエスを死人
の中からよみがえらせたかたの御霊があなたがたの内に宿ってい
るなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、
あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべ
きからだを、生かしてくださるだろう。」と。聖パウロは、この
世で生きている人々と、あの世で生きている人々が本質的に同一
であるとはっきり述べているが、復活した肉体がどのようになる
のか、ということを語っていない。「コリント人への手紙」の中
で彼は次のように記している。「しかし、ある人は言うだろう。
『どんなふうにして死人がよみがえるのか。どんなからだをして
くるのか』愚かな人である。あなたのまくものは、死ななければ、
生かされないではないではないか。……死人の復活も、また同様

である。朽ちるものでまかれ、朽ちないようによみがえり……肉
のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のか
らだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。」と。(コリ

ント人への第一の手紙第15章35―44節)さらに、聖パウロはコリント
への手紙15章で次のように記している。
「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、

眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく
に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死
人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるので
ある。なぜなら、この朽ちる者は必ず朽ちないものを着、この死
ぬ者は必ず死なないものを着ることになるからである。この、朽
ちるものが、朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを
着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。死は勝利

にのみこまれてしまった」(コリント人への第一の手紙第15章51―54
)キリストが帰って来られた時にのみ。全ての死者が復活する
のである。個人の死と全人類の復活の間の時間は「待ち時間」な
のである。聖パウロによると、それがどうしても必要とされるの
は、キリストの弟子たちが苦しみや罪、邪悪と戦っているうちは
誰も永遠の至福を享受できないからである。最後の審判の日にの
み、神による救いを得た者全てにとって永遠の幸福が始まるので
ある。
要約すると、新約聖書は次の点を明確に述べている。

・全ての死者の生命の復活と存続。
2・裁きが死の直後にあり、それによって神と共にある永遠の
生命が与えられるか、あるいは未来永劫に地獄に落ちるかが
定まること。裁きにあたって考慮される主要部分は次の如く
である。即ち、地上で生きている間、その者が神を信じ神の
教えを守り、隣人を愛したかどうか、である。
3.復活の結果おこること、すなわち肉体と精神とを含む完全
な人間の生命の存続。
4.最後の審判の日が来る前に、いかなる人にも究極の至福は
全ての人々に授けられないであろう。その日、すべてのこと
がキリストに於て復活し、神の霊がゆきわたるのである。
d.死者の復活についての、聖トマス・アクィナスの言葉
福音書を記した者たちは死と死後の人間の生命の継続について
新しい考えを展開してきた。
しかしながら、長期に亘って一つの重要な問題が未解決のまま
になっていた。それは死後永遠の生命を得るために、なぜ体が必
要なのかという疑問、ギリシア哲学による魂の永遠の命ではなぜ
不充分なのか、キリスト教徒はなぜ体あるいは肉体の復活の正当
性を主張するのか、という疑問である。トマス・アクィナスによ
って初めて、死と、死者あるいは肉体の復活という問題に、つい
に一つの解決が与えられた。彼はアリストテレス的な身体の形相
としての霊魂という考え方に新しい解釈を補足して述べた。
彼が言うのに、人間とは肉体と精神から構成されているもので、
その二つが一つになって、しかも一つになってのみ、その人の本
質と人格というものを作りあげている。身体なくして精神は存在
しないし、精神なくして体は存在しない。なかんずくギリシア哲
学の霊肉二元論に反して、精神は身体なくして存在することはあ
り得ないとすることを強調することが大事であった。トマスによ
ると、こころとは身体の構成が精神の本質であるという、つまり、
身体の形相としての霊魂である。精神が存在するのは、まさにこ
の理由のためだけである。もし身体がなければ、精神は意味をな
さないし、それゆえに存在しないということになる。そのことか
ら彼は次のように結論している。この世に存在する肉体が、死に
よって腐敗するとき、精神はまた別の身体を必要としなければな
らないと。しかしトマスによると、永遠の生命を得るためには、
肉体も必要である。なぜなら、身体が人間と宇宙、また人間と神
をつなぐものであるからである。生きている間も、死んだ後も人
間が神と信者、宇宙を結びつけることができるのは、霊肉一体の
存在としてのみである。人は死後も生き、より強烈に生きなけれ
ばならないならば、死後の全ぎ人間の生命の維持である「肉体の
復活」が必要となるのである。また地獄の苦しみは、肉体を持っ
た人間のみが味わう。その苦しみは存命中、その死者が意識的か
つ意図的に、そして常に神と人間との結びつきを拒絶し、神と隣
人の愛をはねつけたため、罰として、神と人間との結びっきが断
たれ、神から愛されるということもなくなったことから来るので
ある。人が生ぎている間中意識的かつ意図的に神やあらゆる隣人Q
キリ
スト

にお
ける


の追
悼と



に逆らうということは考えられないので、地獄は満員になってあ
ふれることはないであろう。天国と地獄についての教義は、確固
として神の意志に従って生きるということの結果を鑑みた教えと
して理解されなければならない。
もう一つ誤解を避けなければならない。即ち、肉体の復活を信
ずることは、人が肉や血、骨、内蔵を持って生きるという意味で
はない。物質は終局的に朽ちてしまう。肉体の復活は、地上と天
国にいる人間が一体であること、および死者と神、人間、宇宙と
の良好な関係が保たれていたり(天国)、その関係が断たれてい
たり(地獄)することを表しているのである。
3.要  約
死を迎えようとしている人間と死者の儀式はキリスト教徒の次
の概念を表現するものである。即ち、
あらゆる人が神を求め、隣人を愛していこうとする気持ちを
持つことの価値と社会的性格、
あらゆる人と人との人間同士のつながり、全人類と神や宇宙
とのつながり、
人生の最も重要な時としての死、
死後の個々の生命の継続、
個々の人に対する神の裁きがあり、それが天国行きか地獄行
きかを決定するということ、
最後の審判、即ちキリストの再来、そしてキリストは全ての
死者を一緒にまとめ、まだ生きている人々を生まれかわらせ
るということ、
そして神の王国の完成。キリスト教の人間学の影響を受けて、死
を迎えようとしている人々に対するケア、死者への儀式、死者へ
の追悼が論理的な形で発展してきた。今日、死に臨んでいる人々
や死者に対しての典礼にはこうした人間についての概念が保持さ
れていることが知られている。キリスト教が思考するような人間
の尊重は、それがより一般化しようがしまいが、それとかかわり
なく、しだいになくなってきて、それとともにキリスト教徒の生
活は退廃しようとしている。教会は、死者への追悼記念ばかりで
なく、死者への追悼記念のみならず、死を迎えた者および死者へ
のキリスト教儀式を守り強化し、また人間生活のあらゆる局面を
通して人生の価値とキリスト教徒の生き方を限りなく尊重してい
くよう力を尽くしている。
(フルダ神学大学理事長代理)
〔この発題論文の翻訳は四天王子国際仏教大学の(翻訳者)三

プロテスタントとカトリックの対話13 「煉獄を巡って」

2017-12-06 20:40:26 | 煉獄
『死者のための祈り- 聖ドン・ボスコの教え』アロイジオ・デルコル神父編、18

◆5、死者の日(11月2日)

週日ミサの友下(1389-1390ページ)から。

主日ミサの友(1971-1972ページ)から。

(祭服は黒または紫または白)

 死者の尊敬は、霊魂不滅と復活の信仰にもとずいている。死者のために祈ることは、「復活の考えによるもので、気高い、よいおこないというべきだ。じつに、たおれた人たちのよみがえりを希望していなかったら、死者のために祈ることは、無益な、むなしいことであったろう」と聖書(マカベの後の書12・43-44)の中で述べている。教会でも使徒たちの時代から、死者のために祈ってきた。すべてのミサで、死んだ信者を記念しているがすべての聖人、つまり勝利の国(凱旋の教会)に入った信者を記念するように(11月1日)、きょう、清めの場(煉獄)で苦しむすべての霊魂を思いやるのである。ここにあらわれるのは、教会の神秘体のありがたい教義である。煉獄(苦しむ教会)の霊魂は、天国(勝利の教会)のとりっぎと功徳とを受け、また同時に、この世の戦う教会の祈りの効果をも受けることができる。「わたしのもっとも小さな兄弟にしてくれたことは、わたしにしてくれたのである」というイエズスのみことばは、煉獄の霊魂にも適用しなければならない。このために、ミサは特別な力がある。この煉獄の霊魂のなかには、おそらくわたしたちの肉親、知人、家族の人がいることを考え、かれらが一日も早く完全に清められて天国の幸福に入るのを助けるのは、すばらしい愛徳のわざである。

▲本日、すべての司祭は、3つのミサをささげることができる。これは、教皇ベネディクト15世が1915年の教令で与えた許可による。この3回のミサは、1回は煉獄にいるすべての信者の霊魂のため、1回は教皇の意向のため、1回はミサをささげる司祭の意向のためにささげる。このために、ローマ・ミサ典礼書は、3つのミサの式文を提供している。3つともささげないときには、3っのミサの式文のうち、どれを使ってもよい。

▲11月2日が主日に当たるときも、「死者の日」のミサをささげる。

▲栄光の賛歌も信仰宣言もとなえない。

第1ミサ、

入祭唱(MJ 868)封・坊前4,14;コ1〃卜前15,麗イエズスが死んで復活されたように、神は、イエズスのうちに眠った人々をイエズスとともに連れて来られる。*アダムによってすべての人が死ぬものとなったように、キリストによってすべての人が生きるものとなる。

集会祈願(MJ868)

恵みゆたかな神よ、復活されたおん子キリストに従うわたしたちの信仰を強め、死者の復活を待つわたしたちの希望を不動のものとしてください。聖霊のまじわりのなかであなたとともに撹々に生き支駝しておられるおん子わたしたちの主イエズス・キリストによって。

ことばの典礼
(続く)

プロテスタントとカトリックの対話12 「煉獄を巡って」

2017-12-06 20:38:33 | 煉獄
『死者のための祈り- 聖ドン・ボスコの教え』アロイジオ・デルコル神父編、17

◆4-4、煉獄の霊魂のために祈りを捧げることについて

7、正しい結論として、わたしたちは、どんな小さな軽い罪も、罪であるかぎり決してこれを犯きないように、努力し、煉獄の苦しみを逃れるために、犯した罪のつぐないとして、一生涯よい行いを捧げなければならないのは言うまでもありません。

 もちろん、わたしたちは、生活の困難、病気、不都合、酷暑、酷寒、その他、どんな人間的な弱さをも、忍耐をもって捧げるようにしなければなりません。わたしたちは、小罪のためにも、また大罪のためにも、一それは、たとえ痛悔して、すでに告白し、その許しを得ているにしても、まだ適当なつぐないをしていないことを考えて一これらすべての苦しみを神の正義に対して背負っている負債を支払う効果ある手段として、喜んで捧げるようにしましょう。

 キリスト信者よ、もしわたしたちが、これらのことを注意ぶかく考えながら、以上のすすめを実行すれば、わたしたちは、地獄の永遠の罰をさけ、それにたぶん煉獄の苦しみさえも逃れて、地上での生活が終わるとき、天国の永遠の光栄を得られるという根拠のある希望を今から持つことができるのです。どうか、そうなりますように。

プロテスタントとカトリックの対話11 「煉獄を巡って」

2017-12-06 20:37:44 | 煉獄

『死者のための祈り- 聖ドン・ボスコの教え』アロイジオ・デルコル神父編、16

◆4-3、煉獄の霊魂のために祈りを捧げることについて

5、わたしたちの生活の最後の瞬間がいっあるかを、わたしたちは知りません。しかも、この最後の瞬間で、わたしたちの永遠の運命がきまるでしょう。そして、わたしたち、ひとりぴとりは、おこなったことにっいて、また、その時の良心の状態にっいて裁かれるでしょう。

 幸せな永遠は、死にいたるまで神に対して忠実をつくした人々のための偉大な報いであり、不幸な永遠は、大罪の状態で、すなわち、神の恵みなしに亡くなった不幸な人々の天罰となるという恐ろしい事実を決して忘れないようにしましょう。

6、わたしたちが、どんなにわずかであっても、被造物や自分自身に対する最も少さな執着も、そのために神の裁きを受けねばならないことを想い出しましょう。それから、すべての無駄口、何の役にもたたない考え、悪いものを見ること、すべての悪徳の行い、つまり、清くないどんな小さなものも火で清められねばならないのです。福音書にいわれているように、「一りん残らず返すまで」(マタイ5・26)、つまり完全に清められるまで煉獄の火から出られないでしょう。

 それで、地上にいる間に、犯した罪のために神につぐないを捧げることは、わたしたちにとって最も賢明なことです。地上での苦しみは、煉獄のあの恐ろしい苦しみと比べるなら、ずっと軽いからです。それに、地上における蕾しみは、自発的にひきうけるので、神のみ前により人融な功徳があるのです。


プロテスタントとカトリックの対話10 「煉獄を巡って」

2017-12-05 23:59:05 | 煉獄
『死者のための祈り- 聖ドン・ボスコの教え』アロイジオ・デルコル神父編、15

◆4-2、煉獄の霊魂のために祈りを捧げることについて

 霊魂が煉獄で受けている大きな苦しみを考え、わたしたちが助けるように努力しなければならないとしたら、もっと大きな理由でそうしなければなりません。なぜなら、かれらの多くは、わたしたちと友情、あるいは、親、兄弟、姉妹などのような親族関係で結ばれているからです。これらの人たちには、いろいろと恩恵を受けているので、わたしたちは、かれらに対して義務をおおっているのです。たぶん、その人たちのうちのある人は、わたしたちを愛しすぎたために、あるいは、わたしたちが今持っている財産を得させようとして心配しすぎたために今苦しみを受けているのですから、なおさらです。

 わたしたちは、これらの人々の霊魂に対して沢山の理由で結ばれていますが、この人たちは、今こそ声をあげ聖なるヨブの言葉をかりて、わたしたちの祈りを願っています、「わたしをあわれめ、わたしをあわれめ、ああ・少なくとも、あなたたちわたしの友よ、神のみ手がわたしを打ったのだ」(ヨブの書19・2ユ)と。つまり、友情や親戚関係でわたしに結ばれている少なくともあなたたちは、わたしを、あわれんで助けてください。神のカつよい正しいみ手が、わたしを打ったからですと。

 それで、キリスト者である読者よ、わたしたちは、自分の力のおよぶかぎり、煉獄で苦しんでいる霊魂を助けるようにと、はげまされていると同時に、いつかわたしたちにも同じ立場にいることになるだろうと考えて、信仰を深めるようにしましょう。これを書いているわたしも、これを読んでおられるあなたも、これらの偉大な真理を思いめぐらしましょう。

1、罪とは、一般の人が考えているよりも恐ろしい悪であると考えねばなりません。なぜなら、正しい人が死ぬまえに小さな罪でも犯しているなら、死んでから、っぐないとして、これほど恐ろしい罰を受けねばならないからです。

2、神の聖徳と清さは、どれほど理解しにくいものでしょう。なぜなら、罪のどんなに小さな汚れでもあれば神に近づくことが不可能だからです。

3、地上での生活の時間がわたしたちに与えられているのは、自分を清めて神を得るのにふさわしくなるためです。それで、もし、わたしたちが今時間を無駄に使いそのあとでこの世での時間がなくなる恐れがあるのですから、時間のすべての瞬間をたいせつにしなければなりません。

4、永遠の救いのこれほど重大なことのために、神はどれほどの時間を与えようとしておられるかを、わたしたちは知りません。それで救いのことを真剣に考えて、どんなことがあっても、救いに必要なことをのばしてはならないのです。

(続く)