キリストのあかしびと 公教会の教父たち

公教会(カトリック教会)の諸聖人、教父、神父らの伝記を掲載していきたいと思います。彼らは、クリスチャンの模範です。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ 下男の解雇の取り消しを頼み込む

2017-04-07 02:01:55 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、13

◆、モリモンド村のお医者さん(4)

 あるときのことでしたが、小学校時代の学友が同じ村に働いていたので、パンプーリ先生は、いろんなことをこの人に頼んでいました。その例をあげますと、ある日、その友だちに自分の財布を渡していいました、「あのね、○○さんを診察しましたらね、八名も子どもがいて、とても貧しい家族でした。パンも通い帳で買い、借金が重なって、とても困っていたのですよ、わたしは、通い帳をそっと取ってきましたからね・・・ここにあります、この財布でパン屋へのつけを全部払ってきてくれませんか?・・・でもお願いですから、わたしのことを誰にも口にしないでくださいよ」と。

 また、ある日、こんなこともありました。叔父が、ひとりの下男がぶどう酒を飲みすぎて、よっぱらったからといって、この下男を首にしようと決めたのです。このあわれな下男は、かれパンプーリ先生と同じ年齢でした。パンプーリは、このことを知ると、叔父の所にとんでいって、「叔父さんは、たった一回のことで、そんなきびしい罰を決めるのですか!」と熱心に頼んだので、とうとう叔父は、パンプーリの言葉を聞きいれてやって、この罰をとり消したものでした。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ ◆、モリモンド村のお医者さん(3)

2017-04-07 01:54:40 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、12

◆、モリモンド村のお医者さん(3)

 ある日のことです。パンプーリの靴は破れ、とてもみられたざまではなかったのです。なんとその靴はかれのものではなく、誰かととりかえたものでした。このことについて問われると、かれは、冗談のようにこういうのでした、「わたしは馬車でいきますが、あの人は歩いていくので、わたしより靴をすり減らすのはあたりまえでしょう」と。

 嘱託医だったかれは、充分な給料をもらっていたのに、月の半ばごろになると、もう何も残っていないほどでした。それもそのはず、貧しい人を助けたり、小教区活動のためにも使っていたのですから。

 またある時は、上着なしに往診に行ったことがありました。上着なしの医者なんて、考えられなかったので、かれは、いいわけをして、「今日は暑いからね」といいましたが、実をいえば、上着をもたない人にやってしまったからでした。

 老人には特別に親切でした。たとえば、かれらが、「治療費や診察代はおいくらでしょうか?」と聞くと、「そんなことなら、あした、あした」とい.って何もお礼をとらないのです。それにしても、ただ一度だけ例外がありました。それは姉が店がしまっていて、買い物ができなかったからです。かれは、「あのすみませんが、お礼として少しばかり野菜をめぐんでくださいませんか」と頼みました。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ 医者だったら、主任司祭、薬剤師、警察署長のような威厳を示すこともできたのに、そんな態度は少しもなく

2017-04-06 23:58:19 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、11

◆、モリモンド村のお医者さん(2)

 医者だったら、主任司祭、薬剤師、警察署長のような威厳を示すこともできたのに、そんな態度は少しもなく、服装もいたって質素でした。

 姉のシスター・ロンジーナは、病人に対するかれの愛にみちた次のエピソードを伝えています。ある朝ひとりのおばあさんがやってきて、一つの包みを医者にうやうやしくさしあげましたが、それは、開いてみるとなんと二つのキャベツだったのです。でも、これは、おばあさんの全財産だったのでした。おばあさんは、どうしても受け取って下さいと願って聞きません。なぜなら、それはおばあさんの切なる感謝のしるしだったからです。どんなに深い感謝をしていたことでしょう。それもそのはず、おばあさんは頭におできが出来、苦しんでいましたから、パンプーリ先生は薬をもってきて家族に頭を洗ってあげるように命じたのでした。でも間もなく家族のだれも、それをしてやっていないことに気付きました。こんな冷淡な家族を知ると、先生はそれから毎日おばあさんを訪れて自分の手で完全になおるまで治療してあげたのです。おばあさんは涙ぐましいほどの感謝を、どうして示そうかと考えたすえ、自分のものとしてはこれしかない二つのキャベツを、どうしても受け取ってほしいとしきりにたのんだのでした。

 家のきりもりをしていた姉のリタさんは、パンプーリのために食事の準備をしてあげていましたが、決して食べ物について不満をもらしたことはありませんでした。どんなものでも喜んで、美味しそうに食べるのでした。

 もちろん、姉のリタさんは、パンプーリひとりの食卓を準備していたのですが、家に帰ったかれは、ひとりか、ときには数人のこじきをつれてくることがあり、自分といっしょに食卓に坐わらせ、自分の食べ物をかれらに分けてやったのです。

 年中の主な祝日ともなると、十二人もの客を家に招くのでした。招く人は、村のいちばん貧しい人たちの中から選びました。自ら給仕をし、みんなが十分に食べないうちは、自分は坐わらないで、給仕を続けました。

 かれは、医者になる前、トルリーノ村の親戚の家に住んでいて、大学生の時もたびたびそこに帰っていましたが、医者になると定期的にそこへ帰って、叔父に穀物や果物、ぶどう酒と、にわとりなどを恵んでくれるように願っていました。叔父の妻は、喜んで何でも豊富に与えるように夫にすすめました。「パンプーリ先生、どうせこれはみんな貧しい人の手に渡るのでしょう」といってほほえみ、食物以外にも毛布や服、下着、靴までも、みんな貧しい人に分け与えていました。

 しかし家事を受けもっているリタさんは、「あまり嬉しくありません」と親戚の人にこぼしていました、「こんな調子じゃ、もうやっていけないわ、だって弟は何でも人にやってしまうんですもの」と。でも弟のパンプーリはほほえみながら、答えていうのでした、「わたしは、困っている人にはいやだなんていえないよ」と。だからもう姉は、それ以上文句はいえなかったのです。

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ ◆3、モリモンド村のお医者さん

2017-04-06 22:29:36 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、10

◆3、モリモンド村のお医者さん

 ミラノから約二十七キロぐらい離れた所に、モリモンドという村があります。ここは、かれがこれまで住んでいたトルリーノ村から約十五キロ離れた所で、ここでは、非常に広い面積に農家がぽつん、ぽつんと散らばっていました。道路はガタゴト道で、その上あの当時自動車というものがなかったので、医者は一頭だての二輪馬車を自家用車としていました。よい季節にはかれは自転車を使っていました。

 正式の医者の免許状をもらったパンプーリ先生は、この村の嘱託医となったのです。この村には十三世紀にさかのぼるシトー修道会の大修道院があったのですが、フランス革命が修道者を追い出して、ただ一つ聖堂だけがぽつんととりのこされていました。パンプーリ先生は、この聖堂の近くにあった家に居を定め、ここで六年間ものあいだ働きました。姉のり夕さんがやってきて、いっしょに住み家事いっさいを、きりもりしました。

 若い医者がこの村につとめると、村人たちは今までの、そして、その頃の一般の医者とは一風変わっていることに気付きはじめました。

 かれは着任した日から、毎日ミサ聖祭にあずかり、聖体拝領をし、熱心な信仰生活の模範を示しはじめました。あの当時の医者たちは、信仰なんて・・・と馬鹿にして守らなかったのですから、パンプーリ先生の生活ぶりにみんなあっと驚きの目をみはりました。医者としての生活も前の人とは全く異なっていました。往診をたのまれると、飛んで駆けつけ、決して治療の謝礼を願うことなどありませんでした。それどころか、その病人が貧しいと分かると、病人の気付かないうちに、いくばくかのお金を机の上に置いてきたものです。当時この地方には、貧しい人が多かったのです。それで、せっかく効めのある薬を教えても家族は薬局から、それを買うことができません。こんな場合が多かったのですが、かれは自分で薬局に行ってその薬を注文し、自分でお金を払ってのませたものです。こんなわけですから、近所の人々は、パンプーリ先生の家は診療所というより、慈善事業の家みたいだといっていました。

 そうです、医者パンプーリは、福音の精神に従って、貧しい人を優先的に世話していました。かれは病人の中にかくれたキリストの姿を見ていました。パンプーリ先生は、中世紀の神の聖ヨハネをはじめ、古代と現代の多くの聖人たちのようにしました。あとで神の聖ヨハネが創立した病院修道会員になろうと決めましたが、すでにこの頃からそれをあごがわれていたのではないでしょうか?

聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ 9 ◆、第一次世界大戦のとき(2)

2017-04-01 23:52:03 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、9

◆、第一次世界大戦のとき(2)

 一九一七年の秋、前線のイタリア軍は大敗北を受けました。それで、カポレットという山地に包囲されないよう退く命令がくだったのです。退くといっても、みんなは、あわてふためいて、われ先に逃げようとしていたのです。野戦病院の軍医たちも、兵士たちといっしょに逃げるため医療品をみんな捨ててしまいました。その中にあってパンプーリは、哀れな負傷者のために貴重な医療品を救おうと思いました。車をみつけると、ひとりの子どもに助けられ、医療品を全部のせましたが、もう車をひく馬もいません。そのとき畑にさまよっていた牛をみつけ、これに引かせると、ひとりで出発しました。道はどろんこ道なうえ、敵の攻撃も受けました。しかしかれは、それをものともしないで、おりからふりしきる大雨の中を二十四時間も歩き続け、ラティザナ町の近くで、自分の部隊に追いつくことができました。

 かれは、もうすでに行方不明と思われていたのに、車に医療品を山と積んできたのですから、大変な歓迎を受けました。そのため、あとで勲章や年金までも貰うことになったのですが、肋膜炎にかかって、その悪影響は一生涯つづいたのです。

 敗北ののちにも、他の野戦病院を転々として働くようになり、戦争が終わっても軍医としてとどまりました。そして一九二〇年四月、ついに兵役をとかれ次の年には、みごとに医学博士号を得ました。

 しかし、かれには、もっと大事に思うことがありました。それは、フランシスコ会の第三会に入って修士アントニオを名のるということです。まだ当分のあいだ世間に残るとしても、次第に強くなっていく修道生活へのあこがれを示しはじめました。かれはエジプトの姉に次のように手紙を書いています。

「今わたしは、霊的世界においても、あなたとより親密な兄弟となりました。なぜなら、なおいっそう聖徳をめざすために聖フランシスコのこ保護を求めてフランシスコ会第三会に入会したからです」と。