『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、25
◆4-2、教皇パウロ6世への手紙
4)この説はまた、教会の一致に背くことを、ラッタンツィ神父は、次のように注意しています。もし、司教が支配権をうけるのが、教皇からでなく、叙階式によるのであれば、司教は、いつでも、どこにおいても、有効に支配権を行使することができることになります。
そうすると、離教教会の司教は、公会議に、正式の教父として参加する権利があるといわねばならないことになります。しかし、事実は、そうでなく、教皇のはからいで、オブザーバーとして参加するとしても、それは、権利でなく、例外的な許可でしかありませんでしたと。
5)叙階式による聖化職と、統治職(または、支配権)の区別は、12世紀以前にはなかったと、新しい説の支持者たちは、言いふらしましたが、これに対して、ラッタンツィ神父は、これを否定して、その区別は、少なくとも、4世紀に遡っても確められると言って、歴代の教皇たちの多くの文献で証明しました。それだけではありません。彼は、新約聖書にも、このことが暗示されていると述べています。事実、トレント公会議の明白な教えによれば、使徒たちが、司教に叙階されたのは、最後の晩餐であって、(ルカ22・19、コリソト前11・25)支配権を受けたのは、キリストの復活後です。
まずペトロひとりに、(ヨハネ21・15-17)、ついで、他の使徒たち(マタイ28・19)にです。つまり、最後の晩餐の叙階式では、使徒たちのひとりも、支配権をうけてなかったことが、これでわかります。ニケア公会議は、支配権が司教に授けられるのは、叙階式と同時ではあるが、しかし、叙階式の力によってではないと、明らかに断言しています。
ラッタンツィ神父は、以上のことを教皇パウロ6世に書簡で書きおくり、問題の第三章の再検討を命じてくださるようにと願いました。教皇は、その通りにされたので、正しく改められた問題の第三童が発布されました。1964年11月21日のことです。
(ウゴ・ラッタンツィ神父の弟フェデリコ・ラッタンツィ神父と、日本語版の小伝を企画したデルコル神父。1983年5月29日にローマにおいて)