写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

一本背負い

2019年09月25日 | 随想

追突事故に見舞われた。俗に言う「オカマ」を掘られた、という訳だ。

 

前方が混んできていたので徐行していたとき、いきなり後ろのほうから突然のド~ンという衝撃を受け、一瞬、「ぅえ~っ、なんちゅうことをしでかしてくれたんじゃい・・・」という、ぶつけてきた相手への責めと憎悪の念をムラムラっと催したが、すぐに諦めの気持ちに切り替えた。事故処理は警察に、壊れた車を直すのは保険屋と修理工場に、それぞれ任せるしかない・・・・。にしても、乗っていたクルマは買って数週間しか経っていない、というところが実に忌ま忌ましい、っちゃぁ忌ま忌ましく・・・悲しい気持ちだ。

 

ぶつけられた瞬間のカラダの感触については、「あれっ?この感覚は・・・」と遠い昔を思い起こしていた。そう、柔道の背負い投げで1本取られたときの、あの感覚と同じようだった。

 

中高生の頃、クラブには入っていなかったが、結構、柔道が得意だった。最初はちょっとバランスを崩されたところに相手の足技があったりしてすぐに倒されて、これが結構シャクに障ったものだったが、ワザそのものが理に叶った科学的な根拠に基づいている、ということが理解できてからは、自分でも仕掛けてみよう・・ということで実践してみたら、これが結構みなさん気持ちよく引っ掛かってくれて、面白いようにバッタバッタ倒れてくれたりした。

上背があるほうではなかったが、だからこそ、相手の懐に入り込んで背負い投げとかを掛けるのを得意としていて、結構上背のある相手を空中で回転させて投げ飛ばしたりしたもんだった。相手からすれば、急に目の前の俺がしゃがみ込んだと思った瞬間、肩の上に乗せられて空中で大回転させられ、気がついたときにゃ畳の上に叩き付けられていた、という一瞬の出来事だった訳だ。

 

しかし、まぁ、得意技ってのは自分が掛けられると、これがまた全く防ぎようがなく、結構簡単に引っ掛かったりして畳の上に背中から勢いよくバタンと落とされたもんだった。たぶん、本能的に受け身の体勢はとっていたと思うのだが、そこら辺のことはよく覚えていない。

 

で、そんときの、全身へのドスンという衝撃、それが今回の追突の「ドーン」という感触に似ていた・・・、ような気がする・・・、みたいなのだ。(高校の寒稽古明けの試合では巨漢に押しつぶされて、そのまま寝技で1本負けした。あんなもん柔道でも何でもなぃやろ!)

 

世間では、追突事故というのは後遺症が心配だということで、保険屋なんかもしつっこく「何ともないですか?」と聞いてきたりして、「5日以上通院すると・・・」などと損得ばかりの解説を長々と電話でしゃべったりしている。保険を使わないと損だというのだが・・・保険を使うということは「人身事故」扱いになるということで・・・・免許の更新(2016年8月13日)のところで書いていたが(今でも思い出すと怒りが込み上げてくるぞぃ)、被害状況なんざぁいっくらでも捏造できる、ってぇことだ。これが実に腹立たしい。それでもって、加害者を成敗してやる、などという気持ちが働いていたとしたら、これは言語道断というものだろう。

加害者への恨み辛みがある訳でもなく、己が身体の痛いところがある訳でもないくせに、治療費を保険から得るために病院通いをする・・・そういう卑怯なマネも、俺には到底できっこない。意地でも、やせ我慢をしても、「何ともない」状況を守り抜くつもりだ。

 

被害者なら何をしても良い、という訳じゃない。事故なんてものは、事故のときは加害者と被害者であっても、時間の経過とともに立場が逆転してしまうものだ。被害者こそが正義、被害者のほうがエラい、というふうになってしまう訳だ。いゃ、例の国のことを言っているのではない。

 

被害者だから何を請求していい、ってぇもんじゃない。竹光(タケミツ)(2019年8月31日 )のところでちょっと紹介していた「八観六験」の中に、「賤則観其所不為」賤なれば其の為さざる所を観る(落ちぶれたときに、何をしないかで人物がわかる。)、というものがあったが、正に、事故に遭って被害者となった今、「何をしないか」が問われているのだ、と心得る。

あるいは、時間が経って立場が逆転した加害者へは、被害者のほうこそ惻隠の情を発揮すべきだ、という思いもある。卑怯な振る舞いを嫌悪する、ということが武士道精神につながると藤原正彦先生も指摘されている。

人間、凡庸でも真っ正直に生きたいものだ。

 

 

 

フランス代表、ナミビア代表、イタリア代表の選手が試合後にロッカールームをキレイにしてくれました!Thank you!