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中川昭一氏「哀惜の会」弔辞 河村建夫前内閣官房長官

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
亡くなる1週間前に電話した際には「再起を期して頑張る」と元気よく言っていただけに、急逝の報は信じたくない思いで真っ白になった。

経済産業大臣の当時、官僚がつくった答弁書に目もくれずよどみない答弁には感嘆させられた。いずれ日本を背負って立つ1人になってほしい、常にそう思っていた。

国益を最優先に考え、凛(りん)とした政治家だっただけでなく、ふるさと北海道への強い思いも強く感じた。

自民党が真の保守政党として再生を目指す上でキーパーソンだっただけに、わが党にとって大きな損失。

きっとあなたは今、千の風になって大きな北海道の大地を、日本の空を吹き渡っていることだろう。

昭一先生どうか、最愛の郁子夫人をはじめご家族、北海道、日本、自民党をお守り下さい。

中川昭一氏「哀惜の会」弔辞 安倍晋三元首相

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
中川先生は、こよなく愛した十勝の大地に帰って行かれた。

日本のため、私たちのため、何事にも全力で打ち込んだ56年の人生だった。

経産大臣、農水大臣時代、海外出張は43回に及び、どの出張も国益を守るための厳しい交渉、まさに自らの体と命を削るような仕事ぶりだった。

拉致問題、憲法の問題、教科書問題でも、私たちの最前線に立って先駆けていく、リーダーぶりを発揮してもらった。

もっと生きてもらい先頭に立ってもらいたかった。

吉田松陰の残した書簡に「人の一生は長さによって計ることはできない」という言葉がある。

中川昭一さんの56年は人間として、政治家として、立派に生き抜いた人生だった。

私たちは中川さんの残した種を育て、誇りある日本を残すために全力を尽くすことを誓う。

中川昭一氏「哀惜の会」弔辞 麻生太郎前首相

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
昭ちゃん。

まさかあなたの弔辞を13歳も年上の私が読むことになろうとは。

100年に1度という世界同時不況時に、財務・金融担当大臣という要職を兼務し今回の総選挙で自民党が政権与党の座を失ったことが、今回の悲劇を生んだ一端ではないかと、大変心苦しく申し訳なく思っている。

「政治家はわが身無念と思えども、国のためなら本懐なり」

あなたにこの言葉を贈りたい。

自民党は保守理念の再構築を果たさねばならない。

中核を担うと期待していた中川先生を失い、われわれの気力がなえたことも事実だが、われわれは中川先生の遺志を継ぐ義務と責任がある。

「死せる中川生ける保守を走らす」

これがあなたが最も望んでいることだろう。

残されたわれわれは歯を食いしばって頑張る。

中川昭一氏葬儀謝辞 喪主 中川郁子さん

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
本日は、主人の葬儀にお忙しい中をご参列を賜りましたこと、心から御礼を申し上げます。

また昨日のお通夜、そして本日と、大勢の皆様方にご弔慰頂きましたこと、心から感謝をしております。

「56年の生涯の中で、皆様方に大切にして頂いたこと、心から感謝しています」主人の声が聞こえるような気が致します。

また、26年間の政治家としての生活の中で、多くの皆様方に大変なご指導を頂き、大変応援をして頂いて、お世話になり、主人は心から、「ありがとうございました」と申し上げていると思っております。

26年間勤めさせていた国会、自由民主党、本当にお世話になりました。

北海道の選挙区の方、今は厳しい状況であると思いますけども、これからの繁栄を祈っているのではないかと思っております。

ライフワークの水の研究をさせて頂きたい。

充電期間を充実させて頂いて、色々な夢を語っておりました。

本人もそういう時だけに、悔しい気持ちでいるのではないかなと思っております。

ここ数年、日本が危ないと繰り返し、私に申しておりました。

国を愛する心を気持ちの中心に見据えて、私たちは本当に非力ではありますけど、お世話になった方にご恩返しをさせて頂きたいと存じております。

本日は自由民主党の合葬ということで、葬儀委員長を引き受けて下さいました谷垣総裁、ご参列を下さいました皆様方、感謝を申し上げさせて頂きまして、ご挨拶とさせて頂きます。

中川昭一氏葬儀弔辞 友人代表 安倍晋三

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
私と昭一さんとはお互い、父親が親しい政治家同士という関係もあり、家族ぐるみの付き合いをさせて頂きました。

政治の世界に足を踏み入れて今日、長く親交を深めることが出来たのは、私の喜びとするところであります。

先般の総選挙直後、お目にかかったときにはさすがにお疲れの様子でしたが、2週間ほど前電話で話した際は、大変元気で、「安倍ちゃん、保守再生のために頑張ろうよ」と語りかけていました。

その矢先の突然の訃報に私は愕然とし、言葉を失いました。

再起を目指していた昭一さんの意欲に、多くの人たちが期待していただけに無念であり、返す返すも残念であり、本人もさぞかし悔しい思いだったことでしょう。

私が初めて選挙戦に臨んだ際、昭一さんは当選3回でした。

まだご自分の選挙に集中しなくてはならない中で、あなたは私の選挙区に足を運び、喉にしみる応援演説をして下さいました。

当選後は国家の基本問題で、大きな議論が起こったとき、私は昭一さんと行動を共にしてきました。

常に昭一さんがリーダーで、颯爽とした若武者ぶりは、当時の私たち若手議員を奮い立たせる魅力と力になっていました。

今でも忘れません。

私は村山政権時代、このままでは日本は危ないという危機感の中で、教科書問題にも取り組みました。

中学生の歴史教科書全ての従軍や強制連行の記述が載る事になり、このような自虐的歴史観を何とか正し、子供たちが日本に生まれたことに誇りをもてる、そういう国に変えたい。

その一身で、当時の政治状況、マスコミの報道振りから考えれば、圧倒的に不利な情勢で、まさに多勢に無勢でした。

そんな中私たちは、日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会を立ち上げ、メンバーの創意で、昭一さんに会長をお願いしました。

批判の矢面に立たされる危険がある中、俗にいえば票にもつながらない、政治キャリアにはマイナスかもしれない約束を、昭一さんは俺がやらねばという思いで、引き受けてくれました。

拉致問題でも、全力投球でしたね。

憲法改正問題も同様でした。

今から思えば、全て困難な問題ばかりで、私はまだ当選1・2回の頃、若手の仲間と昭一さんに何でも押し付けていいのかなと話し合ったことがあります。

しかし責任感の強い昭一さんは、自ら困難な問題に立ち向かい、その後教科書の記述は改善されました。

難局に立ち向かうことで世の中を変えていく。

そのためには全力で戦う。

戦う政治家の姿をあなたから学びました。

小泉内閣時代、昭一さんは経済産業大臣、農水大臣を歴任されました。

その間海外出張は43回にも上りました。

国会審議の合間を縫っての出張であり、激務でありました。

東シナ海の油田問題であなたの毅然とした外交姿勢は、自然外交の重要性、国益を守るとはなんなのか、ということを、私たちに身をもって示してくれました。

安倍内閣が誕生したとき、私は迷わずあなたに政調会長就任をお願いしました。

平成19年4月、通常国会で昭一さんは代表質問の壇上に立ちました。

奥さんの話では、真面目な昭一さんは深夜まで何回も推敲をされたそうであります。

その冒頭、昭一さんは張りのある声でこう切り出しました。


国家の骨格を成すのは憲法・安全保障・教育であります。


そして結びで、アインシュタインが賞賛した日本人の謙虚、質素などの美徳を保ちつつ、誇りと自信を持った国民、見える部分、見えない心の部分をともに、真に美しい国日本が絶賛されるよう全力を挙げて努力することをお誓いします、と述べられました。

私は代表質問で、共に歩んできた道、戦ってきた道に思いを込めました。

あなたの歩んできた道は、国家のため、その一筋でした。

お別れの時が来ました。

私は残されたご家族・参列の皆様に改めて、お伝えしたいと思います。

中川昭一は立派な政治家でした。

まだまだ国家のために一緒に闘って欲しかった。

私達はあなたを必要としていました。

こんなことを申し上げていると、あの魅力的で誰をも虜にするはにかんだ笑顔で、 「そんなに褒めるなよ安倍ちゃん」という昭一さんの声が聞こえてくるようです。

郁子さんは、昭一さんとの幸せな日々を胸に、お2人のお子様と中川家を守っていかれると思います。

そして残された私達はあなたが目指した誇りある日本を作るため。

保守再生に向けて全力で取り組むことをお約束し、弔辞と致します。

さようなら。安らかにお眠り下さい。


※安倍氏は弔辞の中で二人のお子さんに 「お父さまが中川昭一であることに誇りを持って下さい」 と語りかけたそうです。

中川昭一氏葬儀弔辞 同士代表 志師会会長 井吹文明

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
中川昭一先生と永久のお別れの時を迎え、惜別の情を抑えがたく、政策集団『志師会』の同士一同を代表し、心情の一端を申し上げ、天国に旅立つ○○の惜別の言葉といたします。

中川昭一さん、あなたとの始めての出会いは、昭和58年12月の初当選の時でしたから、26年のご厚誼を頂いていたことになります。

あの時の当選者は84人で、自民党で当選した者は23人。

昭一さん、あなたはその中で一番若い30歳の青年代議士でありました。

当選落選はありましたが、今政界に残っているのは、衆議院で8人、参議院に移った2人とわずか10人に過ぎません。

一番若いあなたには、必ず政界に復帰し、同期の中で一番最後まで日本のために働いてくれるものと誰もが期待していたために、突然のご逝去は日本のため、また難しい域にある自由民主党にとっても大きな損失であったと思います。

私たちの政策集団『志師会』は、中曽根康弘元総理の政治理念を大切にしている、保守主義の政策集団です。

中川昭一さん、あなたは本日お見えの亀井静香先生や平沼赳夫先生とご一緒に、この政治理念に召命され、10年前に志師会に大同団結されました。

それ以来、離合集散もありましたが、あなたは志師会にとどまり、非力な私を会長代行として支えて頂きました。

またこの間、政府においても党においても幾多の要職を歴任され、日本国のため貢献したことは多くの方々が知ることであります。

現在の政界やマスメディアは保守という言葉ははっきりした定義もなく安易に便宜的に使われていることに、中川昭一さん、あながた例の苦笑いの表情を天国で浮かべておられるのではないでしょうか。

例えばアメリカの資本主義、いわゆるネオコンは、米国主義の国家主義思想であって、エドマンド・バークやハイエック以来の政党保守の思想とは全く異質のものであります。

保守とは、人間の本線に身代を、人間の積み上げてきた良き文化や慣習に謙虚な姿勢の理念です。

人間は欠点の多いものであるからこそ、社会を発展させる原動力たる○○、利己責任、創意工夫を基本とする自由社会市場経済は、格差による社会不安を生じさせます。

政党保守はたかだか100年も生きられない一部の人間の、その時の価値感に基づく政府の介入で、この結果を繕うのではなく、最小限にこれを押さえ、人間の作り上げたよき伝統、自己抑制、矜持に期待する政治思想です。

であるが故に政党保守の思想は、この後友人代表として弔辞を読んで頂く安倍内閣の時にそうであったように、良き人間を作る教育を重視し、伝統的批判の伝達装置である国家、民族地域社会家族を守ることをするのです。

だから昭一さん、あなたはこのことを最も良く理解していた数少ない政治家の一人です。

政権が変わり、誰かの汗と努力の結晶、そのときの政府与党の価値判断で、長期間にわたる綱領的政党として誰かに直接給付、再配分し、一度の選挙で得た多数のみを、政府与党の価値観を地方統制的に解脱する国家社会主義的正義が始まりつつあるとき、日本社会を動かす理念として自由主義、日本を統治するシステムとしては密生を基本とする政党修行は、野党は回復軸として国民に提示せねばなりません。

君はその旗を掲げうる人として期待されていました。

なぜ旗を掲げる前に逝ってしまってのか。

君の逝去は日本にとり、わが党にとり、大きな損失です。

早すぎるよ昭ちゃん、という気持ちです。

責任感が強く家族思いであったあなたの心残りは、奥さんお子さんのことであり、地元北海道のことでしょう。

我々志師会の同士一同は、心をひとつにし協力し、あなたの心残りを和らげたいと思います。

あなたの政治的無念を晴らすためにも、自民党は正しい保守の何たるかをしっかりと理解し、国民の信頼を取り戻す努力をすることを、君のご霊前にお誓いします。

中川昭一さん、どうか安らかにお眠り下さい。
そして天国から愛するご家族をお見守り下さい。

友逝きて、白菊一輪の野仏に。友逝きて、白菊一輪の野仏に。


※○○=聴き取り不明箇所

中川昭一氏葬儀弔辞 葬儀員長 自由民主党総裁 谷垣禎一

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一
本日ここに、元自由民主党政務調査会長、故中川昭一先生の葬儀が執り行われるに当たり、謹んでご霊前に哀悼の儀を捧げます。

中川先生、とうとうお別れのときが参りました。

先生とは同時期に議席を得た間柄であり、共に麻布学園の出身というご縁から、長年にわたり親しくさせて頂きました。

先の総選挙では奮闘の甲斐なく無念の涙をのまれたものの、真の保守政治家として高い志をお持ちの先生のこと、いずれ来たる政戦において、必ずや再挙を果たされるものと固く信じておりました故、あまり突然のご不幸に接し、言うべき言葉も見つかりませんでした。

56歳という若さ、政治家としてまさにこれからという時期に、ひとり天界に身を委ねようとは、一体誰が想像したでしょうか。

盛者必滅は世の習いとはいえ、今日こうして先生のご遺影を拝し、まことに痛惜の念にたえません。

先生は昭和28年7月19日、故中川一郎先生のご長男としてお生まれになり、昭和53年東京大学法学部卒業後、当時の日本興業銀行に就かれました。

その時一郎先生のご意志を継いで、昭和58年12月の第37回衆議院総選挙に出馬され、初当選以来連続かつ、25年もの長きに渡って、国政に参加されました。

この間政府にあっては、経済産業大臣、農林水産大臣、財務大臣、金融担当大臣としてご活躍され、我が自由民主党においても、組織本部長、広報本部長、政務調査会長など、数々歴任されました。

多岐にわたる政治活動は、枚挙に暇がありませんが、北朝鮮による日本人拉致問題への取り組みは誰もが忘れることが出来ない、決して忘れてはならない大きな足跡であります。

警察による調査や関係者の証言などから、北朝鮮による拉致の疑いが次第に明らかになる一方で、北朝鮮側は、たいして関与していない。

国内からも北朝鮮の関与が懐疑的な声が聞こえる中で、先生は早くから被害者の救済、被害者家族の支援に尽力されました。後年、小泉総理の訪朝に関して、北朝鮮は日本人を拉致した事実を認め、一部の被害者の方々が帰国されましたが、先生は更なる被害者救済に向け、地道な活動を継続されました。

国民を守るという言葉は、多くの政治家が口にします。

しかし先生ほどこの言葉の本質を自らの行動で再現された政治家を、私は他に知りません。

日本と日本人を守るために、自民党がしっかりしなければならない、これは先生がご自身のHPに最後に掲載された文章の一節です。

“選挙が終わって―『十勝・日本が危ない』”と題された、9月14日付けの文章には、支援者の方々への感謝の心、地元十勝と日本の行く末を案じる思い、そして自由民主党への愛情が溢れています。少し長くなりますが、くだりを紹介させて下さい。


“自民党の原点は「保守」なのだ。そして今こそ原点に戻るべきなのだ。  
「保守」とは守るべきものを守り、保守すべきために改革する。
そして国民の活力に期待して成長のための戦略を描く。
リベラリズム、ポピュリズム政権とどう区別し、対抗していくか。
地球の中で生き残り、真に国民を守るために何をなすべきか。
と言った議論が全く欠けている。
私を含め、「保守」議員の多くがいなくなったが、まだ残っている。
彼らがいかに保守の旗印をもう一度立て直し、日本を守り、真の意味で国民を守るかを真摯に議論してほしい。
心ある国民はそれを是非応援してほしい。
自民党は今こそ日本の保守の軸を改めて確立するために全力を尽くすべきだ”

 
今こうして改めて読み返してみると、先生が私たちの進んでいく道を指し示して下さっているよう思えてなりません。

中川先生、私たちは先生の最後のお声を肝に銘じ、この自由民主党を再び国民の負託に耐えうる政党に立て直してまいります。

そして必ずや政権を奪還し、真に日本と国民を守る政治を実現することをお誓い申し上げます。どうぞお見守り下さい。

ここに改めて生前のご功績をたたえ、心からご冥福をお祈り申し上げ、お別れの言葉とさせて頂きます。

中川昭一 追悼

2009-11-21 | 中川-英霊追悼-昭一


谷津義男さんの中川昭一の思い出。
2001年のWTOドーハ・ラウンド。
宣言文を出すときに、原案の一部-日本の「多面的機能」という主張がいつの間にか削ら れていた。
怒った昭さんは夜中に、アメリカの代表のところに怒鳴り込んでいった。
こちらは日本語で「とんでもない」と激しく詰問、相手は英語、物凄い言い合いになった 。
昭さんのその時の表情は凄かった。
最終的に昭さんの言い分どおり、元通りに修正させた。
そのときの話を谷津さんが語る。

島村さんもこう語る。
「外国に対して強い男だった。ほんとに惜しい。
国際会議では断然引き立つ男だった。
やる時はやる。半端じゃなかった。」

しかし、外国に対しては強面の一方で、気配りもでき、
政治思想で合わない政治家はいたが、昭さんの人柄を嫌う政治家はひとりもいなかった。