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Retro-gaming and so on

Atari Lynx

初めに四賢者ありき。

  1. ジェイ・マイナー: ATARIで最初の家庭用カートリッジ式ビデオゲームコンソール、ATARI 2600の画像・音声用カスタムチップデザインを担当。また後にホビーパソコン、ATARI 400/800でも画像・音声用カスタムチップデザインを担当した。
  2. ロバート・J・ミカル: ピンボール・メーカーのウィリアムス・エレクトロニクスでアーケード用ビデオゲーム制作を担当してた。
  3. デーブ・ニードル: ハードウェア・エンジニア。
  4. デーブ・モース: おもちゃ屋のトンカ・トイズ出身で、マーケティング部門の総責任者(Vice-President)だった。トンカはミニカーメーカーなので、日本ではトミカを作ってたトミーにあたるのだろうか(笑)。いずれにせよ、恐らく「ビデオゲームビジネスはデカくなる」と予想してこっちに来たのか(笑)。
この四賢者が集まってリアルなフライトシミュレータが出来るビデオゲーム機を作って売ろう、とHi-Torroと言うベンチャー会社を1982年に作るわけだ。企画としてはモトローラ68000を中心としてカスタムチップを組み合わせた16bitゲーミングコンソール。コードネームを"Lorrain"と言う。
恐らく"Lorrain"は1983年くらいにはプロトタイプとして完成してたと思う。ところが、当初の企画と違ってゲーミング・コンソールではなく、パーソナル・コンピュータとなっていた。かつ、ベンチャー企業にありがちな、「資金難」に陥ってたわけだよ(笑)。そしてタイミングが悪く、いわゆる「アタリショック」のまっただ中だったわけだ。
Hi-Torroは、ジェイ・マイナーの口利きにより、古巣のアタリから資金援助を受ける。LorrainをATARIブランドとして売ろうと当初は考えてたらしい。しかし、二転三転してコモドールが販売を請け負いたい、と言う話になる。
コモドールは大ヒット商品である8bitホビーパソコン、コモドール64を持っていた。ところが、コモドールはコモドール躍進を作った社長、ジャック・トラミエルを追い出してしまうわけだ。アタマに来たトラミエルはコモドールの技術者の殆どを引き抜いてしまう。この時点で、コモドールは「来る16bit時代に備えるにもエンジニア(中身)が無い会社」になっちまうんだ。そしてトラミエルはアタリショックの最中、親会社のワーナーがアタリを売りに出してるのを知り、そのうち、コンピュータ部門を買収して「アタリ・コープ」を設立する(残り半身はナムコが買収して「アタリ・ゲームズ」になる)。
コモドールは結果、Lorrainをコモドールブランドで販売する事を決定する。また、Hi-Torroをコモドールの子会社とする。そしてこの時点で、Hi-TorroはAmiga Corporationと改名し、また、LorrainはCommodore Amiga 1000となり、「怪物マシン」として1985年にリリースされる。



とまぁ、これがAmigaデビューに至るまで、なんだけど、ホビーパソコンとしてはそこそこ知られていたAmigaだが、「売れたか?」と言われると、ニッチな市場は開拓したが「大成功」とは行かなかったんだよな。と言うより、この四賢者のうちの三人が絡んだハードウェアは「先進性」はピカイチだったんだけど、結果、マーケティング的には「失敗した」例ばっかなんだよ。
第一の躓きはコモドールの「営業方針」だ。先にも書いたけど、コモドールはジャック・トラミエルが去った時点で「エンジニアが殆どいない」会社になっていて、テクノロジー的には子会社のAmiga社に頼らざるを得ない状態だったんだ。つまり、親会社が「技術的にはアンポンタンである」と言う最悪の状況になっていた。
Amigaに於いての技術革新が、基本的には「止まったまま」と言う状況で(つまり先進性がどんどんと失われて行った)、1986年辺りにはロバート・J・ミカル、デーブ・ニードル、デーブ・モースらがAmiga社を去り、1988年にはジェイ・マイナーもコモドールを去ってしまう。
さて、四賢者のうちの三人、ロバート・J・ミカル、デーブ・ニードル、デーブ・モースら三人はどうしたか?と言うとEpyxと言うゲームメーカーに就職する。そう、いつか紹介したが「Temple of Apshai」と言うローグライクモドキを発表したメーカーで80年代はそこそこブイブイ言ってたメーカーだ。Amigaのサードパーティとしてもそこそこ有名だった(もちろんそれだけ、ってわけじゃないが)。
このEpyx、当然ソフトウェアメーカーなんだけど、80年代後半にゲーミング・コンソール・ビジネスに参入しよう、と画策するわけだ。当然当時は、米国でも任天堂がブイブイ言っていた。そこで「家庭用据え置き市場」では勝ち目はない、って判断したのか、「携帯ゲーム機」を企画してAmiga社から抜けてきた三人を中心に開発させるわけだ(この時、ジェイ・マイナーも開発に関わったらしい)。コードネームは"The Handy"。プロトタイプ自体は1987年には完成してたらしい(※1)。
ところがどっこい、ここでまたEpyxは資金難に陥る(笑)。そこで、Epyxはパートナーを探し、そこで名乗りを挙げたのが、アタリ・コープだったわけだよ(笑・※2)。
アタリが製造販売を請負い、Epyxがソフトウェアの作成、と分業する予定だったが、結局Epyxが主戦場のCommodore 64の売上の落ち込みに伴い経営難が確実となり、従業員を145人から20人へと減らす(笑)。もうそうなると開発もクソもなく、結局"The Handy"の権利は完全にアタリ・コープが掌握する。
1989年に結果、The Handyは"Atari Lynx"と改名して発売される事となるが、不幸はそれだけで終わらなかったんだ(笑)。なんとAtari Lynx発売の二ヶ月前、米国任天堂からゲームボーイが発売されたんだ。Atari Lynxはカラー、ゲームボーイは白黒、なんだけどまずは電池の駆動時間が圧倒的に違う。そしてLynxは重いがゲームボーイは軽かった。また、カートリッジの形状が、Lynxは完全に平たかった為抜き差ししづらい。ゲームボーイのカートリッジは抜き差ししやすい形状だ(このため、Lynxは「ラジオペンチで抜き差ししないといけない」と言われた)。そしてゲームボーイでは、ファミコンで集まったサードパーティが大量に参加していた。Lynxのサードパーティ数とは比較にならない数だったんだ。
唯一のアドバンテージは「カラーだ」と言う事なんだけど、翌年にはTurboExpress(PCエンジンGT)がお目見えし、二年後の1991年にはセガがゲームギアを北米で売り出す。ゲームギアはハードウェア的にはマスターシステムとほぼ同等なんで、ゲームソフトの移植がラクだ。要は同じカラーの携帯ゲーム機でも「ソフト資産」としてはLynxが勝てる相手ではなかったんだ(尤もゲームギアのソフトウェア資産なんぞはゲームボーイに歯が立つ相手じゃないが)。
とまぁ、「Amigaの作成者達」が立ち上げた携帯ゲーム機は、ホンマ散々だったんだよ(笑)。
CPUは8bitの、ATARI2600やファミコンで使われたMOS6502。ただし、発色は4096色中16色同時表示、サウンドは4チャンネル、と解像度は160×102だけどほぼ初代Amiga並のスペックを誇っている上、スプライト操作のカスタムチップを搭載してる上に数学演算用のチップも搭載してる、と言うハードウェアとしては当時では最高の部類だろう。でも負けちゃったんだよね(笑・※3)。
このAmiga開発組はこの後、トリップ・ホーキンスの誘いに乗って3DOの開発に乗り出すんだけど・・・・・・結果そこでも負けてしまう、と言う(苦笑)。Amigaの連中は技術革新は凄かったんだけど、なかなか波に乗り切れなかったよね、と言う話だ。

※1: これを以て、「世界初の携帯型ゲーム機」と言いたがる人が米国には多いみたいだが、実はこれ以前に日本ではエポック社のゲームポケコン、米国ではMicrovisionAdventure Visionがあった。

※2: 実はこの時点で任天堂に「販売しないか?」と話を持っていった、と言う逸話もある。ただし、任天堂はその試作機を見た時点で、「重いし、カラーはイイけど、電池の寿命が短すぎる」ってぇんで断ったらしい。

※3: Amigaに似通ったスペックの為、実際開発機材はCommodore Amigaになり、その為、ATARIはライバル社のCommodore Amigaを大量に買う羽目になった、と言うような話がある。
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