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Retro-gaming and so on

ラストエンペラー

もう、ここ10数年の中国の存在考えると、色々としょーがねぇな、と言う感想しか出てこない。
日本なんかも長らくODAで中国を援助してきたが、援助しなかった方が良かったんじゃないか、とか個人的には思ってる。
実際は長い間、例えばチベットへの弾圧とか、ずーっと中国は人権侵害をしてきてたのだ。日本はそれを「見て見ぬふりしつつ」中国を援助してきたのである。
今になって急に中国は人権侵害しだしたわけではない。マスコミは左翼系が多いせいで報道されなかっただけ、であって、ずーっとやってるこたぁ変わってないのだ。ただ、調子に乗って被害範囲が広がってるだけ、である。

と言う中国への苛立ちと共に。急に映画「ラストエンペラー」(1987)を思い出した。
ラストエンペラーは第60回アカデミー賞で9部門の賞を獲得しており、また、日本人としてははじめて、坂本龍一がアカデミー賞作曲賞を受賞している。



んで、この映画。確かに面白いのだ。
僕は劇場で公開当時観たわけで。面白い、と。ただ、どうもモヤる映画なのだ。素直に称賛出来ない。
モヤるとは何だろう。何らか言語化出来ない「不満点」があって、それがどっかに引っかかってるのである。
ラストエンペラーはそういう映画である。素直に「さすがアカデミー賞受賞作!」とならんのだ。何だろな、何が引っかかってるんだろな、と。しばらく謎だったのだ。

ストーリーは詳しくはWikipediaに譲るが、この映画は清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の物語である。時代は第二次世界大戦前後の話であり、愛新覚羅溥儀の波乱の人生を描いている。
が。個人的には実は全然別の話だと思っている。それに付いては後述しよう。
当時のパンフレットには次のような事が書かれていた。うろ覚えだが、

「中国の悪への断罪の仕方は西洋のそれとは違う。監督のベルドリッチが持った興味はその辺だ。」

と言うような事を。
しかし、これがまずは不思議だった。主人公、愛新覚羅溥儀はそれほど「悪」だったのだろうか、と。主人公に共感すればする程、そのコンセプトにまずは引っ掛かりを覚えるのだ。
どっちかと言うと愛新覚羅溥儀は清朝の皇帝でありながらも自由はない。彼は住居の紫禁城から一歩も外に出られない。皇帝でありながら世の中の「動き」とも接触が禁じられてるのである。事実上「監禁生活」を送ってるように描かれている。
そんな彼を観ていると、同情はしても、とてもじゃないけどまずは「悪」とは思えない。そんな彼を一体誰が断罪出来るのだろうか。
そして、この物語では日本人、及び大日本帝国は単なる「悪」に描かれている。まぁ、フザけんな、となるわな。歴史とはそんなに単純なモノじゃないだろう。今はその歴史観にはNoが突き付けられているが、ホント、この映画では日本人が出てきてても「悪の手先」であって、全く人としての交流は無い。そもそもそんな悪の手先に愛新覚羅溥儀が加担する、と言う構図になってるわけだが、んなバカな、とか思う。まぁ、時代の雰囲気があって、今だからこそ言える事でもあるわけだが。
まぁ、そもそも、イタリア人監督であるベルドリッチが、日本を刺し身のツマとして断罪、ってのは構造的には確かにフザケてるとは言える(笑)。お前の国自体が日本と同盟結んでたんだろ、と(笑)。「悪人は体の一部が欠損してるべき」ってんで甘粕正彦を隻腕にしたりして、いや、そこまで日本人に悪をなすりつけんな、ってのは確かにある(笑)。イタリアはどーだったんだ、ってなカンジ。
でもまぁ、芸術と政治は分けて考えるべきだろう、ってんでその辺はそれ以上は突っ込まん。なんせこの映画はそれ以上の問題をはらんでいるのだ。
収容所で「自らの罪を告白する」事を強要される愛新覚羅溥儀。結果、最後には彼は、今風の言い方をすると「心が折れる」わけだ。すべての罪を自ら招いた事だと認める。そこには実の事を言うと人間としての尊厳も何もない。


今の知識で言えば、ここで起こった事が何か、と言うのは明確だろう。そう、洗脳である。ベルトリッチが感心した、「西洋の方式ではない罪の断罪」とは単に洗脳の事を指しているのだ。
そう、この物語。実は洗脳の話なのだ。これが僕がこの映画を初めて観た時モヤッた理由である。実はこの映画は中国共産党による洗脳を是とした話なのである。
この映画公開時はオウム真理教事件より前で、そこまで洗脳と言うのが一般的に、テクニカルな意味では知られたトピックではなかった。オウム真理教事件以前と以降ではこの映画に対する評価はある意味真逆に変わるのではないか。
オウム真理教の場合、薬物による洗脳がクローズアップされたが、実は薬物に頼らずに洗脳は可能である。
詳しくはWikipediaを参照してもらいたいのだが、中の、例えばリフトンの研究を見てもらいたいのだが、愛新覚羅溥儀が受けていたのは、
  1. (収容所という)環境のコントロール
  2. (収容所内での)密かな操作
  3. (戦争の罪の)告白儀式
  4. (一人間としての)純粋性の要求
  5. 「聖なる科学」(=共産主義)
  6. (共産主義と言う)教義の優先
  7. (共産主義の)特殊用語の詰め込み
  8. (皇帝としての)存在権の配分
と、まごうことなき、単なる洗脳である。洗脳により彼は自分を罪人として断罪したのである。
考えてみれば、この映画は極めて恐ろしい話である。
もう一度Wikipediaを見ると、次のような事が書かれている。

中国共産党政府の全面協力により

中国共産党政府の全面協力により、っつー事は中国共産党の行動に疑問を差し挟むような映画になったら協力なんて得られないわけである。結果、ある意味これは中国共産党のプロパガンダ映画の要素がある映画、だと言う事だ。なんてこったい。
考えてみれば、かつて、収容所に収容された旧日本軍兵士もこれをやられたのである。そして収容所から日本に帰ってきた時、彼らは共産主義者に変容してた。これを中国の寛大政策、とか言ってたが冗談やめろよ、ってなカンジである。

いずれにせよ、今の目で見ると、中国共産党による洗脳を是としたプロパガンダ映画、ってのが少なくとも映画「ラストエンペラー」の一面の真実である。
これにアカデミー賞与えたんだから、当時のアメリカとか、まだ中国に対して呑気だったんだなぁ、と時代の変遷を感じる映画である。
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