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Retro-gaming and so on

角川アニメ第一弾「幻魔大戦」はどの辺がダメだったのか

敢えて「観たほうが良いアニメ」と訊かれたら、の一本に、角川アニメ第一弾だった「幻魔大戦」を挙げておいた。
「技術的観点」での進歩を促した、エポックメイキングな作品(※)、としては間違いないからだ。
いや、ホント、それはそれで間違いないよ。
ただ、教えて!gooの方では名前は挙げたけど推奨はしていない(笑)。やっぱシナリオが弱いんだよな〜。
「敢えて観た方が良い」とこの名前挙げられたのはあくまで個人ブログだから。理由や言い訳をたくさん書けるから(笑)。
んで、「反省編」として幻魔大戦を観直してみて、そして「公開当時観ても納得出来なかった」部分はどこなのか、それを書いてみようと思う。



ちなみに、このアニメ映画「幻魔大戦」がどうダメか、ってぇのと、今の角川アニメがどうダメか、ってのは全く関係ないです。1983年の角川書店は「新しい物語を作る」と言うキャッチフレーズにふさわしい会社でした。そんなの関係なくなってから、こういうキャッチフレーズ作るんだから皮肉なモンだけどな。

まずね、実の事言うと、このアニメ版「幻魔大戦」に関してのマトモな評論って無いんですよ。見たことない。まあ、「幻魔大戦」に限らず、30年以上前のアニメとか、どれもマトモに評論なんてされねぇけどな。
ただ、それでも幻魔大戦、って作品はかなり特殊なんだよなぁ。
「幻魔大戦ファン」ってのがいるのよ。それは殆どニュアンスとしては、作家平井和正を教祖とした宗教団体に見える。聖典が小説「幻魔大戦」とか「真・幻魔大戦」になってたりして。
そしてその「幻魔大戦ファン」ってのはこのアニメの存在そのものを認めていない。「著しく聖典を汚す作品」として忌み嫌ってる、って言って良いくらいだ。だから余計、「ネットで見つかるアニメ幻魔大戦に対する評価」ってのが芳しくなくなるわけね。
どっちにしても、だからこその正当な評論、ってのが無くなる。幻魔大戦に対して熱く語るのは聖典である「小説版」幻魔大戦のファンであって、映画ファンやアニメファンではないから、だ。
そして、小説版「幻魔大戦」ってのは、ぶっちゃけ、SFでも何でもないです。この小説自体が実は「宗教小説」なのね。既存の宗教団体のどこがおかしいのか、とか、正しい宗教団体とは何なのか、どうあるべきか、とか。話がそっちに行っちゃって、ぶっちゃけ、「幻魔とか宇宙の根源的破壊者の存在」とかどーでもよくなっちゃってる。
つまり、一種の「哲学談義」がテーマな風変わりな小説なのだ。好きな人は好き、「何じゃこれ?」とか言う人はそういう反応するだろう、って小説だ。

まあだから最初に言っておくわ。「映画と小説は関係ない」。関係ないどころか、角川映画のクセに小説版はそもそも原作ではない。この映画版幻魔大戦は、1967年に少年マガジンに連載された「漫画版幻魔大戦」が原作です。「漫画版幻魔大戦」を原作とし、小説版のエッセンスをちょこっと付け足しただけ、なのです。



大体、じゃねーと、製作・原作者のクレジットに「石森章太郎」が入ってるわけねーだろ。



そして(当時の)製作者、角川春樹がハッキリ言ってる。「漫画版に決着を付けたくて製作を始めた」と。彼は元々漫画版のファンだったのだ。
そう、原作の漫画版は、当時のSFとしてはぶっ飛びすぎていて読者がついて来ず、「打ち切りの負い目にあった」、敢えて言えば「未完の大作」、それが幻魔大戦だったのです。
エポックメイキングな作品だったのに勿体無い・・・(余談だけど、恐らくこれが、その後「サルまん」で名付けられた「イヤボーンの法則」を最初に実装した漫画だと思う)。
そしてその「未完の大作」を完結させたかった・・・・。しかし結論から言うと「それはまたもや無理だった」と。そもそも新書版全2巻でも2時間弱の映画にするには量がありすぎたのだよ・・・・・・。

まずアニメ版の見どころを紹介する。
もちろん、以前書いた通り「リアリティへの挑戦」が全編に渡る見どころだが。
それよりも個人的には

「アニメ史上もっとも美しいシーン」

が含まれるアニメが、この幻魔大戦だと思っている。
ここだ。



主人公、東丈には母親代わりに育ててくれている姉、東三千子がいる。まあ、今どきのアニメだったらシスコンだのブラコンだの、ってネタになる関係になるのかもしれんが。
それはさておき。
東三千子は幻魔に襲われ命を落としてしまう。しかし、東三千子はその弟への愛情故、死してなお、幻魔に襲われピンチに陥った弟を助け幻魔を倒すのだ。
いわゆる幽霊ではない。彼女が遺した想い、「弟を守りたい」が具現化しただけだ(これを作中では「残留思念」と呼んでるが)。
残留思念が具現化したシーン、これはアニメ史上「もっとも美しいシーン」だと言って良いと思う。「弟を守りたいと思った姉の思い」がカタチとなる。そしてこれが幻魔大戦をドラマとして見立てた時、もっとも盛り上がるシーンでもあるだろう。
死してなお、東三千子は優しく、切なく美しいのだ。

ただそういう「史上もっとも美しい」シーンを擁する「幻魔大戦」なのに、シナリオが弱い。
ここでは単に、評論でも何でもなくって「このシナリオには整合性が無い」と言う辺りを突っついていく。
そう、映画とかだと評論じゃなくって、整合性があるか無いか、で話せば済む事が多いのだ。

でもまずはちょっと前提を確認してみよう。
全般的にこの映画「幻魔大戦」はシナリオが弱い。
何がそれを一番形作ってるのか、と言うと、主人公達がアッサリしすぎてるのだ。
しかもそれを狙ってやっている。

元々原作の漫画版幻魔大戦たぁ、主人公達がとにかく「濃い」のだ。実はこの辺に特徴がある。

  • 主人公オブ主人公、東丈は美少年だけどチビ。身長コンプレックスがあり、実は劣等感の塊。
  • トランシルヴァニア王国第一王女、ルナ姫。気位が高く、我儘で鼻持ちならない女。しかも白人なので、黄色人種や黒色人種に対し実は人種差別意識がある。
  • 黒人ギャング団のボス、ソニーリンクス。幼少だけど天才少年。実は異星人サイボーグベガを除くと、一番「常識的」でありアタマも回る。
つまり、原作漫画のバックグラウンドには、

「宇宙から根源的破壊者、幻魔がやってくるのだが、"仲良く出来ない"人類が手を合わせて襲いかかってくる脅威と戦えるのか」

がある。
ところがこの辺の一癖ある設定が映画版ではまず消えてしまった。
何故?製作者に依ると80年代だから、だそうだ。
まぁ、確かに、元々原作が発表された60年代と違い、80年代だとそもそも白人 vs. 黒人なんかの「対立構造」もそこまで表面化しなくなってきた(くすぶってはいたけど)。
従って、「白人至上主義」だったプリンセス・ルナは単なる「あんま見かけない黒人にちょっと怯える」優しいお姉さん、に変更されてしまった。そこにはリーダーにされてしまった葛藤も高揚も何もない。まさしく映画のセリフにある通りの「平凡な娘に過ぎない」になってしまったのだ。
そして東丈。チビでもなくなったし、「劣等感を煽る存在である大柄の」弟も消えてしまった。原作の「劣等感に苛まれるからこそ野球部のレギュラーの座が欲しかった」と言うモティベーションも消えてしまったのだ。しかも小説版から持ってきた彼女(沢川淳子)、の存在。こうなれば今で言うと「ちょっと上手く行かない事があった」単なるリア充である。ふーむ。
つまり、原作漫画にあったチビだと蔑まれ、努力は身を結ばず、どうしようもない絶望の果てに「サイコキネシス」を得、高揚する、と言う「枠組み」が全部消えてしまったのだ。ルナは優しいだけだから丈に優しく接してくれるだけだし、この辺原作にあった「対人関係上の緊張感」も全て消えてしまった。
まぁね〜。確かに原作漫画の幻魔大戦では、巨人の星とかあしたのジョーがあった時代、コンプレックスがあって、「努力して何かを勝ち取る」と言う暑苦しい設定が受け入れられた時代ならではのカウンター要素がある設定であったのは事実でしょ。
一方、80年代。岡田斗司夫とか最初期のオタクが青春時代を過ごした時代。「軽薄短小」って言われた時代。確かにそういう時代だったんで原作の幻魔大戦の「濃い」キャラ持ち込んできたら拒否反応凄かったかもしんない。
沢川淳子と東丈の会話。当時の若者「っぽい」言い回しの会話である。しかも実はこれ、中身が殆どない。まさに80年代的な「空っぽの」会話である。何喋ってんだかサッパリである。小説版幻魔大戦を読めばもっと意味がある会話をしてるのを知ることが出来るんだけど、映画版では全く伺えない。
そう、これらの「キャラの薄さ」と言うのが実は、個人的には、個々のキャラの行動の「モチベーション」を支えきる事が出来ず、結果シナリオの「弱さ」に繋がっていくような気がしてるのだ。

とまぁ、基本構造の弱さを指摘しておいて。
ぶっちゃけ、このアニメ映画、幻魔大戦の破綻は大きく言うとたった2つで(実は3つなんだけど、それは最後に)、その2つは要するに「超能力を描く」と言う物語のキモと言えるトコが実は丁寧に描かれてない事に起因する。
まず一つ目。

・空中浮揚とは?

まず、このアニメ映画のおかしいトコは、とにかく超能力者が空を飛びまくる、辺りだ。ニューヨーク戦辺りからそんなシーンが頻出になってくる。
しかし、これがまずおかしい
「超能力者だから空を飛べて当然じゃないの?」とか思うかもしれないけど、そもそも幻魔大戦の世界観では超能力は万能の力ではない。超人ロックならそれでいいし、彼は何でも出来るんだけど、幻魔大戦で言う「超能力者」と言うのは、原則「一人一能力」なのだ。サイコキネシストはテレパシーを原則使えないし、テレパシストはサイコキネシスを使えない。
そして空中浮揚と言うのは「サイコキネシスの応用」なのだ(原理的には自分で自分をサイコキネシスで持ち上げる)。従って、サイコキネシスを持ってる超能力者しか空は飛べない。アニメ中だと東丈とアサンシの二人しか空は飛べない筈なのだ(ベガはまた別だが)。



ところがこのアニメ版幻魔大戦、超能力者は最後、結果全員空を飛んでる。ルナ姫なんて最初はベガに担がれてた筈なのに。おかしい。ここに整合性が全くない、のだ。いつの間に超人ロックばっか集めてたんだ???


原作漫画でも、こんなメチャクチャなシーンは無かった。ソニー(漫画版ではサンボ)はテレポーテーションで東丈の背中にいきなり現れたりはする、のだが、ソニー自身が「飛ぶ」とか、ルナ自身が「飛ぶ」と言うような現象は一回も出てこない。
そう、このアニメ映画、何はともあれ「超能力映画」のクセにその超能力の描かれ方がご都合主義で破綻してる、のである。

・何故にテレポーテーションを使わない?

先にも書いた通り、主人公、東丈の姉、東三千子と言うのは物語の展開上、キーパーソンなのだ。ぶっちゃけ、東丈はシスコンで、彼のアイデンティティは実は姉の三千子が支えている。
さて、東丈がニューヨーク救出に向かい、東丈が不在。そして幻魔の攻撃で砂漠化した東京吉祥寺に三千子殺害の為、ニューヨークから逃げてきた幻魔、ザメディの魔の手が忍び寄ってくる・・・のだがこれがおかしい。メチャクチャおかしいのだ。



東丈達は三千子救出の為、前述の「おかしな」空中浮揚でニューヨークから飛んで帰ろうとするのだが(当然「ジェット機並のスピード」だとすれば14〜5時間くらいはかかるだろう)、何故にテレポートを使えるヤツが二人もいるのに東京にテレポートせんのだ?東京にテレポートしてたら、取り敢えず三千子にはすぐ会えただろうが。おかしいのだ。何故に空中浮揚で14時間も時間を無駄にして東京に駆けつけなければならない?

(後ろの爺さんはテレポが使える・笑)

ここもそうなのね。完全に超能力の「存在」がストーリー破綻を起こしてるの。どう考えても脚本家達が(実はトータルで3人くらいで書いてる)この矛盾に気づいてない、っつーか・・・・グダグダでしょ。おかしいでしょ。
ちなみに、原作漫画ではこんな破綻は起こしてない。ルナもソニーもベガも東三千子に会っている。特に丈の深層意識に潜ったルナは三千子に「会って」おり、元々三千子に会いたかったのだ。



でも力及ばず結果幻魔に三千子は殺されるのだが、決して「間に合わなくって」殺されたわけではないのだ。この2つは全然意味が違うぞ。
「ひとゆき、遅かったの」じゃねーのだ。そりゃ遅くなるように移動しただけ、なのだ。バカボンのパパなのだ。これでいいのだ。
いや、良くねぇ

さて、原作漫画も読んでて、公開前には期待大の本作だったわけだが。
何つっても原作漫画は「打ち切り作品」。そして、幻魔の攻撃によって月が地球に落ちてくる、と言う衝撃的な結末を迎える本作なのだが。残念ながら幻魔との戦いで「どう敗北していくのか」分からない作品になっていた。



つまり、ぶっちゃけ、「漫画版に決着を付ける」作品として考えるのなら、直球勝負としては「どう人類が滅ぶのか」描ききらないとダメだ、と言う事だ。少なくともそう思っていた。
ところで。
今はどうだか知らんが、当時の角川映画だと。
映画公開前に映画のシナリオを文庫として売る、とかやってたんだよ。
当然アニメ版幻魔大戦のシナリオも発売される。
ちなみに、一種コレクターアイテム的な商品だったのね。
一応、シナリオ「決定稿」の出版ではあるんだけど、映画だとまた詰めたりなんだりしてシナリオよりも「短く」なる場合があるのよ。その時、「本来だったらこうするつもりだったんだな」と知るための資料としてはありがたい出版物だったのです。
んで、それを楽しみに買ったのです。映画公開前に一応知っとこか、とか思って。そう、僕は映画公開前に展開どうなるか、っつーのは知ってたんだよな。
で読んでみて・・・唖然とする。

「え。地球助かんの?」

と。ビックリした。ビックリなんてモンじゃない。てっきり人類は「滅ぶ」と思ってたのだ。
しかも全く納得できない展開で。
何で幻魔大王の軍団がたった3匹しかいねぇんだよ、と。
おかしいだろ、と。
たった3匹の幻魔を殺したくらいで、

「おめでとう・・・諸君。幻魔一族は滅び去った。」

滅び去るわけねーじゃんか。何でやねん、と。アンドロメダの超科学を持ってるベガのいた惑星があれだけ苦戦して敗北した相手だぞ?なんで地球の超能力者がたった3匹倒したくらいで・・・・フロイの前フリは何だったんだ。
この映画はキースエマーソンの作った音楽が素晴らしく、また、主題歌もメチャクチャ良い出来なのだ。・・・ただし、ストーリーは尻切れトンボである。何じゃこれ、となるだろう。

制作陣はこれも「時代の要請だ」とか言ってた。ノーテンキな80年代の人間には「滅亡」endは合わんだろう、と。・・・・そうか?
時代の要請に合わないから不合理な作品になる事を選んだ、って事か・・・・・・。何だそれ

というわけで、技術的進歩も垣間見れるし、「アニメ史上もっとも美しいだろうシーン」もあるアニメ映画「幻魔大戦」。
ところが、色々と「80年代と言う時代のせい」(制作陣・談)でおかしな展開で終わる、名作と言うよかどっちかっつーと奇作として仕上がってしまった。そうなんだよ、奇作なんだよ。だからここでは紹介出来ても教えて!gooでは紹介出来ない。

そもそもよ、最初っから「時代ウケ」考えて作る、ってのは絶対名作にはなりようがないのね。何故ならその時代に最適化する、って事は「普遍性を捨てる」わけでしょ?
東丈の劣等感も、ルナ姫の「白人至上主義」も、実はこういう感情って方が普遍的じゃねぇか?
彼女いるヤツらに「リア充爆発しろ」ってコンプレックス持ってるヤツらは後を絶たんし、ドナルド・トランプだってアメリカファーストって叫んでて支持者も多かった。当然根底には「ホワイトファースト」ってのがいまだあるのだ。この辺は「時代」じゃない、「普遍」なのである。
つまり、原作漫画の幻魔大戦の持ってた「普遍性」を捨てて、この映画は80年代に「最適化」するように作られたわけで・・・・結果、奇作としか呼べない「モヤーっとした」感想を抱く作品になってしまったのだよ。

もう一回言うけど、「敢えて観た方が良いアニメ」として依然幻魔大戦を推薦しておく。
だけど、それは「ストーリーのせい」じゃない。あくまで、技術的進歩を垣間見れる作品だから、だ。
いわば、もし対象がアニメオタク、だとすれば、研究対象として観るには良いだろう、って意味である。
でも以前に紹介したコブラやゴルゴ13に比べると、娯楽作品としても疑問符は付く作品なのである(999の方が素直に楽しめるだろう)。

以下余談。
ルナ姫はニューヨーク以降、どういうわけかパンクなファッションになってる。これは原作にもないし、アニメ独自のファッションである。


このデザイン、元々、アニメの企画があがった際に、

「80年代の今どき、お姫様って設定もねーよな」

ってんで、ルナを「ロックシンガー」と設定を変えた際に作られたキャラデザインの流用なのである。
まあ、そのデザインを監督のりん・たろうが気に入ってか何か知らんが、アニメ映画の後半からは、理由も分からずパンクファッションのルナが出ずっぱり、となるわけである。
・・・・・「時代に合わせて」お姫様を止めてたら、もっと酷かったかもしれん、と言っておく。

※: もう一つ「幻魔大戦」が築き上げたエポックメイキングに「録音」がある。
アニメはアフレコで音声を作り上げる以上、原則「画面にキャラがいないと」声がアテれない、と言う限界があった。
ところが、アニメ「幻魔大戦」で初めて、「キャラが画面に登場してないのに」声をアテる、と言う「今では割に当たり前になった」録音をやってみている。要するに、これも元々実写映画ではお馴染みではあったのだが、「実写映画に挑戦したい」幻魔大戦が初めて開拓した「録音」である。
ちなみに、主役を演じた古谷徹・小山茉美の元夫婦コンビに言わせると、初めての挑戦なのでタイミングを計るのがメチャクチャ難しかったそうだ。
また、この映画が日本のアニメ映画としては初めてドルビーサウンドで演技が録音された映画でもある。
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