拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【4】明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月30日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです



5.淺草來々軒はなぜ浅草を離れたのか? 
謎めいた物語のヒントは人形町大勝軒
 
 次も寄り道的なことに思えるかもしれないが、これぞ淺草來々軒の謎めいた物語なのである。

 大正末期、少なくとも関東大震災までは大繁盛店であった淺草來々軒。三代目・尾崎新一氏が戦地に赴いたことで、その歴史は一旦途絶えることになるのだが・・・。店の勢いは衰えたとはいえ、そして、東京大空襲で焼け野原になったとはいえ、なぜ復員した尾崎新一氏は創業の地・浅草を離れて、東京駅八重洲口に店を構えたのだろうか? 写真で見る限り、大震災後に建て替えた店は大そう立派に見えるが戦災で焼失したのだろうし、店の土地は借地、だったという可能性もある。そしてその明確な答えは分からない。ただ、おそらく、こういうことなのだろう、ということは想像はできる。それは、この「人形町大勝軒」四代目店主の話もヒントの一つとなっているのだ。

 2020年2月の末、一つの店がひっそりと暖簾を畳んだ。四つあると言われる「大勝軒」[56]系の最古参、それも創業店である人形町の「大勝軒」である(以下「人形町大勝軒本店」という)。ただし、人形町大勝軒はすでに中華店ではなく、「珈琲大勝軒」となっていたのではある。
 
 人形町大勝軒の創業年は諸説あるが、東急メディア・コミュニケーションズ株式会社が運営するWEBサイト「デイリーポータルZ」の2020年3月11日の記事[57]中、人形町大勝軒四代目渡辺千恵子氏へのインタヴューをまとめるとこういうことだ。

◆1905(明治38)年 林仁軒と渡辺半之助が屋台で創業。
◆1913(大正2)年 人形町に「支那御料理 大勝軒」を(路面店として)開業。
 
 屋台時代まで遡れば、淺草來々軒より5年も前の創業ということになる。なお、人形町大勝軒直系の「大勝軒」は、最早浅草橋に残る大勝軒のみとなってしまった。関係が取りざたされる茅場町の(新川)大勝軒(飯店)は、人形町大勝軒から独立した店ではあるが、経営者が変わってしまって、先に書いた人形町大勝軒四代目のインタヴューによれば、関係性は今はないようである。
 このインタヴュー記事には、淺草來々軒が浅草を離れた訳、かも知れないことに触れられている。この箇所である。
 
 昭和8年、人形町大勝軒は浅草に支店を出す。写真を見ると、実に立派な建物であるが時代が悪かった。四代目はこう語る。
 「食糧難でも、ヤミの商品をどうにか調達してお店を開けられたのね。でもさすがに戦争の末期は疎開して、帰ったらたまたまお店は焼けていなかったんだけど、その間にちょっと危ない人たちにお店を乗っ取られちゃったの」「もうそんなの、ザラだったのよ」。

 乗っ取り云々の話は文脈からして日本橋人形町本店ではあるが。そしてもう一つのヒントは、あとで触れる郡山の「トクちゃんラーメン」の公式サイトに記述があるのである。



日本橋横山町(馬喰町)にあった「大勝軒」(左)。右はかつての「人形町大勝軒本店」。のちの「珈琲大勝軒」。ともに閉店してしまった


6.淺草來々軒を巡る六つの現役店 正統な後継店はあるのか?

 いよいよ最終章である。
 2021年6月現在、ボクが調べた限りであるが、淺草來々軒と直接・間接にかかわりがあって、今なお‘現役’(営業中)の店は六つある。それは以下の店である。

(1)中国料理 進来軒 千葉・穴川。昭和43年創業。
(2)手打ち中華 トクちゃんらーめん 郡山。昭和56年喫茶店開業、平成7年(業態変更により)創業。
(3)来々軒 東京・祐天寺。昭和8年創業。
(4)たちばな家  東京・檜原村。昭和21年創業。
(5)大貫 本店 尼崎。大正元年創業。
(6)丸デブ 総本店 岐阜。大正6年創業。

 ‘来々軒’を名乗る店は全国に171軒あるそうである(ラー博による。2020年5月現在)。ちなみに「食べログ」で‘来々軒’、で調べると102軒(2021年6月現在。以下同じ)。都内には7軒見つかった。これらが何らかの形で淺草來々軒と関りがあったか否かは不明である。上記6店に関しては、関りのあったとする記述・記録が確認できたものである。

 それでは、その6店を個別に見ていくとする。

【Ⅰ 進来軒 千葉・穴川】
 まず進来軒、である。この店はご存じの方も多かろう。ボクは2010年と、2021年の5月に伺った。千葉都市モノレール「穴川駅」から徒歩5~6分だろうか、キレイなビルの1階にある。この店はノスタルジックラーメンのバイブル的存在『トーキョーノスタルジックラーメン』[58]で詳しく紹介されている。少し引用してみよう。

 「日本で最初のラーメン専門店として知られる伝説の店『来々軒』で修業し、その味を唯一受け継ぐ千葉市の老舗「進来軒」のご主人・・・」。
 
 このほか、紹介記事の中には『(淺草來々軒の)人気を博した「支那蕎麦」は醤油味。塩味だった中華の「汁そば」を日本人が好む醤油味の「ラーメン」に変えたこの店の功績は大きい』などといった記述もある。今までも書いてきたように、淺草來々軒は日本で最初のラーメン専門店でもないし、塩味だったラーメンを醤油味にしたという記録もない。さらに言えば進来軒が淺草來々軒の味を受け継ぐ唯一の店でももちろんない。ただ、この書籍は淺草來々軒にのみ焦点を当てて書かれたものではないし、紹介されているラーメン店を初めて知って食べ歩きをした人も多いのではないか。少なくともボクにとっては貴重な本であることは確かだ。

 進来軒のご主人・宮葉進氏は、淺草來々軒が東京駅近く、八重洲で店を再開(1954年=昭和29)した來々軒に1958(昭和33)年から10年間勤務した。八重洲の來々軒の店主は淺草來々軒三代目店主・尾崎一郎氏である。

 紹介記事の中で宮葉氏はインタヴューでこう話しておいでだ。「スープは豚足と鶏ガラだけをとことこ三時間半炊いた透明なスープ。味付けにはチャーシューだれは使わず生醤油に化学調味料を入れてね」。そしてこうも語っている。「今でも基本的な造り方と味は来々軒で教わったまま一切変えていません」。
 また、このインタヴューの中で宮葉氏は、昭和33年当時の来々軒のラーメンについて「麺は中細のストレート麺」「具は食紅で色を付けた煮豚にメンマと刻み葱。なるとは乗っていませんでした」とも語っている。

 2021年5月、11年振りに食べた感想。RDBでボクはこう書いた。
「ありがちなノス系の、あっさりとしたスープ、確かにそうなのだが。じっくりと味わうと、意外にも豚が強い、と感じるのだ。このスープ、豚足、鶏ガラがメイン。生醤油のタレ、そしておそらくは“味の●”。あとで触れるが、麺もそしてこのスープも、実は昭和30年代の、当時は東京駅八重洲口にあった(淺草)來々軒と同じ組み立てだそうである」。

 そう、意識してスープを味わえば、豚を結構強く感じるのだ。大正半ば以降の淺草來々軒と全く同じということではないだろうが、宮葉氏が仰る「基本的な造り方と味は来々軒で教わったまま一切変えて」いないとするなら、これぞ三代目・尾崎一郎氏が作ったスープなのであろう。ただし。淺草來々軒創業当時の、ではなく、敢えて「大正半ば以降の」と書いた理由が、ある。

 なお、宮葉氏は1942(昭和17)年の生まれで、2021年では80歳近いお歳である。進来軒はいっとき長期の休業を経て月現在営業中なるも、夜の営業を取りやめ、メニューも相当絞っておいでのようである。コロナ禍の中伺ったが、ご主人は元気に鉄鍋を振っておいでであった。ただ、後継者はおいでなのだろうか? もしおいでにならなければ、淺草來々軒に連なる店の一つがまた消えてしまうことになる。
 
【Ⅱ トクちゃんらーめん 郡山】

郡山・トクちゃんラーメン外観と「トクちゃんラーメン」。2021年5月撮影

 さて、次に郡山の「トクちゃんラーメン」である。店の公式サイト[59]によれば、店主・小島進氏は、1946(昭和21)年、浅草生まれ。宮葉氏は進来軒に通いつめ「来々軒の支那そばの仕込みを教えていただきました」。ただし、現在はそのラーメンの提供はしていないという。來公式サイトでは少々分かり辛い表現を用いているが、要はこういうことだ。

「今は亡き父と幼いころから浅草の支那そばを愛していました。当時はチャルメラなどの屋台も多かったのですが、味は恐らく来々軒に近付けていたような気がしてなりません」。

 つまり、小島氏は幼少のころから淺草で支那そばを食べていたが、多くは屋台であり、その味は來々軒の味に近かった、「気がしてならない」のである。それは、小島氏の想いであり、記憶なのである。従い、この店に関しては淺草時代の來々軒とは関連がない。それでもボクは実際に味を確かめたくて、2021年5月、郡山の店に出向いた。

 店の中には來々軒とつながりを示すものがいくつかあった。たとえば、メニュー表。そこには、大正の頃の淺草來々軒の写真が添えられている。

 『懐かしき、かつ進化した正統派。旨い東京ラーメンは郡山にあり』。ある雑誌の記事の拡大コピーが掲示されていた。ボクにはこの店の味を懐かしいとも思わなかった。だから「進化した正統派」とも感じない。誤解を招く書き方をしてはならないから付け足しておく。決して不味いのではない。「塩は『土佐の塩丸』、昆布は『日高昆布』、鰹は最高級の『本がつお』、静岡産の『煮干し』、豚はゲンコツのみで、比内鶏をはじめとする厳選した地鶏を三種使用」とあるので素材にも拘っておいでである。けれど、いや、だからこそ「懐かしい」とは感じないのである。それは、例えば先に書いた千葉の進来軒の店主の話を思い出してほしい。素材の組み立てが全然違うのである。

 余談になるが、そしてそれは後述するが、ボクが都内の店で「ああ、なんて懐かしい味だ」と感じたのは、唯一、東銀座の「萬福」、それも今の店ではなく、昭和から平成に変わるころの、まだ木造の建物だったころの「萬福」だけである。


東銀座「萬福」外観とワンタンメン。2021年5月撮影

【Ⅲ 来々軒 祐天寺】
 東急東横線の祐天寺駅からほど近い場所にあるこの店、創業は1933(昭和8)年のことである。この店には公式サイトがないが、Webサイト「駅と旅のガイド Webka.jp」で現在の三代目店主の写真と共に紹介記事が掲載されている[60]ほか、東京都中華料理生活衛生同業組合のサイトでも紹介されている[61]。また、店にも「元祖東京ラーメン」「全国来々軒のルーツ」といったポスターが掲示されている。確かに、この店こそ、はっきりとした記録が残る「初代・淺草來々軒」の正統なつながりを持つ店である。ただ、いろいろなサイトによれば、現在三代目の店主は東京會舘の出身だそうである。東京會舘は系列に上海料理店を持つが[62]、ルーツは大正期に創業した魚介料理店で、今のレストラン部門はフレンチと日本料理が中心である。従い、現在の祐天寺来々軒は、淺草來々軒と“味”という点での繋がりはないようである。これは大崎裕史氏のブログ[63]にも記載があって、インタビューが掲載されたサイトの話[64]をまとめると「今の店主(ここでは三代目)はおじいちゃん(創業者)の味をかなり変えてしまった」とある。ただし、店のメニュー表のデフォルト(先頭)の位置には「老麺 元祖東京ラーメン 650円」とあるのだ。

 創業者は傅興雷(フ・コウライ)という中国の方だそうだ。当初大森で創業、翌年、現在の祐天寺に移転したという。ネット情報では傅興雷氏は「淺草來々軒や上野來々軒で料理長をしていた」といった記述も多く見られる。たとえばWikipediaによれば、「1935年(昭和10年) (尾崎)一郎が商業学校を卒業して家業を継ぐ。堀田久助[65]は独立して上野来々軒を創業する」とある。
 要はこういうことになる。

・祐天寺来々軒の創業 昭和8年(大森で創業、翌年祐天寺に移転)。
・上野來々軒の創業 昭和10年。
・祐天寺来々軒の初代店主は、上野來々軒の料理長をしていた???。

 となればおかしな話で、淺草來々軒三代目店主・尾崎一郎氏が1935(昭和10)年に店を継ぎ、堀田久助氏が上野來々軒を開業したのが同年とすると、傅興雷氏が上野來々軒の料理長を勤めることは事実上不可能である。昭和8年に大森に開いたということが事実であれば、上野來々軒の出店年次が違うか、あるいは上野来々軒で料理長云々ということが誤り、のどちらかとなる。淺草來々軒を巡っては真偽が不明なネット記述が多いが、これもその一つであり、また次項で記す「たちばな家」の成り立ちについても同様である。
 
 それはさておき、ボクはこの店に都合三度伺った。2回目までは調理麺(最初が蝦仁湯麺=塩味の海老そば、二度目が什景湯麺=餡かけ五目そば)だったので、この6月にまた食べに伺った。もちろん、食べたのは元祖東京ラーメンである。お味の方は、そう、やっぱり町中華よりは上品なのである。とりわけチャーシューは、煮豚ではなく、吊るしで食紅使用の本格的なモノ。ボクが昭和30年代終わりに食べたラーメンを正常進化させるとこんな味、という感覚であった。


祐天寺来々軒と「老麺」。2021年6月撮影。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

[56]大勝軒の三つの系列 いわゆる人形町大勝軒系列のほか

(1)1947(昭和22)青木勝治ほか5人の共同経営で開業した「(荻窪)丸長」から坂口正安が独立、山岸一雄とともに「(中野)大勝軒」を創業、さらに1961(昭和36)年、山岸が独立して開いた「東池袋大勝軒」の系列。「丸長・大勝軒」系列とも呼ばれる。

(2)1955(昭和35)年、草村賢治が永福町にて開業した「(永福町)大勝軒」系。なお、銀座と葛西にある「この記述、類似のものを含めればネット上の様々なサイトで見かけるので 、さて一体どれが「元ネタ」なのか分からない。余計なことだが、ラー博のサイトの「高山ラーメン」の記述は誤りが多く、まあ誤りというよりはメンテナンスがされていないということではあるけれど、あまりに信用できない。」はいずれにも属さない。

[57] 2020年3月11日の記事 「デイリーポータルZ」の人形町大勝軒の特集記事。https://dailyportalz.jp/kiji/coffee-taishoken

[58] 『トーキョーノスタルジックラーメン 懐かしの東京ラーメン完全ガイド』 山路力哉・編著、幹書房。2008年6月刊。

[59] トクちゃんらーめん公式サイト http://tokuchan-rahmen.jp/index.html

[60] 「駅と旅のガイド Webka.jp」の来々軒の記事 http://webka.jp/s/a2g1404000008.html

[61] 東京都中華料理生活衛生同業組合・来々軒の紹介サイト 

http://www.cyukaryouri-tokyo.or.jp/shops/t23ku/meguro/rairaiken/index.html

[62] 東京會舘の系列上海料理店 千代田区大手町2-2-2 アーバンネット大手町ビル21Fにある「東苑」。

[63] 大崎裕史氏のブログ 2012年12月8日のブログ“日本初のラーメン専門店「浅草来々軒」の流れを汲む店”。https://ameblo.jp/oosaki-tora3/entry-11436599228.html

[64] インタビューが掲載されたサイト 2021年6月現在、大崎裕史氏のブログに貼られたリンク先URLは、NOT FOUNDとなっている。

[65] 堀田久助氏 Wikipediaによれば「義兄」とあるが、主語がないため「誰の」義兄かは不明。文脈からすると、淺草來々軒二代目店主・尾崎新一氏の妻である「あさ」の義兄ということのようであるが、確証はない。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿