拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【後編】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い ~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

2022年08月11日 | ラーメン
※文中、「現在」とあるのは2022(令和4)年8月時点。
※写真は原則、著者による撮影。



(きしもと食堂の「そば(小)」。2022年7月)

その作り方も、やはり独特な沖縄そば□
 あくまでボクの個人的な思いであると断って書く。沖縄そばという麺料理は、一風変わっているように思える。理由は単純で、食べ慣れていないというのが最も大きいのではあるが、沖縄そばは日本蕎麦や饂飩とも違うし、もちろんボクたちが一般的にラーメンと呼んでいる食べ物の範疇には入らないと、食べるたびに(もっとも殆ど食べないのだが)感じるからだ。その理由は、
  1. 太い麺の食感は、ラーメン専門店のつけ麺などの太麺とは明らかに違う。饂飩のよう、と感じる人も多い。
  2. スープは脂分はほとんど感じることなく、まるで関西系の饂飩つゆのようである。
 近年の沖縄そばの麺は、中華麺同様かん水を使うことが多くなったそうだが、きしもと食堂は創業時より使用していないという。

 かん水はアルカリ塩水溶液であって、小麦粉に混ぜることで柔らかさや弾力性を持たせ、中華麺特有の麺の風味、感触、色合いを出す元、とされる。ただ、明治期の沖縄ではかん水が入手し辛く、その代用として“唐灰汁(とうあく)”を用いた、という。今でもきしもと食堂は、ガジュマルなどを燃やした際に出た「木灰(もっかい)」を水に入れてできた上澄み(灰汁)を、かん水の代わりに使っている。これもまたアルカリ性水溶液であるのだが、かん水では出せない、沖縄そば独特の歯ごたえやのど越し、風味を生み出すことができるという。ただ、これに関してボクは、まったく検証ができない。単純に分からない、からだ。

 無論、水溶液の種類だけではなく、火加減、水加減なども影響しているに違いない。きしもと食堂の厨房を見れば一般的な中華料理店と趣を異にしていることが一目でわかる。茹でる器は、鍋、というより“釜”、いやいや“窯”といった表現が近いだろう。

 スープのベースは豚と鰹。そう、琉球料理の、味わいを醸し出すという“出汁”そのものの素材を用いる。そしてそれに醤油ダレを合わせる。現代の凝ったラーメンに比べればずっとシンプルで、そして“和”的なテイストだ。そして、きしもと食堂はそれを、明治38年の創業時には”支那そば”と銘打って販売した。大正期になると、警察署長からの通達で県内全般の支那そばの名称は「琉球そば」へと変更するよう指示されたという記録もあるが、それもいつの間にか立ち消えとなり、きしもと食堂では今、単に「そば」としてだけ、品書きにして販売している。


(きしもと食堂のメニュー。これですべて。2022年7月)
 
 沖縄そば。

 沖縄には明治期まで独自の麺文化は育たなかったが、中国的な料理には馴染んでいた沖縄の人々だからこそ誕生させることのできた麺料理なのだ、とボクは考える。そしてそれは、“中国的な要素を備えた、日本的(琉球的・沖縄的)”なものだった、と言えるのではないか。


□日本的な“支那そば”が、中国的な“支那そば”を打ち破る?□
 ここで、明治中期以降大正前期までの沖縄そばの歴史を簡単にまとめておく(<>内は主要な出典元)
■1887~1897(明治20年代) 前之毛(現在の那覇市辻二丁目近辺と思われる)に唐人の経営するそば屋があった。明治23年の「沖縄県統計書」には、蕎麦屋の記述がある(日本蕎麦または沖縄そば)。<国立国会図書館Detail of reference example>
■1902(明治35)年4月9日 福永義一が大阪から清国人を雇いれ那覇警察暑近くに「支那そばや」を開業<新聞広告>
■1905(明治38)年 本部にて岸本恵愛・オミト夫妻により「きしもと食堂」が開業する<国立国会図書館Detail of reference example ほか多数>
■1905 (明治38)年11月 「支那そばや」従業員であった比嘉 牛(ウシ) が“字四前毛”にて「支那そば 比嘉店」を開業<新聞広告>。“ベェーラー(おしゃべり、の意)そば”と評判を取る。
■1907(明治40)年10月20日 “字四前之毛”にて「観海楼」開業。福州(中国福建州)出身の料理人・張添基 氏を雇い入れ、“支那麥蕎(そば。原文ママ)”・支那料理”を提供した<新聞広告>
■1907(明治40)年11月~12月 「支那そば 比嘉店」と「観海海」が客の奪い合いを展開。ヒラヤーチー(注12)を載せた「支那そば 比嘉店」が勝利する<琉球新報>
※「支那そば 比嘉店」と客の争奪戦を繰り広げたのは“唐人そば”であって、時期は1906年という記述もある<沖縄生麺協同組合公式サイト>
■1915(大正4)年 「不勉強屋」という店の広告に“琉球そば”の品書き。琉球そばの名称が出て来た最初の記録で、支那そばを琉球そばという名に変えろと言う那覇警察署長の指示であった<琉球新報>

 ここで注目すべきは、≪1907(明治40)年11月~12月 「支那そば 比嘉店」と「観海楼」が客の奪い合いを展開≫の部分である。この記述に関してはネット上に様々あるが、今回は琉球新報記事を基にする。それは1994(平成6)年2月22日付のもので、『「流文手帳」主宰の新城栄徳さん(四四)が」古い新聞や雑誌の広告を手掛かりにして調査』したものだと紹介されている。

 明治40年に那覇の前之毛で福州の料理人を雇う「観海楼」と地元の「比嘉店」が客の争奪戦をして、結果的に比嘉店が勝利をおさめたというものだ。ボクの想像も入るのではあるが、「観海楼」の調理人は「福建州出身」であり、店自体は「支那料理の店」であったのに対し、比嘉店のほうは日本人の経営であり、あくまで“支那そば”の店であった。ということは、「観海楼」は現在で言う「中華そば」的な「支那そば」を提供していたのに対し、比嘉店はヒラヤーチという、玉子を使った簡易なものとはいえ沖縄の郷土料理を添えて、地元の人の味覚にあった「琉球料理」的な「支那そば」を出していた、そして結果的に比嘉店のほうに客は集まった、というのである。いわば、『中国的な支那そばに対し、日本的(沖縄的、琉球的)な支那そばのほうが人気はあった』ということだ。

 これについて、琉球新報では新城氏の言葉を引用し『明治35年に入って来た支那そばが、このころまでには沖縄独自に発展、この味が一般に定着して支那そば本場の味が負けたのではないか。既に沖縄そばが完成したと考えられる』としている。ボクもおそらくそういうことだろうと思っている。

 比嘉 牛の店と、きしもと食堂が開業したのは同じ明治38年。比嘉 牛の店は、その3年前に開業した“支那そばや”が母体となっている。那覇と本部では結構な距離があるが、同じ島内のことである、繁盛していた“支那そばや”の味にきしもと食堂が近づいていたとしても何ら不思議はない。

 明治35年誕生の“支那そばや”と、味がまったく同じかどうか定かではないけれど、少なくとも同一系統のテイストを持つ麺料理として、きしもと食堂の“支那そば”は地元の人々に長い間、ずっとずっと親しまれ、定着した。そしてその味は今もこうして、沖縄そばとして多くの人々に愛されている。つまり、沖縄そばは、14世紀以降大陸から入ってきた中国料理を源流とし、饗応料理から宮廷料理と変遷した結果としての琉球料理を基にして、当時の沖縄の人々の味覚に合わせた麺料理として明治末期から伝わってきたもの、ということだ。


□淺草來々軒と岐阜・丸デブと、きしもと食堂の相似点□
 ボクのブログ、淺草來々軒のことを書いたシリーズもの(注13)をお読みいただいた方には、來々軒の大正7~8年ころまでの味について書いた内容を思い出していただきたい。まだお読みいただいてない方にはお読みいただくとして、そこでボクは、あくまで仮設ではあるが、淺草來々軒の正統な後継店が存在するとしたなら、それは岐阜市内所在の『丸デブ』という店である、と結論付けた。そしてその『丸デブ』のスープの味は、同じ岐阜県内の飛騨高山のラーメンに繋がっている、とも(注14)。

 
(岐阜「丸デブ」外観と中華そば。2021年7月)

 『丸デブ』、それに飛騨高山ラーメン店の代表格と言える『まさごそば』『やよいそば』『つづみそば』などで食べたことがある方はお分かりだろうが、これらの店のスープは相当な“和のテイスト”を感じさせる。とりわけ『丸デブ』に関して言えば、スープは(誤解を恐れずに書けば)まんま“蕎麦つゆ”であるし、麺に至っても食感は“日本蕎麦”なのである。もちろん、分類すればそれは蕎麦粉を使用しないから日本蕎麦ではなく、小麦を用いたラーメンであるのだが、予備知識なしで入店し目をつぶって口に入れたら「うん、なかなかの蕎麦じゃあないか」と言ってしまう方が結構多いのではないか、という感じである。



 (飛騨高山の「つづみそば」<上>と「まさごそば」<下>。2021年7月)

 『丸デブ』の創業者・神谷氏は、淺草來々軒に勤務、大正6年に岐阜に戻って屋台の引き売りから始め、現在の店を開いたという。このあたりの経緯は、Web上に現在の店主(三代目)神谷房昭氏のインタビュー記事があるので(注15)参照されたい。

 麺はともかく、岐阜丸デブ、飛騨高山のいくつかの中華そば店のスープは、多くの現代の人々が思い浮かべるラーメンのスープというよりは、蕎麦つゆに近い。そして丸デブの初代主人は大正前期に浅草來々軒の味を持ち帰り、以後味は変えずに商売をしているところから、淺草來々軒の明治43年のの創業時から大正7~8年ごろまでのスープもまた、蕎麦つゆに似ていたのではないかと推測している。

 それでもだ。

 かつての淺草來々軒も、現在の丸デブや飛騨高山の中華そばも、ラーメンとして認知されているのだ。そう考えるなら、きしもと食堂をはじめとする沖縄そばが、“支那そば”として存在したこと・していることに違和感はないのである。

 大陸から日本に入って来た麺料理=支那そば は、日本人にとっては脂っぽくとても売れないと商売人たちは判断したのだろう。淺草來々軒をはじめとした東京の支那料理店提供する支那そばは、明治末期から大正中期まではできるだけ獣臭さを排除した。出汁素材には豚などの動物系は使わないようにした、あるいは使っても少量にしたのだろう。

 一方沖縄では、琉球料理の出汁として「豚」(と鰹)を使う食文化がすでに確立されていた。そのため、支那そば提供にあたってはスープ素材に豚を用いつつ、極力獣臭さ、豚脂を感じないように調理したのではないか。

 その結果、沖縄では明治末期に、横浜や東京では大正中期までに、岐阜や高山では大正中期から昭和初期にかけて、敢えて日本人に馴染みがありそうなテイストに仕上げて「支那そば」として売り出されたのだ。


(現在の那覇空港。1936=昭和11=年に那覇飛行場として開港。人々が高速で空を
飛ぶジェット機を利用するのは1950年代に入ってからのこと。2022年7月)

 インターネットどころか電話さえ普及しておらず、航空機が空を飛ぶのはもっとずっとずっと先の時代に、淺草來々軒やその他東京、横浜の支那そば提供店と、きしもと食堂など沖縄そばの店が相互に情報を交換していたとは考えにくいが、奇しくも和テイストという共通項を持った支那そばが南関東と沖縄、1600kmほど距離を隔てた両方の地で、ほぼ同時期に誕生したのであった。それは、大陸からの食文化を歓迎しながらも、日本人、というよりは「そこに住む人々の味覚に合う」味にした。それこそがずっと培われてきたその地ならではの「食文化」になるのであろう。


□120年近くの膨大な時間が流れれば□
 今まで書いてきたように、沖縄そばは、本土の支那そばとは別の歩みを進めて来た。というより、沖縄そばはその進化を明治末期に止め、その場に留まっているようにも思える。しかし結果として、沖縄そばは、岐阜の「丸デブ」などと同様、日本人、というよりそれを口にする地の人々が慣れ親しんだものになっていた。

 すなわち、スープは“饂飩つゆ”“蕎麦つゆ”を彷彿させたものの。そして麺はきしもと食堂が饂飩に、丸デブは蕎麦の触感に似たものそのまま、になっている。そして丸デブの源流は、大正中期ころまでの淺草來々軒にある、のである。

 似たようなテイストになった・・・これは単なる偶然かも知れない。しかし、ボクはそうは思わない。

 “食文化”というものは、その国、その地域において何十年、何百年とかけて培われてきたものである。饂飩は室町時代から、蕎麦は江戸時代初期から、それぞれ現在の形と近い状態となって庶民に親しまれてきた。一方支那そばは、箱館(函館)、横浜、新潟、神戸、長崎と言った“開港5港”の都市を中心に、明治中期に、ほぼ時を同じくして日本各地に伝わった。

 支那そばは大陸から入ってきた食だから、入ってきた当初は、日本人にはかなり苦手な部分もあった。苦手と言うよりは「食べ慣れていない」と言ったほうが良いかも知れない。それはスープの材料となった豚をはじめとした“獣の脂”の存在である。独特の臭みを放ち、ちょっとくどい脂は、明治期の日本人にはすんなりと受け入れられなかった。

 明治中期から明治末期にかけて、横浜の南京街(中華街)で支那そばを食べた日本人の多くは、脂がくどくて臭みもあるその味に対してかなり戸惑ったという記録がある。だから日本の商売人は、支那そば自体は美味しいと思いながらも、商売として成功させるために客に出す際は、その地に住む人たちが慣れ親しんだ味に近づけようとした。そしてそれは「丸デブ」や飛騨高山ラーメン、あるいは沖縄そばといった商品となり、今に至る。

 鎖国から解かれた日本人はやがて速やかに西洋料理に馴染んでいくことになるが、支那そばは大陸とは違った日本独自の食・ラーメンとし変化し、そしてて進化していくことになる。太平洋戦争でラーメンだけでなくほとんどすべての日本の食文化は中断するか途絶えるかした。しかしラーメンは戦後すぐ闇市などで復活し、瞬く間に大衆の中へと再び広がっていった。現在では、我が国を代表する“日本食”になり、広く海外へと進出するまでになったほどだ。

 そのルーツこそ、淺草來々軒であり、丸デブであり、きしもと食堂なのではないか。大正期から昭和初期、さらには戦後にかけて誕生した、所謂ご当地“支那そば”はやがて、“ラーメン”という食の一大ジャンルの中に収斂されていくのだが、沖縄そばはというと、長崎のちゃんぽんと同様、誕生した当時のまま、現代に伝えられていく。

 沖縄そばや長崎ちゃんぽんは、ラーメンとは同根だ。しかし、ともにかん水を用いず木灰汁を使うなど、その製法も敢えて進化することなく、その地に合った独自の伝統的な“食、麺料理”として残ったことになる。だから人によってはラーメンとはベツモノと言い、ある人はラーメンの一種に分類する。どちらが正しく、どちらかが間違いということはない。敢えて言うなら、ラーメンも沖縄そばも長崎ちゃんぽんも、“日本独自の麺料理”のヴァリエーションの一、と言える。

 考えてみれば、我々日本人は様々に独自の麺料理を考案してきた。冷やし中華、つけ麺と言ったポピュラーなモノのほか、B級グルメの代表格ソース焼きそばは、横手(秋田)、浪江(福島)、富士宮(静岡)といった“ご当地グルメ”としても知られるようになった。小樽には“小樽あんかけ焼きそば”があるし、山形、盛岡、大分には“冷麺”もある。盛岡ではまた“じゃじゃ麺”も知られるし、名古屋には“台湾まぜそば”があり、“太平燕(たいぴーえん)”は熊本の名物である。


(大分県別府・胡月店舗と冷麺。2021年9月)

 これら中華系(?)に限ったことではない。我ら日本人は“スパゲティ・ナポリタン”という、イタリア料理にもないパスタ料理すら自分の国の食べ物にしてしまっている。さらにそのヴァリエーションとして“納豆”やら“たらこ”、“ねぎ塩”といったソースまで考案してメニューに並べているではないか。

 1905(明治38)年、「きしもと食堂」開業。日露戦争が終わったその年は、奇しくものちに「人形町大勝軒」(注16)となる店の主人が屋台を引いて支那そばを売り始めた年とも言われる。横濱・南京街(中華街)から始まった支那そばは徐々に周辺に広がり、『日露戦争が終わったころから、東京の夜の町にはチャルメラの音が悲しく響き始めた』(注17)のであった。全国の特徴あるラーメンを紹介た、所謂“ラ本”のさきがけともなったと言われる「ベスト オブ ラーメン」(注18)ではこの年、明治38年を『ラーメン八十年の歴史はここに始まったのである』と書いている。まさに、日本のラーメン史上、エポックメイキング的な年ともいえる。

 東京と、およそ1,600kmも離れた沖縄の地で、明治の終わりの、ほぼ同じころに、新たな麺料理の歴史が始まったわけである。そして沖縄そばの歴史も。ラーメンのそれも、なお今継続されており、この先さらに長くゞ続くはずだ。


(とうに閉店してしまった、かつての「人形町大勝軒」。2021年5月)

 きしもと食堂は「我が国最古の現役ラーメン専門店」なのか? そして沖縄そばはラーメンの一ヴァリエーションであるのか? 

 120年近くという膨大な時間がそこに横たわり、さらにこれからも延び続けると考えれば、どうでも良いことのように思えるし、どうしても白黒決着をつけたいのなら、それはこの先を生きていく人たちで決めればよい、とボクはそんな気がするのである。

(2022年8月中旬 脱稿)


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□あとがきに代えて ボクの病気のこと その日が来るまで□
 ボクの病気のことはブログほかで何度も書いているので、経過報告もかねて簡潔に。

 2019年正月。激しい腹痛で、松も取れぬうちに病院を受診したボクに、医師が冷徹に告げた。「大腸がんです。イレウス(腸閉塞)を起こしているし、腹水もかなり溜まっています。すぐ手術しないと数日の命と思ってください」。

 即入院、翌日手術。医療機関での勤務経験が長いボクのことだ、検査結果のステージⅲbの診断は、一定の確率で他臓器に遠隔転移することだと知っていた。定年間際の仕事も辞めて、当然、抗がん剤治療も進めたが、案の定翌2020年夏、両肺転移、除去手術。さらに翌2021年夏、多発性の肝転移、腹膜播種、おまけに原発性肝外胆管がん、発症。最悪、余命半年と無常の宣告。がん発症の少し前から淺草來々軒のことを書き始めた。もう諦めて、日本全国のラーメンの物語を書こうなんて思ってね、日本全国、いろんなところを回り始めた。それこそ北は小樽、室蘭、旭川から、南は鹿児島、宮崎、そして・・・

 今年、2022年の夏。それでもボクはまだ生きている。がん発症以来、各5回の入院と手術を繰り返したが、ベッドに縛り付けられているわけでなく、まあ、横になっていることは随分と増えたのは事実だが、それでも何とか3泊程度の国内旅行なら。

 と思って沖縄に出かけたのだが、今帰仁(なきじん)の宿ではほとんど食事が摂れず、那覇市内のホテルに移ったら熱発して動けず。コロナではなかったが、帰京後も発熱。急性閉塞性胆管炎という二度目の診断で、六度目の入院をする始末であった。

 ボクのこの世の寿命は1年とか精々持って1年半とかそんなモノ。でも、死ぬまで生きるしかないのだし、生きるのだったら楽しまなくては。だから、動けなくなるまで、そして遊ぶお金が無くなるまで、どちらが先か分からんが、ボクはまだラーメンのことを書き続けるし、そのために全国あちこち、出かけるつもり。

 ボクのその日が来るまで、ぜひお付き合いを!


(沖縄・「美ら海」の風景。また行きたいが・・・2022年7月)



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(注12)ヒラヤーチー⇒沖縄の卵を使った郷土料理。『小麦粉を卵とだし(または水)で溶き、ネギやニラなどを散らして焼くもの。塩味のお好み焼きのような料理で、冷蔵庫に残っている野菜や常備している食材などで作る事が多く、最近はソースをつけて食す人も多いため、「沖縄風お好み焼き」と呼ばれることがある。平たく焼くという意味で「ヒラヤーチー」といわれる。食感は韓国料理のチヂミに近い』(農林水産省“うちの郷土料理 次世代に伝えたい大切な味”より)。
(注13)ボクのブログのシリーズ (1)【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの】~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン~https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/29fa0d0e620bbded30724266b78172da
(2)明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/10e274d87ab2698a1161374b2933f956
(注14)丸デブのスープ関して⇒『明治の味を紡ぐ店~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~Vol.5』
https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/bc1653883d33bc34e93f732b678fa9c8
(注15)丸デブ三代目主人神谷房昭氏のインタヴュー記事⇒株式会社KADOKAWA『Walkerplus』第25回“2017年で創業100周年!大正時代から変わらぬ味の中華そばが食べられる「丸デブ 総本店」2017年9月23日” https://www.walkerplus.com/trend/matome/article/120324
(注16)人形町大勝軒⇒国内に四系統あるとされるラーメン店舗群「大勝軒」系で、もっとも歴史ある系統の店舗群の本店格にあたる。初代の渡辺半之助氏が、中国人・林仁軒氏と、1905(明治38)年ごろ、屋台の引き売りを始めた。1912(大正2)年ごろに店舗を構えたという。昭和初期には浅草にも大規模な支店を構えていた。最終的に暖簾分けは17店を数えたが、現在残るのは東京・浅草橋にある店のみである。新川(茅場町)にある大勝軒飯店はかつての暖簾分け店ではあるが、現在は経営者がまったく別の人になっており、人形町系とは無関係。以上、WEBサイト「Dairy Portal Z」2020年3月11日付の「大勝軒本店四代目インヴュー記事」より。https://dailyportalz.jp/kiji/coffee-taishoken
(注17)東京の夜にチャルメラの音⇒「東京おぼえ帳」より。平山蘆江・著、[初版]住吉書店、1952年刊。最新版はウェッジ文庫、2009年2月刊。
(注18)「ベストオブラーメン」⇒(「ベストオブラーメンin pocket」)麺’s CLUB ・篇、文藝春秋、1986年3月刊。





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