拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【検証篇】沖縄と東京、そして岐阜、高山。120年近くの時を超えた出逢い ~沖縄そばと、東京支那そばの、必然的な相似点~

2022年08月19日 | ラーメン
 本編で触れたように、きしもと食堂をはじめとする沖縄そばのスープに欠かせない素材は「豚」と「かつお節」である。この二つの素材は、琉球料理の「味わい」を演出するのに欠かせない出汁素材であることも書いたとおりである。
 それではなぜ、この二つの素材が沖縄そばと、その基礎となっている琉球料理に欠かせないのか? 本編でも少し紹介した近代食文化研究会(以下「研究会」)から寄せられた情報も含め、本編内容を敢えて『検証』してみたい。

□豚□
 本編でも引用した沖縄県の公式サイトの中、『沖縄の伝統的な食文化の保存・普及・継承について』で、琉球料理は「本土のように食肉禁忌の影響が少なく、肉食文化が発達しており、特に豚肉食習が根強い」と指摘している。確かに沖縄(琉球)料理には豚肉が登場することが多い。なぜ、沖縄では本土よりも早くから豚肉を食する習慣ができたのか。

 これはやはり中国からやって来た冊封使の存在が大きいようだ。彼らは4か月から8か月もの間、500人ほどの大人数でやって来た。だから食事も大量に用意する必要に迫られた。とりわけ一行は豚肉を好んだため、その調達に地元の人々は大層苦労したという。「全集日本の食文化 第8巻 異文化との接触と受容」注20では、『豚肉が(沖縄の)肉食文化の主流になった背景には冊封使の存在がある。冊封使達の供応には豚が必要であった。そのため(琉球)王府は養豚を奨励』したとあり、『冊封使の食糧支給に、島内の豚だけでは足りず、永良部・大島など近隣から買い集めた』(季刊誌「新沖縄文学 第54号」。注21)のである。

 結果として『飼料となる甘藷(かんしょ。注22)も普及し、豚の飼育も各地へと広がっていきました。こうして各地で豚の飼育が普及し、豚肉が主要な食材となる沖縄の食文化が広まっていった』(沖縄県畜産振興公社公式サイト。注23)。また、食という本来の目的のほかに、利殖を図るために『大正末期ころまで、那覇、首里でも多くの主婦たちが副業に一、二頭の子豚を飼育』(「聞き書 沖縄の食事」より。注24)されていたともという。沖縄(の人々)は、豚について『「鳴き声とひづめ以外は食べる」「ブタに始まり、ブタに終わる」ともいわれ、肉の他に、顔や耳の皮、足、内臓まで無駄なく使う習慣があります』注25とまで言われているのだ。

 「沖縄大百科事典 下」注26では、豚肉料理について『琉球料理のなかで最も代表的な料理』とし、以下のように解説している。

 『豚料理の発達した理由として、安価な芋飼料に恵まれていたこと、気候が養豚に適し、沖縄の人の嗜好にあっていたこと、冊封使の接待料理として需要が大きかったこと、救荒用家畜として重要な役目を果たしていたことなどがあげられる』。

 先ほども引用した沖縄県畜産振興公社の公式サイトには、興味深いこんな記述もある。

 『一般庶民は日常生活の粗食の中で、効率良く栄養をたっぷり摂取できる料理をあみだしていきます。そして単に豚肉を食べるのではなく、脂肪をしっかり落として調理することで、余分な脂肪分を摂らずに、必要な栄養分だけ摂取するという食文化が育まれていきました』。

 沖縄そばのスープ素材に豚を多用しながら脂分が少ないのは、獣臭さを除するということもあっただろうが、『余分な脂分を落として必要なモノだけ使う』という沖縄の食文化が育っていたという側面が大きいのであろう。



 なお、研究会は「東京におけるラーメン和風化の決め手は蕎麦屋によるラーメンの取り込みだと思っている」注27としている。また「日露戦争の影響で牛肉が不足、豚肉に取って代わられていて、淺草來々軒開業以前から東京人は豚肉慣れしていた。日露戦争後に東京人が豚肉慣れしたことが、淺草來々軒などの中華料理勃興の一因なのでは」という点も指摘している。ボクはブログで淺草來々軒が「明治末期創業時から提供していた支那そばの和風的なスープを、大正半ばから豚を前面に出したスープに大きく変更した」と推測しているが、その一つの背景に“東京に暮らす人たちの豚肉慣れ”があったのかも知れない、と感じている。

□鰹□
 豚とともに、スープ素材に欠かせないもう一つの材料、「かつお(節)」。あとでまた引用するのだが、2014年に開催された立教大学の公開シンポジウム“南洋と沖縄”の中で元埼玉大学教授の藤林泰氏(以下”藤林氏の報告”とする。注28)は『沖縄そばがお好きな方も多いと思いますが、かつお出汁抜きには沖縄そばは語れません』と話しておいでだ。

 研究会から連絡を頂いた中にこうした指摘もあった。研究会の引用元は、“豚”の項でも引用した「聞き書 沖縄の食事」である。

 指摘によれば、
 『那覇ではかつおだしが基本のだしで、味噌汁などに使われて』いて、歴史を辿っていくと『沖縄のかつお漁業は、かつお節の製造と合わせて古い歴史を持つ漁業で、大正時代は全国第三位の生産量を誇っていた』、『(八重山では)昭和の初期から、かつお漁がさかんになり、かつおが安く手に入るようになって、ふだんのおかずとしても利用している』。

 このように、“大正期から昭和初期”にかけては、沖縄の鰹漁は盛んであって、かつ一般家庭でも味噌汁などに多用されていたようである。現在でも沖縄の鰹節を他県に比較して相当多く消費しているというこんなデータもある。

≪令和2年 鰹節・削り節の地方別購入数量“二人以上の世帯”(注29)
 全国平均223(グラム。以下同じ)。地方別→北海道189、関東209、東海269、四国197、九州213・・・沖縄992。
 なんと、全国平均の4倍以上も沖縄の人は鰹節・削り節を買っている! ところが、である。生産量は、というと

≪令和2年 節類(本節)・削り節の主な生産地と生産数量(注30)
1.鰹節 全国1位鹿児島県19,880(トン。以下同じ)、2位静岡6,909、3位以下なし
2.鰹削り節 全国1位愛媛県5,058、2位静岡県2,727、3位鹿児島県1,085、以下愛知県、兵庫県、京都府(沖縄ゼロ)。

 つまり、かつて全国有数の鰹節生産量を誇った沖縄ではあるが、今となっては鰹節の生産はされていない。これは歴史的な背景が大きいようだ。少々長くなるが書いておきたい。参考にしたのは、前述の藤林氏の報告のほか、都度記す。

 鰹節は、江戸時代半ばに広く庶民の間に使われたという。水産加工品メーカーの「にんべん」の創業者、四日市出身の髙津伊兵衛は、『日本橋四日市土手蔵(現在の野村証券日本橋本社付近)に戸板を並べて、鰹節と干魚類の商いを始めました。時は元禄12年(1699)。当社ではこの年をにんべん創業の年』(注31)としているそうだ。つまり17世紀末には、鰹節などが立派な商品として商いができるようになっていた。当時の鰹節生産地は熊野(紀伊半島南部)、土佐、薩摩、安房、伊豆あたりであったという。

 沖縄の鰹節生産はそれからずっと後のことで、1901(明治34)年、松田和三郎という本土から来た人がカツオ漁を始め、1903年に鰹節生産を始めたのが最初という。1910(明治43)年になると、沖縄県はカツオ漁や鰹節生産の技術者を宮崎県・高知県から招聘し、沖縄県内のカツオ産業が盛んな地域へ派遣した。また、明治の後半から大正期にかけて、漁船の動力化も進んでいた。

 ちなみに、沖縄本島でないが、1896(明治29)年もしくは1897年に尖閣諸島でカツオ漁が、1897年に鰹節生産が始まったという記録がある。
・「1896年 古賀辰四郎氏(注32)が尖閣諸島で沖縄でのかつお漁を始める」=ヤマキ株式会社公式サイト(注33)
・「1895年には古賀(辰四郎)氏自ら船を艤装(注34)して久場島(注35)に上陸し、1896年に同島の開拓の許可を得た後、1897年に漁夫等35名を派遣して以降、夜光貝の採取、海鳥の捕獲(羽毛の採取・剥製づくり)、鳥糞採取(肥料)、鰹漁・鰹節製造など種々の事業を展開した」=海洋政策研究所 島嶼資料センター公式サイト(注36)
 
 こうした背景があったところに、1914(大正3)年、第一次世界大戦が勃発したのである。結果はドイツ帝国やロシア帝国などの敗戦となるわけだが、このとき日本は日英同盟を理由に連合国側として参戦、ドイツに宣戦布告する。日本は戦時中、太平洋地域におけるドイツの根拠地へと進出し、ドイツなどの敗戦を受けた戦争処理の結果、南洋群島(現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・ミクロネシアなど)を委任統治領とした。実質的に日本の植民地としたのである。

 日本は1922(大正11)年、パラオに「南洋庁」を設置、カツオ漁と鰹節製造業の奨励を押し進めた。漁場調査のほか、動力船購入補助などで手厚く支援をしたのである。沖縄県でも、県による奨励策が次々と実施され、1919年には沖縄県人が南洋群島のカツオ漁に参入を始めた。結果、1937(昭和12)年には国内鰹節生産量の37%を南洋群島産が占め、1942(昭和17)年に至っては沖縄県人の保有漁船は400隻以上、沖縄県人の水産業従事者は6,000人超えた。この数字は、南洋諸島における日本人漁業従事者の92%にも達するものであった。

 こうして、沖縄におけるカツオ漁・鰹節生産は最盛期を迎えるのだが、その期間はあまりに短かった。
 1941(昭和16)年、日本軍がハワイ・真珠湾を奇襲攻撃し始まった太平洋戦争は、1945(昭和20)年8月、日本が敗れ終戦した。南洋群島におけるカツオ漁とともに、“南洋節”と呼ばれた鰹節生産も終焉の時を迎えることになる。

 しかしながら、既に豚とともに、沖縄の人々の食生活には欠かせなくなっていた鰹節である。幸い、隣県の鹿児島県は鰹節の一大生産地であった。とりわけ、鹿児島県南端の枕崎では『1707年(宝永4年)・・・この頃から枕崎で煮熟ばい乾を基礎とするかつお節製造が始まった』(枕崎市公式サイトより)とされ、『鰹節は枕崎市で全国の約5割を占める日本一の産地』となっている。さらに枕崎市と南九州市を挟んだ隣接市・指宿にある山川漁港は、1600年代初頭の薩摩藩による琉球侵攻の際、薩摩藩側の拠点となったことなど、『鹿児島県の薩摩半島の西にある山川町は、琉球王国時代から、沖縄と深いかかわりのある町』(沖縄県嘉手納町公式サイト)、『指宿市の山川港は1613年から約270年にわたって、琉球と日本との交流の玄関口でありました』(鹿児島県指宿市公式サイト)等にあるように、両県の交流が活発だった。戦争で沖縄の鰹節生産が途絶えても、枕崎・指宿(山川)で生産された鰹節は沖縄の食生活を支えてきたのであろう。




□鰹節が『勝敗』の決め手?□
 ここで那覇で“支那そばや”などが開業した年とその店の調理人の出身地、それに沖縄で鰹節が作られ始めた年の「関係性」について整理してみよう。
  • 松田和三郎が沖縄でカツオ漁を始める   1901(明治34)年
  • 那覇に支那そばや〈中国〉が開業     1902(明治35)年
  • 松田和三郎が鰹節の生産を開始      1903(明治36)年
  • 支那そばや支店 比嘉店〈沖縄〉”が開業  1905(明治38)年
  • きしもと食堂〈沖縄〉が開業       1905(明治38)年
  • “観海楼〈中国)”が開業         1907(明治40)年10月
  • “比嘉店”と“観海楼”が客の争奪戦を展開    1907(明治40)年11~12月
    〈〉内は調理人出身地
 実は、明治35年創業の“支那そばや”と、同40年の“観海楼”は同一店という指摘がある。所在地が同じであった、ということらしい。本稿では別店舗のように記述しているのだが、その理由は両店ともそれぞれ創業年とされる年の新聞に「開業広告」を出している点から、である。どちらが正しいか、これ以上検証する手立てがないのだが、此処では同一店だったと仮定して記述する(もっとも同一店でなくても同じような結果となるのだが)。

 まず、新聞記事から引用する。2018年4月16日付琉球新報社海面に掲載されたものである。
 『沖縄県内の沖縄そば店店主らでつくる「沖縄そば継承発展の会」(野崎真志会長)は15日、初めての沖縄そば屋とされる「観海楼」のメニュー「唐人そば」を約110年ぶりに再現した。関係資料に基づき、約10カ月の試行錯誤を経て再現した味をそばじょーぐー(そば好き)ら約90人が試食した。(中略)
 初の沖縄そば屋とされる観海楼は、1902年4月の琉球新報広告で「那覇市警察署下り」に「支那そばや」が開業したと紹介された。これが最も古い沖縄そば屋の記述とされ、同店は約6年間営業したという。(中略)
 再現では、スープは沖縄そばの風味を残し、しょうゆラーメン風にはならないように注意した。かつお節は県内では1903年に製造が始まったという資料があるため、今回かつお節は使わなかった。(以下略)』

 此処でのポイントは三つ。
一、「沖縄そば継承発展の会」という団体がかつて存在した「観海楼」の味を“再現”することを試みた、という点。
二、前述のとおり、「支那そばや」と「観海楼」は同一の店である、という点。ただし、この記事では、新聞社独自取材したものでなく、関係者の聞き取りによるもの。
三、「支那そばや」(=観海楼)の創業年は1902年、沖縄で初の鰹節生産が1903年であることから、再現に当たってはスープに鰹節を使用しなかった、点。
 余談だが、6年続いたという「支那そばや」(=観海楼)の調理人の“唐人”は、比嘉店との競争に敗れたためか、『国に帰ったということだ』(注37)そうである。

 この記事、開催した団体「沖縄そば継承発展の会」(注38)公式サイトにも「唐人そばとは」と題した紹介記事がある。内容は琉球新報と当然同じなのであるが、二つの点に注目しよう。

 『・・・沖縄での「かつお節」の始まりは、1901年に座間味島でカツオ漁が始まり、1903年にかつお節製造開始との資料がありました。そして、唐人は貝柱や干し海老を使用するが、かつお節は使わない文化。という説を考慮して、今回は「かつお節」を使用せずに仕上げました。
 「支那そば屋(唐人そば)」で働いていた比嘉氏が独立して、1905年「比嘉店」が開業します。その店のレシピには「かつお節」が使用されていました。』

注目したい二つの点とは
  • 唐人は貝柱や干し海老を使用するが、かつお節は使わない文化があったという点。
  • 1905年開業の「比嘉店」はレシピで鰹節を使用していた、とある点。ただし、比嘉店のレシピがどのような形で残っていたなどについて明らかにしていない。
 先ほど書いたように、隣県鹿児島と沖縄はすでに交流が盛んであったため20世紀初めの時点で鰹節が沖縄に全くなかったとは考えにくい。というより、このころすでに、沖縄の人々はある程度鰹節を使った料理に馴染んでいたと考えるのが正しいのではないか。だから「支那そばや」の“支那そば”スープ素材に鰹節が入っていても違和感はないのだが、「唐人は鰹節を使わない文化」に着目すれば「観海楼のものには鰹節は入っていなかった」と考えるのが自然だ。この際、 “支那そばや(唐人そば)=観海楼”という図式が成り立とうとそうでなかろうと両店の調理人が“唐人”であったから鰹節は使わなかった、ことになる。

 “比嘉店”と“支那そばや(観海楼)”との際は「ヒラヤーチ」の有無であったが、客の争奪戦で“比嘉店”が優位に立ったのは、それよりも馴染みのあった鰹節を使った”比嘉店“のスープに、沖縄の人々は軍配を挙げた、とボクは考えている。


(ヒラヤーチ)

 豚と鰹(節)。“比嘉店”が勝ったその理由は、琉球料理の“味わい”の基となる出汁素材を使ったスープだった・・・だからこそ、である。

□沖縄(琉球)料理の『鰹節と水質の関係』□
 鰹節(と昆布)がいつから国内で使われてきたか。書くにあたっては信頼性の高い、非常にいい資料がWeb上にあったので、そこから引用する。タイトルは「ミニ電子展示 本の万華鏡」で運営は国立国会図書館(注39)、である。

 「日本の文献に昆布が登場する最古の例は、『続日本紀』霊亀元(715)年冬十月丁丑条とされて」いるそうで、「一方、鰹は天平宝字元(757)年に施行された法令である養老令の注釈書『令集解』にその名が見られ」るという。相当に古い歴史があるものの、「時代とともに鰹や昆布の利用方法は変化していき、鰹や昆布をそのまま食べるだけでなく、煮出してそのうま味を引き出した”だし”として料理に使用されるように」なっていった。「現代の”だし”に相当するものが最初に登場するのは「室町時代に始まったとされる日本料理の流派、大草流の相伝書として、『群書類従』に収録されている料理書で、室町時代の後期の資料と推定され、白鳥を煮て調理する際に”にたし”という鰹節を用いた”だし”や、”だし”をとる際にだし袋を使用していたという記述が見られます。現在、これが”だし”に関する最も古い記述とされて」いるそうである。室町時代初期、というから、14世紀半ば、ということになる。

 また、戦国時代(15世紀末から16世紀末)には、「かつお節(鰹節)は梅干と共に携帯しやすい兵食として広がり、名前の語呂でもある“勝男武士”とも相まって、縁起の良い、貴重な食材としてその地位を確立した」(一般社団法人日本鰹節協会公式サイトより)。



 いずれにせよ、沖縄の鰹節生産が始まるかなり前から、鰹節を出汁とした料理はあったということであり、「江戸時代には”だし”は日本料理の中に定着し、日本食文化の中核に位置づけられるように」なっていた。

 「本の万華鏡」の中で、昆布については沖縄(琉球)に渡った時期が記されている。それによると、
 『江戸時代の中頃から幕末にかけて成立した昆布の流通網は、現在では「昆布ロード」と呼ばれています。”昆布ロード”の確立とともに昆布の消費地も江戸や九州、琉球にまで広が』ったそうである。琉球に伝わったのは「18世紀以降」との記録もあることから1700年代後半、流通網の確立は幕末のころ、すなわち1860年代まで、と推測される。

 一方、鰹節。「関東では主に鰹節が使われ」たが、「関西では主に昆布が使われるように」なったそうだ。生産と流通の関係のほか、水質の影響も大きかったという。これだと沖縄には昆布より遅れて鰹節が伝わったことになろう・・・と、考えるのが普通かも知れないが、ボクが考えるに、この「水質」という問題が逆に沖縄においての鰹節普及を早めた可能性があるのではないか? これはあとで詳しく書く。

 まず、沖縄の水、である。那覇市によれば「沖縄本島は、中・南部の地域が石灰岩層から形成されていますので、その影響を受けた井戸水や地下水は硬水になり、硬度が高くなって」いる(注40)

 ボクは今年初めて名護から少し入った今帰仁(なきじん)の宿に2泊した。驚いたことがいくつかあったのだが、その一つが「水質」であった。宿のオーナーシェフが言うに「このあたりの水道水は料理に使えないほどの硬質で、たとえば水洗トイレなんかはカルシウム成分が固まってすぐ水が詰まってしまう」と嘆いておいでだった。

 水の硬度はカルシウムやマグネシウムの含有量に左右され、沖縄の水道水は、水地域によって硬度に相当な違いがあるというが、たとえば那覇エリアでは平成4年に180mg/L程度という値があったとされる。日本国内では300mg/L(水1リットル中に炭酸カルシウムとして300mg)以下となるよう基準が設定されているからそれ自体に問題はない。WHO基準では120mg/Lを超えると「硬水」、180mg/L以上だと「非常に硬水」と分類される。現在では那覇エリアでもそれほどの値は出ないそうではあるが、かつての那覇では「相当な硬水」であったことは間違いない。それはまた、上水道が整備される以前から、料理する者にとっては厄介なことだったであろう。

 沖縄県の水道事業を所管する県企業局によれば(注41)、「沖縄は亜熱帯性の地域で、全国に比べて年間に降る雨の量は多いですが、梅雨や台風の季節に集中することや島に大きな河川がないことなどから飲み水には恵まれない地域でした。そのため、水道ができる以前は、雨水や“村ガー”と呼ばれる井戸や湧き水に頼って」いた時代が長く続いた。1883年(明治16)年~1884(明治17)年、「湧き水の水を土管で引き、一般に給水」したこともあったそうだが、一般的な上水道の整備は、1933(昭和8)年に那覇に誕生するまで待たなければならなかった。その水道も、1944(昭和19)年10月の米軍の沖縄大空襲によりすべて破壊され、以後7年に亘って水道空白期間が生じたという。このように、戦後しばらくまでの期間、沖縄では水の問題が残っていた。

 次に、昆布と鰹節の沖縄への伝わり方である。この二つには流通ルートの成立からしてまず大きく違う。先に触れた「本の万華鏡」の中で昆布ロードは、江戸時代の中頃から幕末にかけて成立した、とあった。昆布の一大生産地と言えば北海道であったから、『昆布は北前船で北海道から大阪へ運ばれると、まず上質な昆布から売れていき、大阪で売れ残ったものが江戸で消費された』。このため、江戸では昆布を使うことがあまり好まれなかったのだ。

 一方、鰹節の生産量は前述のとおり、圧倒的に沖縄の隣県・鹿児島だ。さらに、四国・土佐(高知)でも盛んであった。逆に良質な昆布が優先的に運ばれる北陸地方や、煮干しが捕れる瀬戸内、その反対側にある四国の日本海側から北陸にかけてはアゴ(飛魚)の産地であったことから鰹節の需要はあまりなく、流通ルートはあまり作られなかった。

 こうしたことから、先にも紹介したが元禄時代に創業した「株式会社にんべん」によれば『江戸の初期から、外国船により長崎港・平戸港を出発して南方や中国(明・清)へ輸出される鰹節の中継港であったのと、薩摩藩が領内産鰹節の中国向け輸出基地としたこと』で、沖縄への流通は自然と確立され、結果的に『鰹節だしが沖縄の食文化に根付くことに』なったとしている。

 次に、水質、に戻る。「食の万華鏡」によれば『硬度が低い関西の水は昆布だしを引き出すのに適していますが、硬度が高い関東の水は関西に比べ昆布だしが出にくいといわれています。そのため、濃い“だし”を取るために、関東では鰹節が主に使われるようになったとされて』いる。そして、沖縄、である。沖縄は地域によって差はあるにせよ、那覇の水は非常に硬度が高い。そして放送大学・沖縄学習センター客員教員、森山克子氏によれば『琉球料理は旨味を大切にします。だしなど手抜きをしないでつくります。沖縄県民の多くは、中国の影響をうけて濃厚なだしを好』んでいたのだ(注42)

 昆布の流通ルートから外れるも、鰹節の一大産地・鹿児島や高知に近かった沖縄は、古くからの中国・冊封使の来訪、さらに硬質な水質などなど、まさに“歴史と自然”の必然的な出逢いによって、濃厚な鰹節食文化が作られていた。だからこそ、その文化を取り入れた「比嘉店」が「支那そばや」より支持を集めたのは当然すぎる結果だったのだ。

 沖縄そばの歩みは、明治末期からそう進んでいない。それは人々が求める姿であるからだ。そしてその基となるものは、江戸時代から関東でも好まれていた鰹節の醸し出す深く濃い味わいだったのである。そして、沖縄では古来中国から伝わってきた豚を味わう文化があり、関東では日露戦争後に訪れた豚肉忌避傾向否定の動きもあった。これらは先ほども述べたように、長い歴史と、その地が置かれた自然とが、必然的に出会って醸成されたその土地の食文化である。それが1600kmも離れた地で、時期をほぼ同じくして、同じようなテイストを持つ麺の文化となって誕生し、その先もずっと続いていくことなど、当時の人々は予想だにしなかったであろう。

 淺草來々軒はもうとうにないが、その系譜に連なる岐阜・丸デブと、沖縄のきしもと食堂。歴史はまだ、その、途中。
 


(上:きしもと食堂の「そば 小」、下:丸デブの「中華そば」)

□検証篇のあとがきに代えて 研究会に感謝□
 この「検証篇」は当初書く気はなかった。ただ、まとめている最中、検証篇以外の本文だけでは薄っぺらい感はずっと拭えなかったのは確か。とはいえ、沖縄の食文化に詳しくはないどころか、ほとんど知識はないボクのこと、沖縄の食の歴史に踏み込んでも書ききれないと感じていた。それでも多少は、鰹節や沖縄の豚については調べてはいたのだが。

 本編をネット上に試験的に上げた際、近代食文化研究会にメールで「何かご意見があれば」と連絡を取った。研究会から早速ご返事を頂き、いくつかご指摘をいただいたのと同時に、豚出汁・鰹出汁についても情報を頂いた。「やっぱり本編だけでは薄っぺらだよな」と“反省”して、この“検証篇”をまとめるに至った。

 研究会の著作は題材が幅広く、調査は綿密で、内容も深い。ボクのネット文章と比較するべくもないのだが、こうして助言などを頂戴できること、ただ感謝しかない。この場を借りて深く御礼申し上げたい。

 沖縄から戻って一月以上たつが、あまり体調がすぐれない。途中、2週間ほど入院することになったし、退院後も食事が摂れず、ベッドで横になっている時間が増えた。それでもこの先、時間と遊ぶ金が許す限り、ボクはまだ動くことを諦めない。

 次回は、ご当地ラーメン総ざらえ、と行きたいが、それほどの時間は残されたいないだろうから、ひとつ、ずつ。まずは北陸あたりから。

 それでは、また、きっと。

(2022年8月 そろそろ、処暑。)



(注21 季刊誌「新沖縄文学 第54号」⇒”特集=食の文化史ー沖縄の風土と食物” 沖縄タイムス社/編、川満 信一/編、沖縄タイムス、1982年12月刊)
(注22 甘藷(かんしょ)⇒さつまいも。17世紀前後に中国から琉球を経て薩摩(鹿児島)など九州に広がった。沖縄では唐芋 (からいも) ,九州で琉球芋とも呼ばれる。以上、農林水産省HPから)
(注23 沖縄県畜産振興公社公式サイト⇒「美味(まーさん)肉ガイド」~沖縄の食肉文化と歴史 http://www.ma-san-meet.jp/guide/より。
(注24 「聞き書 沖縄の食事」⇒~日本の食生活全集47。日本の食生活全集沖縄編集委員会・編、農山漁村文化協会、1988年1月刊。
(注25 沖縄で豚の鳴き声とひづめ以外は⇒公益財団法人・オリオンビール奨学財団公式サイト ”沖縄県民のエネルギー源「豚肉」の魅力”より)
(注26 「沖縄大百科事典 下」⇒沖縄大百科事典刊行事務局・編、沖縄タイムス社。1983年5月刊)
(注27)ラーメンの和風化は蕎麦屋の取り込み⇒関連資料「身近過ぎて知らなかった! 東京のそば屋が「ラーメン」を出しているワケ」 近代食文化研究会。WEBサイト『URBAN LIFE METRO』より。https://urbanlife.tokyo/post/73078/
(注28 立教大学の公開シンポジウム「南洋と沖縄」⇒立教大学アジア地域研究所 私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「21世紀海域学の創成」プロジェクト主催、2014年6月21日、同大学池袋キャンパス にて開催。「かつお節から見た沖縄と南洋の出会い」藤林泰氏の事例報告から引用)
(注29 鰹節・削り節の地方別購入数量⇒総務省「令和2年 家計調査年報」(二人以上の世帯)より)
(注30 節類(本節)・削り節の主な生産地と生産数量⇒農林水産省「水産物流調査、令和2年水産加工統計調査結果」より)

(注31 「にんべん」の創業年等⇒株式会社「にんべん」公式サイトより。https://www.ninben.co.jp/)
(注32 古賀辰四郎氏⇒「1856~1918。現在の(福岡県)八女市山内に製茶農家の三男として生まれる。23歳で沖縄に渡り、茶と海産物業の古賀商店を開業。1896年に明治政府から尖閣諸島の魚釣島などを借り受けると、家屋や船着き場の建設などの開拓を始め、その後、漁業やかつお節製造などを行った。その功績が認められ、1909年に藍綬褒章を受章した」。以上、西日本新聞『ワードBOX』より)
(注33 ヤマキ株式会社公式サイト⇒『沖縄×かつお節 宮古諸島におけるかつお漁の歴史 宮古・かつお漁 初期の年表』より。)
(注34 艤装⇒「造船における艤装とは、船としての機能するために必要な装置や設備の総称であり、またそれらを取り付ける作業を指す」。以上、ヤンマーホールディングス株式会社公式サイト『ボートの基礎知識』より。)
(注35 久場島⇒座間味島の南西約7㎞の海上に位置する慶良間諸島最西端の無人島。周辺はダイビングスポットとしてよく知られている」。尖閣諸島の一でもある。以上、沖縄文化・観光ポータルサイト、内閣府沖縄総合事務局 より
(注36 海洋政策研究所 島嶼資料センター公式サイト⇒笹川平和財団運営。『日本の島嶼をめぐる様々な問題に関連する文献等の史資料を収集・整理を行うことを目的に、2012年に設置』した、とある)
(注37 唐人は国に帰った・・・⇒沖縄生麺協同組合公式サイト「沖縄そばの歴史」より。
(注38 沖縄そば継承発展の会⇒一般社団法人。会の公式サイトには『志のある沖縄そば店主がお互いに協力し、各店舗では解決できない問題に取り組み、よりおいしい沖縄そばを提供するために、勉強会、経営の近代化、合理化、コスト削減、販路拡大、品質向上を図るために一般社団法人「沖縄そば発展継承の会」を設立』した、とある。公式サイトでは22店舗会員があるとのこと。URLは 
http://soba-okinawa.net
(注39 ミニ電子展示「本の万華鏡」⇒国立国会図書館が運営するWEBサイトで『様々なテーマに沿って、皆さまを国立国会図書館の蔵書の世界へと誘』う、とある。今回の引用元は同サイト「第17回 日本のだし文化とうま味の発見」から。https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/17/1.html)
(注40 沖縄の水は硬度が高い⇒那覇市上下水道局「水質Q&A」より

(注41 沖縄県企業局によれば⇒同局の公式サイト「沖縄の水道の歴史」より)
(注42  森山克子氏によれば⇒放送大学「【学習センター機関誌から】大人の食育④ウィズコロナの時代は【医食同源】の琉球料理で健康を」より)


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