拉麺歴史発掘館

淺草・來々軒の本当の姿、各地ご当地ラーメン誕生の別解釈等、あまり今まで触れられなかっらラーメンの歴史を発掘しています。

【2】 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月30日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。



2. 日本初のラーメン専門店=淺草來々軒とは誰が言い出したのか? 
 
 100%の自信があるわけではないが、もうこれは書かなくてもお分かりではないか。

 新横浜のラーメン博物館(以下「ラー博」)が、淺草來々軒の創業当時の‘味’を再現して提供を開始し、それを食べに行ったことは先のブログ[14]で書いた。ラーメン評論家の大崎裕史氏はこれに関連して、先に記したツイッター及びRDB(WEBサイト『ラーメンデータベース』)[15]でこう記している。

『日本初のラーメン店」説が覆った日。
 これまで1910年にオープンした浅草の「來々軒」が「日本初のラーメン店」とされてきた。しかし、先日の新横浜ラーメン博物館の発表ではそうではなく、「日本初のラーメンブームを作ったお店」という紹介だった。いろいろな資料や文献を調べ直した結果、そうなったと』。
 
 前章のブログでも書いたように、淺草來々軒が「日本で初めてのラーメン(専門)店」という事実は全くない。最初に言い出した(書いた)のは小菅桂子氏の著書『近代日本食文化年表』[16]ではないかとの指摘もあるがそうではない。ボクは随分早い時期にこの書を入手して記述があるのは知っていたが、そうではないことを確信していた、というか、この書の記述は無視していた。その著作100ページにはこう記されている。

 『浅草公園に東京初のラーメン屋「来々軒」が開店。来々軒は横浜税関に勤めていた尾崎貫一が開店したもので、庶民を対象にした東京で初めてのシナ料理店』。

 此処に書かれているのは ‘東京初のラーメン屋’、‘庶民を対象にした東京で初めてのシナ料理店’、であって、‘日本初’とか‘ラーメン専門店’という記述ではない。それに言い方は悪いが、この書はかなりマニアックなものであるし、発売当時3,800円もした本にどれだけの影響力があったというのだろうか。 

 淺草來々軒=日本初のラーメン専門店などと言う言葉は2000年代に入って初めてさまざまな場面で語られることになった、とのことは前章のブログで書いたとおりである。
 概略を記せば、1991年までに書かれた(出版された)書籍で、(ボクが調べた限り)淺草來々軒=日本初のラーメン(専門)店という記述があるものは一冊もない。ところが21世紀にはいると、すなわち2001年以降に書かれた様々な書籍で淺草來々軒=日本初のラーメン(専門)店という記述、あるいはそれに類似する書き方が出てくるのである。このことから、最初に言い出した(書いた)のは1990年代であるということが容易に推測できる。

 ここで少し前に書いた大崎裕史氏のツイッターの内容を思い出していただきたい。氏は、新横浜ラーメン博物館の公式サイトを引用して『(淺草來々軒は)「日本初のラーメンブームを作ったお店」という紹介だった。いろいろな資料や文献を調べ直した結果、そうなったと』と書いておいでだ。ちなみにラー博の開館は1994年3月のことである。このことからしても、最初に言い出したのは何処かお分かりであろう。

 また、今なお、ラー博では公式サイトで以下の表記をしている(2021年6月現在)。我が国でラーメンの歴史を一目でわかりやすく、あるいは網羅的に紹介しているのはやはり此処以外にはないとボクは考えているから、その影響力は大きい。だからこそ誤りは正し、根拠を明示する必要があるのではなかろうか。

中国人コック12人在籍は創業当初、ではなく『大正10年』
 たとえば、以下の記述である。

 『來々軒の創業者・尾崎貫一氏は明治43年、横浜の中華街から中国人コック12人を引き連れて浅草の新畑町3番地に來々軒をオープン。正月などの繁忙期は1日2,500人~3,000人の来客がありました。來々軒がオープンした当時、ラーメン店という業態は存在しませんでした。ラーメン店の誕生背景には、來々軒が「支那そば」、「ワンタン」、「シウマイ」という大衆的なメニューを安価に販売するという新たな業態を繁盛させ、広めたことがスタートとなります』。

 この表現の中には明らかに誤りがまだいくつか含まれている。その一つ目。

 前章のブログでも書いたのだが、小菅桂子氏の『にっぽんラーメン物語』[17](以下「ラーメン物語」)では、‘中国人コックが12人在籍した’という記述がある。しかしそれは開店当時ではなく、

『尾崎貫一氏が書き残した日記風ノートには、大正10年には中国人調理人は12人に上った』

 とある。実は『開店当初から12人』という記述は岩岡洋志氏の著作「ラーメンがなくなる日」[18]にもある。こんな一文だ。

『浅草の来々軒は1910(明治43)年に尾崎貫一氏が浅草で創業しましたが、このときも横浜中華街の中国人12名を招いて開業しています』。

 ちなみに著者の岩岡洋志氏は、ラー博の創業者で、株式会社新横浜ラーメン博物館の代表取締役だ。

 少し考えれば開業と同時に横浜の南京町(中華街)から中国人コック12人を引き連れて来た、というのは無茶な話である。確かに当時の浅草は、東京の、いや、日本有数の繁華街であった。けれどまだ東京には支那料理店はそれほど多くなく、あってもそれは今でいう高級中国料理店が大半であった。千束にあった中華樓など、一部ラーメン専門店と思われる業態、あるいは大衆的な支那料理店は存在していたが(これは後述する)、まだその歴史は浅く、繁盛するかどうかはまったく分からなかったはずである。それをいきなり、南京町からコック12人を引き抜いて開店するなぞ、まさに無謀極まる話である。1933(昭和8)年に書かれた「淺草經濟學」[19]でもこう記しているのだ。

『淺草の支那料理の變遷(へんせん)は、頗(すこぶ)る多種多様に渉っていて』、特に明治末期から大正初期にかけては『新たに開業したかと思ふと、間もなく廃業され、而(し)かも、廃業されたかと思ふと、又次のものが出來ると言ふ有様だった』。
 それほどリスクは高かったのである。

1日2,500人~3,000人の来客は可能か?
 
 次に誤りと確信しているわけではないが、根拠が明確でないものが次の一文。『正月などの繁忙期は1日2,500人~3,000人の来客がありました』。

 この2,500人~3,000人という記述、ボクの探し方が悪いのか、あるいはその事実がないのか、過去の書籍などには記述が見当たらない(見つけられない)。後で触れることになるが、郡山の「トクちゃんらーめん」という店の公式サイトには『正月ともなると、地元江戸っ子と観光で浅草に訪れる全国の人々が、一日で2500人もご来店したそう』という記述がある。「トクちゃん」の店主と淺草來々軒とは直接の接点もなく(あるのは千葉の進来軒という店。後述)、「したそう」と記述にあるようにこれはあくまで伝聞である。まさかこの一文を根拠にはしていないとは思うが・・・。

 さて、一つの店に1日に客が2,500人から3,000人が来るということは可能なのだろうか。検証してみよう。ただ、可能かどうかはもちろん店の規模によるわけで、淺草來々軒の客席数が分からないから、実は検証のしようがない。それは一旦脇に置くとする。さらに、この当時、淺草來々軒は麺も手打ちだったので、それだけの麺を確保できたのか? 無論スープなども仕込めたのかなどという疑問も残るが、ここでは「時間的に」可能かどうか見てみることにする。

 まず横浜駅西口にある超人気店「吉村家」の例を見てみよう。この店の集客数は過去に何度か話題になったと記憶しているからだ。

 同店は、いわゆる「家系」と呼ばれる豚骨醤油のスープが特徴のラーメン店で、全国の「家系ラーメン店」の総本山とも呼ばれる店だ。集客力には定評があり、いつ行っても行列が絶えない。しかし、客の回転は早く、それほど待つことはない。ボクは6年ほど横浜勤務であった時期があったので、同店には何度も食べに行った。昼どきであれば50人程度の待ち客は常であるが、1時間待つということはあまりない。同店には客の回転率を上げる様々な工夫があるのだが、ここでは省略する。
 同店の公式サイトによれば、客数は1日平均で1,500人だそうである。ヨコハマ経済新聞の記事[20]では

「一般にラーメン屋は1日に300杯売れば繁盛店とされるが、『吉村家』の基準では600杯でまあまあ、800~1000杯は当たり前、1200~1500杯で超繁盛店と位置づけている。横浜の総本家は実際に、超繁盛店のレベルをクリアーしている」
 とあるので、MAXでは1日1,800杯程度であろうか。

 吉村家の客席数は30、営業時間は11時から22時。22時はラストオーダーなので、最大11時間30分の営業時間と仮定すると、1800人の客を捌くのには1席あたり1時間に5.2人の客を回転させないとならない。つまり客一人が12分弱席に座って食べているという計算になるが、これはちょっと不可能な数字でなかろうか。さておき、これを可能とするなら客席数50あれば1日MAX3,000人の来客が可能だったということになる。ただし、これは昼前から深夜帯まで常に客席が満席で、一人の客が12分弱で食べ終え、食器なども片付ける間さえなく、間髪を入れずすぐさま次の客が着席するという、およそ神業のような客捌き、回転率を達成しないとならない。いずれ淺草來々軒の客席数が分かる時期が来るかも知れない。覚えておかなければならないが、「客席数50、営業時間11時間30分(休憩なし)でその間常に満席」が最低条件で、かつ一人の客が12分弱で食べ終え、食器などを数秒で片付け、すぐさま次の客を迎え、注文を受けてからこれまた12分弱で食べ終えさせてはじめて1日3,000人の客を捌くことが可能ということである。まあ、常識的に考えれば客席数50では100%不可能であろう。では倍の100席だったらどうだろう? この場合でも「すべての客が24分以内に食べ終え、すぐさま次の客から注文を受けて、24分以内に食べ終えさせ、それを1日12時間近くずっと維持させる」。それも不可能ではないだろうが、現実的には甚だ疑問符が付く。

『昭和3年讀賣記事』は、実は“広告”
 
 もうひとつ、これが根拠か? というものがある。それはラー博のサイトにも新聞の切り抜きや、『來々軒にまつわる文献は数多く存在』している一例として掲載されているのが[21]、先に書いた昭和3年発行の讀賣新聞の記事である。そこには確かに『一日何千人かの客を迎えて居る、實に淺草名物』とある。しかし、何千人というぼかし方をしているし、何よりこの一文、実は『記事』ではなく、まして正確な過去の記述・記録を意味する『文献』とは全く異質の、『広告』なのである。
 
 ラー博に行くとこの記事なるものの拡大版も掲示されているのだが、昭和3年の記事という紹介の仕方しかしていない。つまり発行月日が不明なのである。ボクは2,500人~3,000人という数字の根拠を調べる一環として、料金を支払って読売新聞のデータベースにアクセスしてみた。すると、検索の結果が以下であった。

『広告 味覚をそそる 浅草名物来々軒 1928.05.28 夕刊 9ページ』

 なんのことはない、『何千人かの客を迎えている』というのは、來々軒自らが宣伝しているにほかならず、根拠というにははなはだ怪しいものなのである。

ラー博の展示。上部に読売の記事があるが、これは記事ではなく「広告」である 

淺草來々軒の二代目・尾崎新一氏は淺草經濟學で『殊に長男の尾崎新一君が、太つ腹で宣傳と言ふことには、金銭を度外視して、徹底的に断行したものである。だから(注・関東大)震災直後と雖(いえど)も、昔賣り込んだ看板を益々光輝あらしめ、人氣の焦點となつてゐたものだつた』と書かれるほど、積極的に広告を打っていた人物である。

 この宣伝の効果について、『お好み焼きの物語』ではこう書いている。

 「明治末期から昭和初期の東京において宣伝の重要性は非常に高く、尾崎親子(注・貫一氏と新一氏)がそのような(注・淺草來々軒を繁盛させるという)サクセスストーリーを描き、実現することも可能だった」。その背景には、「東京の人口爆発と、市電の整備と、新聞の普及があった」とし、新聞については「日本の新聞は戦争を糧にしてその部数を伸ばしていった」。つまり、当時の新聞部数は日清日露の戦争のおかげで飛躍的に伸びていったと書いている。さらに新聞広告に金をかければ、客は市電に乗ってやって来るという「広告業界にとっては夢のような状況」に、たとえば三越百貨店などと同様、尾崎親子は気が付いたのだという。

 ところで淺草來々軒が繁昌した、という記録が最初に見えるのは、おそらく1918(大正7)年に書かれた「三府及近郊名所名物案内」[22]ではなかろうか。前章のブログでも書いたのだが、來々軒の繁盛ぶりを見事に描いているので再度紹介したい。

『來來軒の支那料理は天下一品
 浅草公園程見世物でも飲食店でも多い處(ところ)は三府に言ふに及ばず、東洋随一澤(たく)山であろう その浅草公園での名物は支那料理で名高い來々軒である、電車仲町停留場から公園瓢箪池への近道で新畑町の角店だが、同じ支那料理でもよくあヽ繁昌したものだ、二階でも下でもいつも客が一杯で中々寄り付けない様で、此の繁昌するのを研究して見ると尤(もっと)もと思われる、客が入るとすぐとお茶としうまい、を出す そこで料理が、わんたんでも、そばでも頗(すこぶ)るおいしい その上に値が極めて安い 何しろ支那料理として開業されたのは此の店が東京で元祖であつて勉強する事は驚く様である 慥(たしか)に東京名物である事を保證する。』

 ただ『支那料理として開業されたのは此の店が東京で元祖』というくだりは過ちであることは言うまでもない。

明治41年創業の千束・中華楼は『支那そば屋・式』
 
 話を元に戻す。ラー博の記述である。三つ目。『來々軒がオープンした当時、ラーメン店という業態は存在しませんでした』とそれに続く文章である。これも前章のブログで書いているが、來々軒創業以前にそれらしき店は存在していたのである。これも前章のブログで書いたものだが、また淺草經濟學から引用する。なお、「支那そば屋式」は「支那そば屋・式」であって「支那そば・屋式(屋敷)」ではない。

 明治41年、平野なる店が支那料理店を廃業すると『殆ど入れ替りに、千束町の通りに、中華樓と言ふのが出來た。こゝは支那そば屋としての組織であったから、つまり此の意味に於ては淺草に於ける元祖である』。『即ちこれまでの支那料理と異なり、支那そば、シューマイ、ワンタンを看板とするそば屋であつたのだ』。『中華樓は現在も、開業當時と同じ営業をやつているので、淺草の支那料理では、こゝが元祖であり、老舗でもある。(中略)(経営者の)江尻君は氣さで、頗(すこぶ)る痛快な男でもあるから、千束町では誰れ一人知らぬ者もない。中華樓は開業當時から千束町二丁目二百五十一番地で、開業當時から、支那人のコックを雇ひ・・・』

 また、こんな記述もある。
 『廣小路の有田ドラツクの横町を這入つた處の右側にある「榮樂」』という店について、『「榮樂」は大衆的な支那料理屋で、どちらかと言ふと、支那そば屋式な家である。夜明かしの店ではないが、大衆的な支那そば屋式の家としては、公園劇場前に、東亭と言ふのがあり、ちんや横町を更らに横に曲ると、八州亭があり、昭和座横には三昭がある。が、しかし、此の種の家は、他にも無數にある』。


「淺草經濟學」(国立国会図書館デジタルコレクション)

 このように、「淺草經濟學」では明確に支那料理店と、支那そば屋式あるいは支那そば屋とを区別している。特に中華樓なる店は、來々軒創業より前に、支那そば・シューマイ・ワンタンを提供する『そば屋』であったとしているのだ。この著者は、どうやら自らには明確な基準があって、支那そば屋と支那料理屋とを区別しているようである。また、後述するが、明治37(1904)年の新聞の事件記事には神田に「南京蕎麦屋」があったことが記されている。また、これも前章のブログで書いたのだが、NPO法人神田学会が運営するWEBサイト 「KANDAアーカイブ」の「百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」[23]によれば、神田に現存する中華料理店・揚子江菜館は『明治39年(1906年)西神田で創業されました。神田に現存する中華料理店では最も古い店です。実は、「支那そば」という店名でそれ以前から営業をしていましたが、店名を改めた年号を創業年にしています』とある。
 
明治37年に存在した神田・青柳氏の店は『南京蕎麦家』
 さらに続けよう。下記の情報は研究会から寄せられたものである。
 
『強盗傷を負ふて逃ぐ
 昨晩三時頃神田仲町二丁目[24]三番地南京蕎麦屋青柳賢藏方へ一人の窃盗忍(しのび)入り店頭にありし銭箱の金三十銭と單衣(ひとへもの)一枚を窃取して二階に上り・・・』(1904年=明治37年9月18日、毎日新聞[25]より)

 かつて神田界隈は、とりわけ今の神保町周辺は、中国からの留学生が多く居住し、支那料理屋が数多くあったことは前章のブログに記したとおりである。この事件があった明治37年には、一千人の中国人留学生がいたそうである[26]。この事件があった当時の「神田仲町」は現在の神保町・駿河台下あたりまで1kmに満たない距離に位置する。

 記事の事件どおりとするなら、青柳賢藏氏の「南京蕎麦屋」は、1899(明治32)年創業の「維新號」(神保町)のあと、1906(明治39)年創業の揚子江菜館(神保町)の前、の年には存在していたことにある。

 この記事だけでは「南京蕎麦屋」が、今でいう「ラーメン専門店」であるか否かは分からない。ただ、当時の横浜では「支那料理屋」が相当存在していたのだから、この青柳賢藏氏の店を敢えて「南京蕎麦屋」と呼んだのはそれなりの理由があったと考えられ、この店が千束にあった中華樓という店より前に創業した「ラーメン専門店」であった可能性もある。

いずれにせよ、明治末期、支那料理店とは異なる業態、すなわち「支那そば店」「南京蕎麦屋」があったことは確かであろう。


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[14] 先のブログ 「其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの ~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン」https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/29fa0d0e620bbded30724266b78172da

[15] RDB ウエブサイト「ラーメンデータベース」 https://ramendb.supleks.jp

[16] 小菅桂子氏の著書『近代日本食文化年表』 雄山閣。1997年8月刊。

[17] 小菅桂子氏の「にっぽんラーメン物語」 副題は「中華ソバはいつどこで生まれたか」。単行本は駸々堂、1987年10月刊。

[18] 『ラーメンがなくなる日 新横浜ラーメン博物館館長が語る「ラーメンの未来」』 岩岡洋志・著、主婦の友社。2010年12月刊。

[19] 「淺草經濟學」 石角春之助・著、文人社。1933年6月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。

[20] ヨコハマ経済新聞の記事 2007年1月12日付のWEB版。https://www.hamakei.com/column/140/

[21] 読売新聞の記事が掲載されている ラー博の公式サイトhttps://www.raumen.co.jp/information/news_001083.html での讀賣新聞の記事(とされる)『一日何千人かの客を迎えて居る、實に淺草名物』という一文

[22] 「三府及近郊名所名物案内下巻」 兒島新平・発行兼編纂、日本名所案内社。1918年8月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。

[23] 「KANDAアーカイブ 百年企業のれん三代記・第26回揚子江菜館」http://www.kandagakkai.org/noren/page.php?no=26

[24] 神田仲町二丁目 現在の外神田一丁目の中央通り界隈。秋葉原駅電気街口の先。

[25] 明治3年12月8日(1871年1月28日)横浜で発刊された日本最初の日刊邦字新聞。のち東京に移り「東京横浜毎日新聞」と改題。現在の毎日新聞とは異なる系統である(以上、デジタル大辞泉」などから)。

[26] 一千人の留学生がいた WEBサイト「神田資料室」より。元は「KANDAルネッサンス86号 (2008.06.25) P.6〜7」である。http://www.kandagakkai.org/archives/article.php?id=001997


【1】 明治の味を紡ぐ店 ~謎めく淺草來々軒の物語 最終章~ 

2021年07月28日 | 來々軒
※「來々軒」の表記 文中、浅草來々軒は大正時代に撮影されたとされる写真に写っている文字、「來々軒」と表記します。その他、引用文については原文のままとします。
※大正・昭和初期に刊行された書籍からの引用は旧仮名遣いを含めて、できるだけ原文のままとしました。また、引用した書籍等の発行年月は、奥付によります。
※他サイト引用は、原則として2021年6月または7月です。その後、更新されることがあった場合はご容赦ください。
※写真の撮影は、原則、著者によります。
※(注・)とあるのは、筆者(私)の注意書きです。振り仮名については、原則、筆者によります。
※☆と☆に囲まれた部分は、筆者(私)の想像によるものです。


新横浜ラーメン博物館内「來々軒」看板
 

 ・・・『太平洋戦争で、大阪の街は焦土と化した。食べるものがなく、スイトンや雑炊が食べられればいい方だった。芋のツルまで口にして飢えをしのいだ。阪急電鉄梅田駅の裏手、当時の鉄道省大阪鉄道局の東側は焼け野原で、そこに闇市が立った。 
 冬の夜、偶然そこを通りかかると、二、三十メートルの長い行列ができていた。一軒の屋台があって薄明りの中に温かい湯気が上がっている。同行の人に聞くとラーメンの屋台だという。粗末な衣服に身を包んだ人々が、寒さに震えながら順番が来るのを待っていた。一杯のラーメンのために人々はこんなに努力するものなのか・・・』(安藤百福・著、『魔法のラーメン発明物語』)[1]

 ・・・チキンラーメンやカップヌードルの開発者にして日清食品の創業者、安藤百福が戦後の焼け野原でラーメン屋の屋台を見つめた日から、遡ること28年。時は1917(大正6)年。場所は、のちに日本の表玄関というべき駅に成長する東京駅[2]。ただし、この時点ではまだ開業して2年しか経っていない、のである。

 「旦那様、どうぞお元気で。お店の更なるご繁盛、心から祈っております」「おう。お前も人の店の心配なんぞするより、自分のことを心配せい。くれぐれも身体だけは気を付けろ。支那蕎麦の店をやるのには、身体もキツイからな」。
 ・・・この日、淺草來々軒の店主・尾崎貫一は、従業員であった神谷房治を見送りのために東京駅に来ていた。神谷は数年に渡る淺草來々軒の修業を終え、故郷の岐阜に帰るのである。
 「ありがとうございます。最初は屋台を引きますが、きっと店を構えて見せます。旦那様から教わった來々軒の味、必ず守っていきます」「おう、それはありがたいことだ。そうそう、屋号はな、客の皆が『丸デブ』ってお前さんのことを呼んでいたから、それにしたらどうだ」「ハハハ。それはないでしょう。でも考えておきます」「達者でな」「旦那様も」。
 尾崎は店の者に作らせたシウマイを取り出し、神谷に渡す。「いくら特別急行列車[3]と言え、岐阜までは10時間以上の長旅だ。汽車の中では腹も減るだろう。これでも喰えや。お前の好物、シウマイだ」「ありがとうございます。來々軒のシウマイは絶品ですもんね」。

 ポオーッツ! 東海道線・東京駅発下関行の特別急行列車の汽笛が響き渡り、車輪が鉄路の上をゆるりと走りだした。神谷は窓から身を乗り出し、ちぎれるばかりに手を振った。もちろん貫一も、である。ただ、貫一の頭の中の半分は、そこそこ繁昌している自分の店、つまりは淺草來々軒をどうやって常に客で満杯にするか、で占められていたのだった。で占められていたのだった。「スープなんだ。スープを改良すれば・・・」


 ここでおさらいである。前章のブログ「淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【1】」[4](以下、前章のブログ、という)で記したものではあるが、本題に入る前に、淺草に來々軒の歴史を簡単に記しておこう。なお、前章ブログ記述より後に判明した箇所があり、修正または追記した。

◆1857(安政4)年もしくは1858(安政5)年 創業者・尾崎貫一、下総舞鶴藩の武士の家に生まれる。明治の初め頃、横浜に転居。横浜税関に勤務する。
◆1892(明治25)年 十一月、貫一の長男、新一、誕生。のち、東京府立第三中学校(現・東京都立両国高校)を経て早稲田大学商科に進学。
◆1910(明治43)、もしくは1911(明治44)年 貫一、浅草新畑町三番地に来々軒を開業する。創業年次は両年とも記録があって、ともに可能性がある。
それを断定するのは困難である。
◆1915(大正4) 貫一の孫、後の來々軒三代目店主・尾崎一郎、誕生。
◆1921(大正10)年 來々軒は繁盛し、この年には12人の中国人コックが働く。一部に淺草來々軒は創業時より中国人コックを12人雇用したとの記述があるがそれは明らかな誤りで、淺草來々軒初代が書き残した日記風ノートに記載されているとおり、12人の在籍はこの時期である。
◆1922(大正11)年 三月、貫一死去、享年65。長男・新一が経営を引き継ぐ。
◆1927(昭和2)年三月、新一死去、享年36。妻・あさが経営を引き継ぐ。この時、堀田久助(義兄)および高橋武雄(義弟)の補佐により運営する。
◆1935(昭和10)年  20歳の一郎が家業継承。堀田久助は独立、上野來々軒を創業する。ただし、上野來々軒創業時期は、これよりも数年前の可能性がある。
◆1943(昭和18)年 一郎、出征のため、浅草の店を閉店する。尾崎一郎一家は、千葉の幕張に転居している。以後、一郎氏は幕張から八重洲、内神田の店へ‘通勤’した。なお、一郎氏には二人の子息がいたが、店を継ぐことはなかった。
◆1954(昭和29)年 一郎、東京駅近く、八重洲四丁目に来々軒を新たに出店する。
◆1965(昭和40)年 八重洲の店がビル化されることに伴い、内神田二丁目に移転。
◆1976(昭和51)年 廃業

  【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの】[5]をUPしてから半年も経ってしまった。もっと早く続編を上げるつもりであったのだが・・・。長くかかってしまった理由はいろいろあるのだが、最も大きな要因は、やはりコロナ禍である。続編をまとめるに当たって、どうしても食べておかねばならない店があるのである。この店で食べないことにはまとめが書けないのだ。その店はいわば“淺草來々軒の謎めいた物語の最後のピース”、である。ただし、この店はパズルに嵌まらないピースという思いがあって、それを確認するために行くつもりであったのだ。店は、神戸・尼崎にある。

 当初は2020年の12月の後半に行くつもりであった。当時、新型コロナの感染は所謂第三波と言われる時期に達し、12月24日には都内新規感染者数は初めて800人を超えた。ボクも大いに利用させていただいた「GO TO トラベル」も中止となってしまい、止む無く遠出を諦めた。以後、機会を伺っていたのだが、なかなか感染は収まる様子はない。

 ようやく、東京や大阪、兵庫などに出ていた第3次緊急事態宣言が明けた2021年7月に尼崎の店に行くことができた。ついでに岐阜市内のアノ店にも、さらに飛騨高山も二回目の訪問で何店か回った。その理由は別途書くとして、この結果、ボクはようやく、淺草來々軒の正統な後継店は「この店だ!」と確信したのだ。正統な後継店、それはもちろん‘味’についてである。

 淺草新畑町にあった広東料理店、あるいは支那の一品料理店「淺草來々軒」のことを調べ始めて随分と時間が経った。もうこの店のことを「日本で初めてのラーメン専門店」などという人はいないだろうが、それでも調べれば調べるほど淺草來々軒が残した影響はとても大きかった、と思うのである。もしかすると淺草來々軒が存在していなかったら冒頭の安藤百福氏の一文は、書かれることはなかったかも知れない。現代のラーメンなる食べ物は、少し違ったものになっていたかも知れない。そして、その淺草來々軒の正統な後継店があるとしたら、それはどの店なのだろうか? いや、そもそも、そんな店があるのだろうか?

 それを今回のブログで解き明かしていくのであるが、それは少々謎めいた話でもある。実はボクは、そのことには数年前から気が付いていた。それはそのままの、だったはずだったのだが、前章でも書いたようにボクの事情が大きく変わった。

 2019年初め、ボクは大腸がんを患った。ステージはⅢ-b[6]。他臓器に転移はなかったが、複数のリンパ節転移があったから、肺や肝臓などに転移する可能性はあった。そして2020年夏、両肺転移が発覚。左肺の転移部位は浅かったが、右肺の転移個所は結構奥で、三分の一ほど切除した。60歳で定年を迎えたこともあったので仕事も辞めた。肺のオペ後、常勤で勤務を再開したが、もうそれも無理なことで、今は週4日の勤務である。つまり、時間がまた出来た。ならば、淺草來々軒の謎めいた話を、それが解決されるかどうかともかく、まとめようと思ったのである。

 ここで一つ断っておく。本稿はあくまで淺草來々軒スープに焦点を当てて、正統なる後継店を探っている。スープに焦点を絞った理由はほぼ一点に尽きる。ボクの想いを的確に表現をしている一文を紹介してその理由に代える。
著者は、中国社会論などが専門の社会学者で、現・東京大学大学院情報学環・東洋文化研究所教授の園田茂人氏。氏が中央大学文学部教授時代の2004年に書いた一文[7]である。

 『(ラーメン一杯の)分量や麺の製法などは華北から、シナチクや焼き豚などのトッピングは華南からやってきて、スープは日本で独自に開発された。おおよそ、こう理解してよいだろう』。

1.はじめに
 前章のブログ脱稿の前に、近代食文化研究会(以下「研究会」という)・著作「執念の調査が解き明かす新戦前史 お好み焼きの物語(以下『お好み焼きの物語』)」(書籍版[8])を読んでしまったボクは、正直、原稿を書くのをやめようと思った。それは前章でも書いた通りだ。

 この著者[9]は、文字通り“執念の調査”によって、淺草來々軒の真実を明らかにされた。そして2020年暮れ、その改版が電子書籍で公開された。「お好み焼きの戦前史Ver.2.01」(以下「Ver.2.01」という)[10]である。
 今回、「Ver.2.01」を拝読させていただき、改めてこの著者の調査力に驚かされた。前章執筆時同様、もう淺草來々軒のことをボクが書く必要はないかも知れない、と考えることもあった。けれど、アプローチを変えればこの著者が言及されていないことを書くことができるのではないか、と思ったのだ。それがたとえボクの想像であり、あるいは推測の域を出ないにしても、書き残す価値はきっとある、と考えた。幸い、『お好み焼きの戦前史』の著者とは、何度かメールで連絡を取り合うことが出来た。

 連絡を取り合うようになったきっかけ。それはラーメン評論家・大崎裕史氏のツイッター[11]であった。大崎氏には改めて感謝を申し上げ、話を進めていくことにする。

 その前に、淺草來々軒の創業年について触れておく。一般的に創業年は1910(明治43)年と言われているが、ボクは、前章のブログで『創業年は1911(明治44)年ではない』、と書いた。根拠は二つ。1937(昭和12)年に発行された「銀座秘録」[12]に創業時期が書かれていること。二つ目は明治43年12月の発行の、当時の浅草の様子を事細かく記した本で、地区別の飲食店、あるいは名物とする料理を多数紹介している「淺草繁盛記」[13]に來々軒の名が記されていなかったことである。
 
 一方、1910年説は、ラー博にも掲示がある、おそらく関東大震災を経て再建した來々軒を紹介した1928(昭和3)年の讀賣新聞の記事(正確に書けば、これは記事ではなく広告である。後述する)が根拠であろう。そこには確かに『明治四十三年に現在の場所(注・淺草新畑町)に開業し』とある。
 どちらが正しいか? 今となっては最早分からないのだが、1928(昭和3)年の讀賣の広告は來々軒自らが出したものと思われ、この当時なら自分の店の創業年を忘れるあるいは間違えるという可能性は低いと思われるため、ここでは1910年、すなわち明治43年と書いておくことにする。




新横浜ラーメン博物館内部

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[1]『魔法のラーメン発明物語』 安藤百福・著、日本経済新聞社。2002年3月刊。

[2] 開業してまだ2年の東京駅 東京駅の開業は1914(大正3)年12月20日で、東海道線の起点となった。

[3] 東海道線の特急列車 東海道線の特別急行列車(特急)は、1912(明治45)年6月15日に、新橋~下関間で運行が開始された。

[4] 前回のブログ 「淺草來々軒 偉大なる『町中華』 」https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/a2cff9cb8dcf5636a5caab3e78a695b3

[5] 【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの 1】~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン~ https://blog.goo.ne.jp/buruburuburuma/e/29fa0d0e620bbded30724266b78172da

[6] 大腸がんのステージⅢ-b リンパ節転移が4個以上ありリンパ管とリンパ節が癌に強く浸潤されている状態。5年生存率は60%。現役医師が運営するWEBサイト「Medical Note」などより。

[7] 園田茂人氏の一文 中央大学文学部教授時代の2004年、同大学教養番組「知の回廊」40「ラーメン、中国へ行く-東アジアのグローバル化と食文化の変容」から抜粋。「知の回廊」とは、同大学によれば『教養番組「知の回廊」は日本で初めて大学とケーブルテレビ局(ジェイコム東京)が共同で番組を制作し、大学の知的財産を教養番組という形で、既存の「見るだけのテレビ」から「学びの宝箱」へと進化させた、これまでのテレビの枠を越えた放送番組』である。園田氏の文章は、ネットで全文を読むことができる。

https://www.chuo-u.ac.jp/usr/kairou/programs/2004/2004_06/

[8] 『お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史』 近代食文化研究会・著、新紀元社。2019年1月刊。

[9] 近代食文化研究会 ‘会’とあるが、実際は個人で活動されておいでである。

[10] 『お好み焼きの戦前史 Ver.2.01』 2020年12月15日発行。読むためにはKindle版をダウンロードする必要がある。

[11] 大崎裕史氏のツイッター 2020年10月15日付けのもの。

https://twitter.com/oosaki1959?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

 のち、WEBサイトRDB(ラーメンデータベース)の「今日の一杯 淺草來々軒」でも紹介されている。https://ramendb.supleks.jp/ippai/mNK9jIPt

[12] 「銀座秘録」 石角春之助・著、東華書莊。1937(昭和12)年1月刊。国立国会デジタルコレクション。

[13] 「浅草繁盛記」 松山伝十郎・編、實力社。1910(明治43)年12月刊。


でぶまる

2021年07月25日 | 來々軒
來々軒に繋がる店を探して、飛騨高山に、二度目の訪問。そして見つけたこの店は・・・

 ボクが「淺草來々軒の、初期の味を伝える正統なな後継店」と考える岐阜市内の店。屋号をひっくりかえしてんの~

でぶまる? 
 場所は高山の「でこなる横町」。
でこなる、とは公式サイトでは『高山の方言で「でこ~なる(大きくなる)」という意味で、でこなる横丁に集うお客様や店主の「夢」がより大きく叶いますように・・・という願いが込められています』。
 
 さらに『地元の飛騨人とふれあいながら、高山ならではのグルメをお値打ち価格で堪能できる「地元の人同士、飛騨人と国内・海外から観光や仕事で訪れた人たちとの異文化交流」そんな場所を目指しています』とのこと。

 しかしまあ、同じ岐阜県内の、岐阜市内の中華そば店「丸デブ」を意識して、この飛騨高山にてこんな屋号でラーメンを出すとは。

 びっくら、ですな。



其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの ~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン

2020年12月06日 | 來々軒
【其の後の、淺草來々軒を、継ぐもの 1】
~大正・昭和の店、味、そしてご当地ラーメン~

第一部  其の壱


 誰も知らない。誰も分からない。作った人は無論いる。食べたことのある人も大勢いる。しかし、もうだれも、この世にはいない。
だから。自由には作れる。けれど縛りがキツイ。だからプレッシャーは半端ない。


 そんなチャレンジにはただ敬服するのみ、である。
 けれど。
 このスープは、おそらく、まったくベツモノ。大正初期の淺草來々軒の支那そばとは。

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 2020年霜月11月のある日のこと、ボクは新横浜のラーメン博物館に向かった。この10月、戦前まで淺草新畑町にあった「來々軒」の復刻プロジェクトで開店した「新横浜ラーメン博物館・淺草來々軒」での支那そばを食べるためである。

 久しぶりに見上げた新横浜の空はとても高く、清々しい。
勤務先の事業所があったため、かつて毎日のように利用したこの駅であるが、僅か二年ほどの時間の経過ではさしたる変化はないようだ。いや・・・相鉄の工事は地下でだいぶ進んでいるようである。とにかく首都圏にある新幹線停車駅で、これほど不自由をする駅はない。横浜アリーナや日産スタジアムでイベントがあるときなど入場規制するほどだ。それでは新幹線に乗れないではないか。相鉄の駅工事は、むしろJRの駅を混雑させるだけかも知れないが。

 淺草來々軒の復刻プロジェクト。当初は相当混雑したようであるが、だいぶ日にちも経った平日だから、ボクが入店したとき、先客は僅か2人。後からも3人ほどという寂しい入りだ。またぞろコロナ感染者が増えてきた、という事情もあろうが、この手の業態は今の時期、非常に厳しい状況が続くのだろう。

 明治末期、当時の日本最大の繁華街・淺草に開業した支那の一品料理屋、今で言えば町中華の店を、一体なぜ、だれが(見当はついているが)「日本初のラーメン専門店」などという呼び名を付けたのか? 結論を書けば淺草來々軒は、日本初のラーメン専門店では決してない。それはボクだけではなく、数は少ないが、そう主張してきた人たちがいる。今回のラーメン博物館の企画は、ようやくその事実と、淺草來々軒が日本にラーメンブームを最初に広めたきっかけの店ということ広く伝えていくということなのだろう。

 頂いた一杯は、なんともビミョウな味である。スープは懐かしさなど微塵も感じさせないが、では今風であるかというとそうでもない。物足りないこともなく、かといってうーむと唸らせるほどの旨味や深みはないのである。ボクがときどき使う「町中華以上高級中国料理店以下の中級中華」的なテイストで、値段相応という感じである。いや、なかなかのモンである、と思う。

 ちょっとスープの講釈を垂れようか。これが実は、淺草來々軒の、正統な‘後継店’を特定する貴重な話になるやも知れぬのだ。それは後述。

 麺は青竹打ち選択。当たり前である。復刻プロジェクトで機械打ちの麺など喰って堪るか! ってなもんである。実際の淺草來々軒では、來々軒三代目店主・尾崎一郎氏によれば「昭和五、六年あたりまでこのシナの手打ちでしたが、(中略)半手打ちになり、本当に全部が機械打ちになったのは、昭和十年頃じゃあなかったかと思いますよ」(注1。以下「*」)。なのだそうだ。流石に手打ち、もっちりしてこれは旨い麺である。

 具。これについても一郎氏は語っているのだ(*)。『来々軒のラーメンは昔からメンマと焼豚、それに刻みネギだけ。シンプルなもんです。本来、ラーメンはシンプルなものなんです』。で、ここで頂いた一杯は、そのとおりのモノ。もちろん焼豚は煮豚ではなく、食紅使用の吊るし。それより特筆すべきはメンマであるのだ。一郎氏はやはりこう語っている(*)。『来々軒では干筍を一週間くらいかけて水でもどして、柔らかくなったところで豚のバラ肉と一緒に、ザラメと醤油と化学調味料で銅の大鍋で三、四時間かけて煮てましたねェー』。今回の一杯も『台湾産の乾燥メンマを1週間かけて水で戻し』(注2)たそうであるから、手間はかけているのである。
 
 麺と具。これはもしかすると、創業当時の淺草來々軒のモノに近いかも知れない。しかし、ボクは、いままで調べてきた書籍等から、ボクの想像力を精一杯働かせて、こう結論づける。

 「きょう頂いたこのラーメンのスープは、創業当時の淺草來々軒のものとは、おそらくだが、まったくベツモノである」、と。
 

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 『スープは鶏ガラ、豚骨に野菜』と淺草來々三代目・尾崎一郎氏は話している(*)。今回は支那そばや 本店が調理を担当しているので、当然その店の味はある程度取り込まれているのだろうが、あくまで「復刻版」だから、材料にそれほどの差はあるまい。それよりボクが言いたいのは尾崎一郎氏が淺草來々軒の厨房に立ったのは昭和10年から(*)、ということにある。淺草來々軒の創業は明治43年もしくは44年のことだから、その時すでに25年ほどの年月が経っているのである。さて、その間、ずっと同じレシピでスープを作っていたのであろうか?


  さて、そのスープについての講釈であるが、伝承料理研究家の奥村彪生氏(注3)は、著書(注3)の中で、なぜかこう書いているのだ。

 『(淺草來々軒の)支那そばのスープは鶏や豚の骨からとり、醤油味をつけ、そばだしに似て』いたのである。したがい、今日いただいたモノとは全く違う。そして、このことは淺草來々軒の創業当時の味を今に伝える、まさに‘正統的後継店’がどこであるのかを教えてくれるかも知れないのである。

 さて。

『そばだしに似ていた』。

 なぜこの著者はこう書いたのか? 著書ではこう続ける。実に興味深い記述である。『中国風の麺条(注5)をなぜ支那そばと呼んだのでしょうか。そば粉をいっさい使わない小麦粉の麺条を中国風に肉のスープに泳がせて食べるやり方を支那そばというのは、スープは鰹節入りで、そのうえ味付けに醤油を使い、その味はそばだしのような感じだったのでそう命名したのでしょう』。

  そしてこの著者は、旭川の 旭川らぅめん青葉 本店(注6)で初めて食べた際、スープについては『こりゃそばだしだと即座に思』ったそうで、『飛騨高山の 豆天狗 本店(注7) や まさごそば (注8)のスープもそばだしそのもの』で、『このそばだし系のスープは東京の支那そばがルーツなのです』と書いている。つまり、そばだしに近いスープこそ、大正初期の淺草來々軒のスープなの・・・かも知れないのである。

さらに著者は同じ著書の中で、日清食品創業者・安藤百福氏との対談でこうも述べている。

 『本格的中国麺の作り方を書いた料理書は(中略)同年(注・大正15=1926年)素人ですが中国で二十年間暮した経験をもとに山田政平氏が著した「素人に出来る支那料理」です。ここではスープの取り方も書いています』。

 それではその「素人に出来る支那料理」(注9)からスープの取り方を見てみよう。

 実は、それらしいページは第八章湯菜(注・タンツァイ、スープ料理) に記載がある。魚、豚、鶏など、主材料別にまとめてあるが、ここでは「川湯魚片(チョアンタンユイビェン、魚の吸物)」をアレンジした「川鶏片(チョアンチービェン、鶏肉の吸物)」に書かれた材料を記す。

 鶏肉、椎茸、葱、片栗粉、醤油、鹽(注・塩)、味の素。

 注意、として『支那では香味料として二三滴の純胡麻油を落とす』のだが、日本人には一般的に喜ばれないとして、柚(ゆず)か木の芽などを用いるほうが良い、とも書かれている。また「魚丸(ユイワン、魚肉團子の吸物)」の項では、材料に「スープ」とあり、それがない場合は『必ず別に味の素なり鰹節なりで、汁を作ることが肝要です』と書かれている。

 面白いのは『支那から歸化(注・帰化)した日本の食品』の項の中で、「ケンチン(汁) は支那の 煎丁(チェンチン) であって、支那料理の日本化されたものであることに、一點(注・点)の疑ひもありません」とあることである。昔の僧侶が「肉抜きの煎丁を覚えて来て、それが各地に擴(注・広)がつたものでせう」と記している。多くの日本人が、けんちん汁を精進料理として知っているであろうが、この著者は「日本化してしまって誰も支那料理とは思わない」と書いている。

 この書はあくまで「素人に出来る支那料理」であるから、それほど凝った材料は用いないで書かれているのだろうが、にしてもシンプルである。出汁素材になりそうなのは、主材料を除けば椎茸、鰹節である。つまり、スープの旨味成分となるグルタミン酸、イノシン酸はそれぞれ椎茸、鰹節から取り、その補強として「味の素(グルタミン酸)」を入れている。ちなみにこの頃の料理本のレシピには、この味の素、が非常に多く使用されている。

 鰹節に椎茸。それに味の素。淺草來々軒開業当初のスープはこれらを用いて「そばだし」に似たものを基にして作られた、と考えられるのではないか。そして、その頃淺草來々軒にて勤務したある料理人が、そのレシピを地元に持ち帰り開業した店で(当初は屋台であったものの)、まさに「そばだし」的なスープでラーメンを提供したのではないか。その店からは昭和の初め、地理的に近い飛騨地方に伝わっていったのではないか。


 飛騨高山といえば・・・・「この店」から近い。

 だとするなら、明治末期に創業し、大正期に興隆を極めた淺草來々軒の正当な‘後継店’は?

 ある料理人が開いた、「この店」ではではなかろうか。ボクはほぼ確信的にそう思っているのだが、この年末(2020年12月末)、「ある店」に行って、その可能性の確度を高めて来たいと思っている。

(つづく。)

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 ※「この店」「ある店」とは、淺草來々軒に関りのあった(と思われる)下記のいずれかです。

■中国料理 進来軒 千葉・穴川。昭和43年創業。
■手打ち中華 トクちゃんらーめん 郡山。平成7年(業態変更により)創業。
■来来軒 東京・祐天寺。昭和8年創業と言われるが異論あり。
■たちばな家  東京・檜原村。昭和21年創業。
■大貫 本店 尼崎。大正元年創業。
■丸デブ 総本店 岐阜。大正6年創業。

以下は調査中ですが、無関係かと・・・。
■来々軒 弘前。中国から来た呉銘徳氏が大正末期から昭和初期に創業したと言われる。
■来々軒支店 前橋。昭和6年創業。「本店」所在地等は調査中。

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※淺草來々軒の表記は本来『來々軒』ですが、他の書籍の引用などで「来々軒」とある場合はそれによります。
(注1)「にっぽんラーメン物語 中華そばはいつどこで生まれたか」から抜粋。小菅桂子・著、駸々堂。1987年10月刊。単行本である。
(注2)ラーメン博物館公式サイトより。https://www.raumen.co.jp/shop/rairaiken.html
(注3)奥村彪生氏 略歴は此方を参照。
 農林水産省 https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1103/interview.html
(注4)奥村彪生氏の著書 「進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る」。安藤百 福・監修、フーディアム・コミニュケーション、1998年6月刊。のち、加筆の上改題。「麺の歴史 ラーメンはどこから来たか」。角川ソフィア文庫、2017年11月刊。
(注5)麺条 もしくは麺條。中国語で日本語における麺類を指す。
(注6)旭川らぅめん青葉  昭和22年、初代村山吉弥氏が屋台で創業。スープは豚骨、 鶏ガラの他に利尻昆布、鰹節、煮干し、各種野菜、だそうである。
(注7)豆天狗 昭和23年創業。
(注8)まさごそば 昭和13年、屋台で創業。高山ラーメン発祥の店と言われる。
(注(
(注9)「素人に出来る支那料理」 山田政平・著、婦人之友社、1926年1月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。



淺草來々軒 偉大なる『町中華』 【3】

2020年04月06日 | 來々軒

【昭和初期までの來々軒】
 明治43年に誕生したとされる來々軒だが、大正昭和初期の時代には、どんな店だったのだろうか。それまでの中華料理店と違い、大衆向けの、ラーメン専門あるいはラーメンに重きを置いたラーメン店だったのだろうか。

  來々軒二代目・尾崎新一氏の人物像に触れている本がある。「淺草経済学」である。ここで引用するには別の意図もあるのだが。
 『殊に(注・尾崎貫一氏の子)尾崎新一君が太つ腹で宣傳と言ふことには。金銭を度外視して、徹底的に断行したものである。だから震災直後と雖(いえど)も、昔賣りこんだ看板を益々光輝あらしめ、人氣の焦點となつてゐたものだつた。新一君は早稲田の商科出身で、頭腦もよし、商賣にひどく熱心でもあつかたから、将來愈々(いよいよ)發展の可能性を持つていたものだが、しかし、昭和の御代に這入ると間もなく、他界の人となつて終つた。全く惜しむべき人物の一人であつた』。

 このように、人柄にも触れ、既に亡くなったことなども書かれていることからして、この著者はおそらく新一氏に会っているのではと推測される。この本の内容についての信頼性・信ぴょう性を疑問視することもあるかも知れないが、少なくとも当時の浅草界隈の、支那料理店事情には精通していたのではないかと、私は考えている。

 さて、「ラーメン物語」ではいくつかの書籍から引用しそれを紹介しているが、そこには紹介されていない、次の記録がもっとも端的に大正時代の來々軒を表していると思う。1918(大正七)年に書かれた「三府及近郊名所名物案内」[59]の一節である。
『來來軒の支那料理は天下一品
 浅草公園程見世物でも飲食店でも多い處(ところ)は三府に言ふに及ばず、東洋随一澤(たく)山であろう その浅草公園での名物は支那料理で名高い來々軒である、電車仲町停留場から公園瓢箪池への近道で新畑町の角店だが、同じ支那料理でもよくあヽ繁昌したものだ、二階でも下でもいつも客が一杯で中々寄り付けない様で、此の繁昌するのを研究して見ると尤(もっと)もと思われる、客が入るとすぐとお茶としうまい、を出す そこで料理が、わんたんでも、そばでも頗(すこぶ)るおいしい その上に値が極めて安い 何しろ支那料理として開業されたのは此の店が東京で元祖であつて勉強する事は驚く様である 慥(たしか)に東京名物である事を保證する。』

  まさに大繁盛で、東京名物と保証する、とまで書かれている。これを読む限りは、シューマイなどを提供している東京の支那料理店の元祖、なのだが、先に書いたように、東京にはすでにいくつかの支那料理店があったし、後述するが千束にあった「中華樓」は來々軒創業以前に同じ品書きで営業していたのだ。著者が何をもって、此処で“元祖”としたのか分からない。ただ、來々軒は支那料理店であることは確かである。

次に1932(昭和七)年刊の「三都食べある記」[60]。これは「ラーメン物語」でも一部紹介[61]されている。
『一四、支那料理屋めぐり
  東京には有名な支那料理屋が、大きな支那料理屋が、堂々たる支那料理屋が、美味しい支那料理屋が、有餘(ありあま)るほどその店舗を構へて居た。「安くて美味しい支那料理」と云うことで、東京生活の大衆に、強く呼びかけて居ると共に、東京の味覺人も、「安くて美味しい支那料理」に、無条件に傾倒して居るらしかつた。
  北島町の偕樂園とか、日比谷の山水樓とか、虎ノ門の晩翠軒とか、麹町と神田と新宿の寶亭とか、芝の雅叙園とか、上野の翠松園とか、日本橋の濱のやとか、香蘭亭とか、牛込の陶々亭とか、銀座の上海亭とか、小石川の不二とか、浅草の五十番とか、來々軒とか、神田の第一中華樓とか、赤坂のもみぢとか、築地の芳蘭亭とか、ちょっと思ひ起したゞけでも、相當に知られた支那料理店は、十指に餘るほど存在して居た。(略)
一五、北京廣東上海の味
  支那料理の大衆的普及と云ふことでは、浅草の來々軒が、腰掛式の簡易な構へであり、安價専一であるだけに、それぞれ一般に呼びかける力が大きかつた。「支那料理は安くて美味く、腹一杯になる」と云ふことを、街頭に進出して宣傳したのは、來々軒の大きな業績であると共に、大きな成功であつた。
今、東京の各區や、場末や、隣接郊外地の賑やかな町で、狭くて小さい構へながらも、支那料理を看板にして居る店は、多く此の來々軒の系統らしかつた。(略)  堂々たる偕樂園、數奇を盡した雅叙園、脂粉の香の漂ふもみぢ、支那式の翠松園、民衆的の來々軒、日本風の陶々亭と云つた風に、その機構の上に異動を見せて居るのも。支那料理の奔放性の反映として、面白いことに眺められた。」

 來々軒は他の支那料理店とともに列記されているが、注目すべきは「安くて美味しく腹一杯になる」と支那料理を宣伝した來々軒の功績で、その結果「民衆的」な支那料理店は当時爆発的に増加し始めた、ということであろう。來々軒は、來々軒以降東京に誕生した支那料理店に相当な影響を与えたということが分かる。「ラーメン物語」では來々軒の繁盛振りを見て、同じ浅草で中華料理店を始めた人の話も記されている。ただしこの本には來々軒以前に創業した“支那そば専門店”「中華樓」(後述)のことが一切書かれていない。その理由は今となっては誰も解き明かすことは出来ないが。

 先ほど「爆発的に増加」と書いたが、関東大震災以降、浅草では一旦ブームは落ち着いたようである。しかし、「ラーメン物語」では、増加した証拠として『昭和三年四月には「支那製造卸組合」が発足している』と書き『それまでのようにそれぞれの店が自分のところで麺を製造していたのでは到底間に合わなくなり、急増した需要に応じるため専門の製麺業者が必要になり作られ組合までできたというわけである』と記している。

  「最新東京案内」では明治末期、支那料理店一覧の紹介は僅か三店に留まっている。三店、というのが正確ではないだろうが、それほど多くないことは容易に想像できる。しかし、昭和8年に編纂された浅草区史によれば[62]、『浅草区内関係重要物産同業準則組合(注・同業者の組織)』の中に『東京支那料理業 田島町[63]86 平井理 886人』の記載が見える。組合長もまた浅草の方であるが、明治末期に3店、昭和八年には886店というのは、かなりの増加の勢いではないか。

 参考まで。「三都食べある記」で記された支那料理店のうち、現存するのは雅叙園と「日比谷の山水樓」だけではなかろうか。
  雅叙園は都内に在住していればご存じであろう。芝浦で開業したのが1928(昭和3)年のこと。公式サイトから引用すれば『ホテル雅叙園東京の前身の目黒雅叙園のルーツは、創業者・細川力蔵[64]が、東京 芝浦にあった自宅を改築した純日本式料亭「芝浦雅叙園」。 創業当時は、日本料理に加えて北京料理メインとし、お客様に本物の味を提供することにとことんこだわった高級料亭』だった。『料理の味はもちろん、お客様に目でも楽しんでいただきたいと考え、芸術家たちに描かせた壁画や天井画、彫刻などで館内の装飾を施しました。豪華絢爛な東洋一の美術の殿堂はこうして誕生』し、その様は昭和の竜宮城とも称された。

「日比谷の山水樓」。日比谷にあった店はとうに閉めてしまっているが、現在、山梨の小淵沢にて営業している。店の餃子を販売している、過去に発行された店の案内によれば、広島県出身の宮田武義という人が、勤めていた外務省を辞めて、日比谷の山勘横丁(現在の有楽町一丁目8番あたり[65])に開いた広東料理店で、大正11年に広東に渡り料理人を連れ帰って開業した、とある。

  來々軒の記録を続けよう。1929(昭和4)年発行の「東京名物 食べある記」[66] 。來々軒は『淺草味覺極樂』のなかでこう記されている。
  『來々軒 區割整理を終わつて相不變(あいかわらず)未覺神経と嗅覺神経が交錯して混沌として押すなヽと来る客に混沌たる支那料理を食べさせてゐる』。ちなみに『五十番』は『少女給の無作法さを賣物と考へてゐるのは考へ物だ』と手厳しい。
  ちなみにこの本の中には「丸ビル丸菱食堂」の項に、「支那ランチは甲乙」があって、その構成は『シューマイ五個に肉団子七個、豚の肉切れ一個、青豆五個の汁椀、ごはんつき。まづ汁椀はスープの積りだそうだが評する価値はない」と書かれている。さらに『北京料理 晩翠軒 東京市芝區琴平町・・・』と、誌面一面全面を使って広告が出されている。昭和初期には東京のあちこちで中華料理を食べさせる店があったことの証である。
  しかし、この頃の本は、表現が良く分からない。混沌たる支那料理ってどんな味なのか? それに五十番や丸ビル食堂以外にもキツイ評価を結構している。今読む分には面白いとは思うが。
 また、喜劇俳優の古川ロッパ氏の食べある記「悲食記」[67]では『十二階があったころの浅草といえば震災前のこと(中略)。中学生だった僕は(中略)はじめて『來來軒』のチャーシュウウワンタンメン(叉焼雲吞麺)というのを喰って、ああ、なんたる美味だ、と驚嘆した』とある。

 もう一点、紹介しておこう。「大東京うまいもの食べある記 昭八年版」[68]である。『八 浅草公園界隈』の中で浅草界隈の中華料理店を紹介している。
  雷門付近、では「サリーレストラント、たしか元は ちんや食堂 といったところで、堂々たる構へで西洋料理、支那料理もあります」。 
仲店通り、では「支那料理新京 新築三階建ての堂々たる、この辺での高級支那料理屋」
  区役所通り以西六区まで では、「上海亭 銀座の支店で浅草でも相当古い存在になり、浅草でやや高級な支那料理を手軽に食べるには、ここらが一番相応しいので、相変わらず繁盛しております。定食一圓、一圓五十銭」。
  「支那料理 五十番」の名も見える。『安いとうまいとで、すっかり売り込みましたが』などとある。
  さて、来々軒。『寿司屋横丁の二つ目右側角店。支那蕎麦で売り込んだ古い店で五十番、上海亭のなかったころ、いや支那料理が今日のように普及せず、珍しかった自分から評判だった家(うち)です』とある。
  ほかに「赤い小田原提灯を軒に沢山吊るした支那料理 榮樂」、「六区池の端付近 弥生亭 西支料理」といった記載がある。
  このあたりまでは「ラーメン物語」でも一部引用されているが、最終ページに近い「補遺」の項目にこんな記載があった。非常に興味深い記載である。なお、補遺(ほい)とは補足、といった意味合いである。

『補遺 支那料理一瞥
大衆的な一品支那料理は日本橋八重洲口の珍満、それから浅草、上野の五十番、淺草日本館前の來々軒等はむしろ支那そばが有名ですが(略)』
これは「大衆的な一品料理は八重洲口の珍満が有名だ。上野・浅草の五十番と來々軒などは大衆一品料理もあるけれど、むしろ支那そばが知られている」というように解釈できる。

 
(『三府及近郊名所名物案内』に掲載された來々軒の広告)

【昭和初期にして「昔の面影がなくなった」?來々軒】
  來々軒を肯定的に表現するものばかりではない。1930(昭和5)年に書かれた「淺草底流記」[69]の中、これは「ベスト オブ ラーメン」にも一部記載があるのだが、「4・舌端をゆくもの 食ひ物屋」の項を見てみよう。この頃の浅草の様子を興味深く表現しているので、少々長くなるが引用してみる。

  『飲食店の多いことは、全市[70]を通じて淺草が第一位を占めてゐるが、まつたくどの小路を抜けて見ても、殆んど軒並飲食店である。そしてこれ等飲食店の新らしい傾向は、飲むこと食ふことが電光石火になつたことである。静かに食事を樂しむとか。氣分を味はふなどゝ言つた食ひ物屋は無くなつてしまつた。どこへ入つて見ても、みんな仕事のやうに、テキパキと箸を運んで、食ひ物を口の中へ投(ほう)り込んでゐる。飲食は、機械に油を差すこと以外を意味しないのである。これは一面に寂しいことではあるが、又一面に、淡い「氣分」の中に浸つてゐること容(ゆる)さない、そしてそんな人間を無くして行くところの「時代の動き」は、どうもこれを肯(うなづ)くより致し方がな
い』
『世を挙げて安にして直なるものに流れてゆく。(中略)多くの飲食店が皆簡單に腰を掛けて食べられる食堂を作る。一寸下駄を脱ぐのも億劫である。靴の紐を解くのは尚更のことだ。テンポ、テンポ、めまぐるしいテンポ。近代人の神経のキザミ。(中略)飲食店の著しい盛衰と變化(へんか)とは、明らかに高い代価を拂ったり、長く待たされることを喜ぶやうな種類の客の無くなつたことを雄弁に物語つてゐる。(中略)民衆は唯うまいといふ事の外に手輕と安價と迅速とを要求して止まない。そして味覺堕地獄。機械的に貪り食ふ、投り込む、詰め込むのである。
此の民衆の慌ただしい氣持に逆らはないやうに努めて行く店が繁昌するのである。來々軒より五十番へ、三角より須田町食堂へ、と繁昌の中心激しく移動しいてゐる』

  浅草の飲食店の多さ、そして人々は食事を楽しむというよりただ急いで口の中に入れている。それはその当時の時代の動きで、安直の方向へと流れていく。飲食店はその要求に応えようと、簡便な店にしようとし、そしてその客の気持ちに逆らわないようにしている店こそが繁昌する。だから來々軒より五十番へと客は流れていくのだ----まるで現代の我々ではないか。繁盛店の中心は今でいうファストフードのようである。

時代の流れに乗れない來々軒は客を奪われたのだ、と著者は書いた。そしてこう続ける。
  『支那料理「五十番」の猛烈な繁盛振りはどうだ。安くてうまい・こゝは何でも分量が多い。二階の座敷が好きだつたが、どうも此頃は扱ひが惡くなつた。ちとお値段は張るが、その點(てん)では筋向かひの「上海亭」の方がよろしい。「來々軒」は昔の繁盛をしのぶよすがもない。流行の犠牲、氣の毒である』。
  何とも、という感じである。創業して二十年、來々軒は昭和の初めにはもう「昔の繁盛ぶりは面影もない」とまで書かれている。これについて「ベスト オブ ラーメン」は『年長者が口をそろえて古き良き時代と懐かしむ昭和初期にして早くも、今日と同様の“流行→大衆化→味の堕落”の図式が見られるのだ』と書いている。後述する「淺草経済学」でもあるように、昭和の初めごろには、浅草の支那料理人気店は、來々軒から五十番へと移っていたようである。

  またこの頃は「簡易食堂」が全盛、とも書かれている。簡易食堂は『何れもシナビタがま口を握つて大威張りで入れる』、今でいう大衆食堂のようなものだろう。『公園劇場前の「須田町食堂。舊(注・旧)淺草公園入口の「三友軒」。帝京座並びの「巴バー」。仲見世横の「辰巳食堂。何れも同じタチの食堂である。西洋料理、支那料理、日本料理、鮨、何でも出来るのである』とあり、いわゆる何でもアリの食堂だったことが分かるし、当時、中華料理店のみならず、中華料理が広く庶民の口に入っていたことが窺える。

 もう一冊。また「淺草経済学」である。「(四)淺草に於ける支那料理店」、の項には次のような記述がある。
  まず、当時、『淺草に於ける支那料理店は、大小合わせて數什軒の多き達して』いた。そして代表的なものとして『淺草の支那料理中で、高級を標榜し、自らを第一流を以って任ずる店は、震災直後に出来た上海亭』だとする。さらに『新仲見世通りの五十番、上野公園前の五十番、それは何人もはつきり知るであらう。それ程、五十番は積極的で、賣名的に成功してゐる』のだ。さらに著者は浅草、上野に来た人が支那料理をたべようとすればまずは五十番が浮かぶ、と書いた。そして來々軒は『震災前來々軒が、恰(こう)もかうした力強さを持つてゐた。「淺草へ行けば來々軒だ」と朝出る時に既に心の準備を整へて来る者が數限りなくあつたものだ』と書かれている。ここでも來々軒は全盛期を過ぎたような書かれぶりである。ちなみに五十番は大正12年12月に開業したとある。來々軒より10年以上も後の開業であるが『其の淺い日にも拘わらず名實共に、人気の中心となり、如何なる日でも千人内外の客を入れてゐる』のだそうだ。

 さらに著者はこう続ける。『廣小路[71]の有田ドラツクの横町を這入つた處の右側にある「榮樂」』という店についてであるが、『「榮樂」は大衆的な支那料理屋で、どちらかと言ふと、支那そば屋式な家である。夜明かしの店ではないが、大衆的な支那そば式の家としては、公園劇場前に、東亭と言ふのがあり、ちんや横町を更らに横に曲ると、八州亭があり、昭和座横には三昭がある。が、しかし、此の種の家は、他にも無數にある。ちんやの洋食部が、支那料理を始めたのは昭和二年頃・・・』。

 ここでも注目したいのは、著者が「支那料理屋」と「支那そば屋式」(注・「屋式」ではなく「支那そば屋・式」)を区別して書いていることである。來々軒はあくまで「支那料理屋」なのだが、榮樂なる店は「支那そば屋・式な家(うち)」である。さらに大衆的な支那そば式の店として八州亭、三昭という店を挙げている。しかも支那そば屋・式の店は、他に無数にあるというのだ。流石に無数は言い過ぎだろうが、もし当時、來々軒が支那そばを大々的に売り出していて、支那そばのほかにシュウマイや饅頭、ワンタン以外を品書きに加えていなかったら、著者は來々軒を「支那そば屋・式」と書いていたろう。先に触れた「大東京うまいもの食べある記」の「補遺」も併せて読めば、來々軒は支那そば屋、ではなく支那料理屋であったことは確かである。來々軒は、残された写真の看板どおり、支那料理・広東料理を標榜する中華料理店であった。
 
【20世紀末から21世紀の來々軒】
 來々軒創業から70年、廃業からも10年以上経った1980年代。間もなく21世紀になろうとするこの頃、來々軒と、明治後期の浅草(東京)のラーメン事情はどのように表現されているのだろうか。20世紀末と21世紀に分けて簡単に見てみよう。

◆1974年刊「起源のナゾ」 『ラーメンが東京にお目見えしたのは大正時代で、冬の夜チャルメラを吹きながら屋台を引いて歩いた、当時のいわゆる支那そば屋がその始まりである』。

◆1982年刊(1967年刊)「中国伝来物語」[72] 『日本の中華ソバ屋のはしりは明治末期、浅草に開業した来々軒だそうで、当時、十銭から十五銭で"支那ソバ"として大いに受けた。』
 ここでは『だそうで』という表現を用いているので、とこからかの引用で書いたものだろう。

◆1988年刊「江戸のあじ東京の味」[73] “ラーメンのスープと具”の中『東京で初めてラーメンを売った店は、どこで、それはいつだったかは、はっきり分からない。ただし、中華料理店ではかならずラーメンを売っていたから、東京に最初に中華料理店ができたときが、東京での最初のラーメンの販売ということになるのだろう。
 東京の浅草が日本一の盛り場になったのは明治末の、日本が農業国から工業国になったときからだった。浅草に大衆的な中華料理―当時は支那料理と言いラーメンは支那ソバといった―を食べさせる店ができたのは明治末と推定できる。別に浅草の田原町のところから雷門の前を通る浅草寺寄りの片側に様々な立ち食いの店が出現した。(中略)洋食、餅菓子、ラーメン、ワンタンその他の軽い中華料理を売る店も夕刻から出店した。そのほか明治末期あたりから、夜になると屋台車を引いてラーメンとワンタンとシューマイを食べさせる屋台の支那ソバ屋もできた。』

◆1987年刊「ラーメン物語」 『東京のラーメンの史は明治四十三年、浅草公園に開店した中華料理屋「來々軒」なくしては語れない』。
『それまで一人名を馳せていた永和齋や偕楽園と違って、はじめから庶民相手のラーメン、ワンタン、焼売を売り物にした本当に下町の中国の一品料理店であった。それでいて調理場では、横浜の南京町から来た中国人のコックが大勢腕をふるい本場の味を看板にしていた。來々軒が開店するとその気安さと未知の味である本物の味にまず浅草っ子がとびついた』。
『来々軒はそうした(注・賑わいをみせる)人気急上昇の浅草にできた浅草で初めての中華料理屋であった』。

◆1989年刊「ベスト オブ ラーメン」 『豚骨でとつた南京そばのスープは塩味であつたといふ。だからエスニック・フードにとどまつてゐたのだ。日本人にも食べて貰ひたいのなら、古来慣れ親しんだ関東風の醤油味にして、獣臭さを消さなくてはならない。この考へに考へたアレンジが横浜人の支持を得たことに気を良くした彼らは、より広い市場を求めて東京へ進出する。そして〈明治も日露戦争を終わった頃から、東京の夜の町にはチャルメラの音が哀しく響きはじめた〉(平山蘆江『東京おぼえ帳』昭和二十七年・住吉書店)のであつた。時に明治三十八(1905)年。ラーメン八十年の歴史はここに始まつたのである』『すし屋横丁の「來々軒」は、東京ラーメンの元祖として、しばしば語り草になるほどの大繁盛店だった』

◆1991年刊「日本史総合辞典」 『シナそば (前略)東京では明治43(1910)に浅草公園に開業した「来来軒」が一番古い。創業時からシナチクも焼豚も入っていたというから今日のラーメンの原風景はすでに完成していたわけである。開店当初から来来軒では「ラーメン」と呼んでいる。もり、かけそばが3銭か4銭、しるこが10銭の頃、ラーメンは7銭だった(後略)』。

 これらが、当時來々軒を表したすべての本である、ということではないと思う。しかし、複数の本においてこのように、來々軒に関してただの一言も「日本最初のラーメン(専門)店」とは書かれてはいない。「江戸のあじ東京の味」では東京で初めてラーメンを売った店は分からない、としながら次の行で浅草のラーメン事情に言及する。著者の加太こうじ氏は、1918(大正7)年、浅草に産まれ、紙芝居の黄金バットの生みの親として知られる[74]。東京の下町文化を伝える作家である。この書が発刊された1988年当時、著者は來々軒の存在を知らなかったのか、それとも敢えて触れなかったのかはともかく、浅草がラーメンの町としても明治後期から栄えていたことを記している。

 「ベスト オブ ラーメン」では、別の項目で『チャルメラを吹く中華そば(支那そば)屋台が東京でさかんになったのは大正時代』としながら、日露戦争が終結した1905(明治38)年を「ラーメンの八十年の歴史が始まった」年、としている。
 「ラーメン物語」では、來々軒は東京でラーメン史に欠かせない存在としたが、一方で「一品料理店」「中華料理店」と紹介しているのだ。

 つまり、1980年代後半までは、來々軒は日本最初のラーメン(専門)店としては認識されてはいなかったのである。さらに言えば、後述する本も含めて、「ラーメン物語」発刊以前に來々軒の創業時期は“明治末期”としか書かれていないのだ。もちろん、このほかにも当時刊行されたラーメンの歴史に関する書籍はあるだろうし、そこには來々軒=最初のラーメン店という記述や1910年創業を示した根拠があるのかも知れない。しかし、この頃には來々軒=最初のラーメン店ということは認知されていない、というように考えるのが妥当ではないか。

【21世紀の來々軒】
 次に來々軒は21世紀になって、どのように表現されたのか見てみよう。來々軒を“日本初のラーメン店もしくはラーメン専門店”とした記述があるもの、または來々軒創業を1910年として2010年を“ラーメン(誕生)100年”などとするものは以下の通りである。

◆2008年刊「東京ノスタルジックラーメン」[75]  『「来々軒」は我が国初のラーメン専門店としてラーメン史にその名を刻む店。それまで高級だった中華料理店とは違い、ラーメンやワンタンなどを中心に揃えた庶民向けの店として大流行した。來々軒の支那ソバは醤油味で、塩味だったそれまでの「汁そば」を日本人が好む醤油味の「ラーメン」に変えた』

◆2009年刊「ラーメン発見伝 第26巻」[76] 『日本のラーメンの始まりはいつなのか? 諸説ありますけど、明治43年、東京は浅草に「来々軒」というお店が創業したこともって、それとする説が有力です』『「来々軒」は中華料理とは一線を画す、醤油味のラーメンを初めて出したと言われているからなんですよ』。

◆2010年刊「ラーメンがなくなる日」[77] 『諸説はあるものの、日本最初の店舗を構えたラーメン店とされている浅草の「来々軒」は、1910(明治43)年に尾崎貫一氏が浅草で創業しましたが、このときも横浜中華街の中国人12人を招いて開業しています。尾崎氏は塩味しかなかった「中華そば」に醤油味を加えて、チャーシューやメンマをのせるという今のラーメンの礎をつくっていきました。今年は2010年ですから1910年に尾崎氏がラーメンを開発してからちょうど100年ということになります』。

◆2011年刊「日本ラーメン秘史」[78] 『東京にラーメンが誕生して100年、來々軒がその始まりだ』とし、屋台ラーメンが主流であったのだが、『店舗を構えたラーメン専門店として來々軒』『1910年はラーメン元年、近代ラーメン文化の幕開けといっていいだろう』。

◆2014年刊「ラーメン最強うんちく」[79] 日本に最初のラーメン店が登場してから100年あまり』とし、折り込みの“年表で見るラーメンの勢力図”のなかで『東京に初のラーメン店・来々軒がオープン』。

◆2018年刊「中華料理進化論」 『1894年(明治27年)に日清戦争が起きると、日本にいる華僑が激減した。このため、日本人を含む一般客向けの中華料理店が増えるようになる。1910年(明治43年)には日本初のラーメン店と言われる東京・浅草の「来々軒」が創業。』

  「來々軒=日本初のラーメン専門店」と断定的に書いているもの、「・・・とされている」「・・・と言われている」とやや曖昧に表現している本、あるいは微妙に言い回しを変えている等、さまざまではある。
  このように、2000年代に入ると、來々軒=日本初のラーメン(専門)店」「ラーメン100周年」という記述が出始める。私が考えるに、おそらく1980年代と2001年以降の間に、つまり1990年代に、來々軒を表す、ある断定的な言葉が新たに生まれて、登場したばかりのインターネット[80]によって広がって行った、そしてそれが様々な書物にも使われ、今日「來々軒=日本最初のラーメン(専門)店」とされているのではないか。
 しかしながら、一方では、同時期に書かれながらも來々軒=日本最初のラーメン(専門)店という記述はせず、1910年に來々軒が誕生したという事実(?)を淡々と述べているものもあるのだ。

◆2002年刊「ラーメンの誕生」[81] 『浅草六区の来々軒 一九一〇(明治四三)になると、浅草公園に、大衆的な来々軒が開店し、シナそば・ワンタン・しゅうまいが売り出される。大衆シナそば屋の元祖と称し、店内は腰掛式の簡素なものであった。シナ食は安くて美味しく、腹一杯になると宣伝したという』『その浅草に、横浜の南京街から来た広東省の料理人が、日本人好みのめん料理の試作を繰り返す。そして、トンコツにトリガラを加えて、コクはあるが、あっさりしたスープを考案し、塩味から関東の濃口醤油の味にして、従来の刻みネギだけに、シナチク・チャーシュー・ネギを加える。』『そして、東京ラーメンのルーツになる「シナそば」を創作したのである』。

◆2009年刊「日本めん食文化の一三〇〇年」[82] 『日露戦争後東京には雨後のタケノコのごとく中国料理店ができる。その中に浅草の「來來軒」があった。中国大衆料理の「來來軒」が支那そばを売り出すのは明治四十三年(1910)のことである』。

◆2010年刊「夜食の文化誌」[83] 『そもそも浅草の飲食街が東京のラーメン普及の先進地区であったことはすでに知られる部分である。その嚆矢たる来々軒の開店(浅草公園)は一九一〇年のこと、あるルポルタージュを信頼するならば、同じ年の千束町ではすでに「支那料理屋」が十軒以上並び、中華料理の匂いに満ちていたという』。

◆2015年刊「ラーメンの語られざる歴史」 『最後の三つ目の起源物語(注・別項で記述する)の中心は、日本人が所有し営んでいた最初の中華料理店、〈来々軒〉の誕生だ。』『〈来々軒〉が作ったのは、一八八〇年代と一八九〇年代に南京町(現在の中華街)で出されていたネギだけの簡単な汁麺と違って、醤油ダレを使った汁そばで「支那そば」と呼ばれ、「叉焼」と「ナルト」(かまぼこ)、ゆでたほうれん草、海苔がのっていた――このすべての具が揃うと真正な東京ラーメンの典型になる。〈来々軒〉はすぐに安くてうまくて早い「支那そば」だけでなく、「焼売」や「ワンタン」(スープワンタン)などの、日本人の舌に合わせた中華料理で評判になった』。

◆2018年刊「ラーメンの歴史学」[84] 『一九一〇(明治四三)年、東京の浅草に「来々軒」という名の店が開店した。店では支那ソバのほか、ワンタンやシューマイを出し、これらは安くて一品で十分に満腹になった。店主の尾崎貫一は、五二歳で横浜税関を退職してこの店を開いたが、尾崎が横浜出身であることには大きな意味があった。横浜には外国人居留区があるので中国料理を食す機会があったはずだし、支那ソバの人気を目の当たりにしていただろう』。

 來々軒=日本最初のラーメン(専門)店とするもの、そうでないもの、2000年代に入ってもその捉え方はさまざまではある。しかし、共通するのは來々軒が、東京という都市にラーメンという新しい食べ物が広がっていく過程の中で、最も初期に象徴的な店としてその役割を果たしていたということだろう。それは、今まで記述して来たとおり、大正半ばから昭和の初期に書かれた本からも明らかだ。


[59] 「三府及近郊名所名物案内下巻」兒島新平・発行兼編纂、日本名所案内社。1918年8月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。
[60] 「三都食べある記」松崎天民・著。誠文堂、1932年9月刊。国立国会図書館デジタルコレクション
[61] 「ラーメン物語」では「二都食べある記」とあるが、「三都」の誤りと思われる。
[62] 「浅草区史 産業編」 浅草区史編纂委員会 1933(昭和8)年9月刊
[63] 田島町 現在の西浅草二丁目
[64] 細川力蔵 1889~1945、石川県出身。1928(昭和3)年、自邸を改装した高級料亭「芝浦雅叙園」を開業
[65] 山翠樓の創業地 餃子の過去の販売パンフレットによれば「日比谷の山勘横丁一画(現:日比谷パークビルの一画)」とある。
[66] 「東京名物 食べある記」 時事新報家庭部・編、正和堂書房 1929(昭和4)年12月刊。国立国会図書館デジタルコレクション
[67] 「非食記」 古川緑波・著、学風書院。「日本の百人全集」第3巻として1959年8月刊。
[68]「大東京うまいもの食べある記 昭八年版」白木正光・編、丸の内出版社 1933(昭和8)年4月刊。ただし、「コレクション・モダン都市文化 第1期 第13巻 グルメ案内記」近藤裕子編、ゆまに書房。2005年11月刊から。松崎天民「東京食べある記」(1931年刊、誠文堂)との合本。
[69] 「浅草底流記」 添田唖蟬坊・著、近代生活社。1930年10月刊。国立国会図書館デジタルコレクション。
[70] 全市 東京では1889(明治22)年から1943年(昭和18)まで東京府の中に東京市を置いていた。1930年当時の東京市内の区は浅草区、下谷区など15区で、1932年からは品川区などが加わり35区に編成された。
[71] 浅草の広小路 現在の雷門通り。
[72] 「中国伝来物語」寺尾善雄・著、河出書房新社、1982年2月刊。ただし秋田書店版が1967年に出版されている。
[73]「江戸のあじ東京の味」 加太こうじ・著、立風書房。1988年10月刊。
[74] 「黄金バットの生みの親」 NHK人×物×録 https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0016010435_00000
[75] 「東京ノスタルジックラーメン」山路力哉・著。幹書房、2008年6月刊。
[76] 「ラーメン発見伝 第26巻」久部縁郎・作、河合単・画、石神秀幸・協力、小学館。2009年10月刊。「ラーメン発見伝」はビックコミックスペリオール(月2回刊)1999年23号から2009年15号まで連載された。第26巻は最終巻である。
[77] 「ラーメンがなくなる日-新横浜ラーメン博物館館長が語る“ラーメンの未来”」 岩岡洋志・著、主婦の友社。2010年12月刊。
[78] 「日本ラーメン秘史」大崎裕史・著、日本経済新聞社、2011年10月刊。
[79] 「ラーメン最強うんちく」[1] 石神秀幸・著、普遊社。2014年7月刊。
[80] インターネットの普及 総務省の情報通信白書などによれば、1994年に日本で初めてダイヤルアップIP接続サービスが開始され、翌1995年にWindows95が発売、1996年には日本のインターネット人口普及率が3.3%になった。人口普及率は1997年9.2%、1998年に13.4%、1999年に21.4%、2000年には37.1%となった
[81] 「ラーメンの誕生」 岡田哲・著、ちくま新書。2002年1月刊。
[82] 「日本めん食文化の一三〇〇年」 奥村彪生・著、農山漁村文化協会。2009年9月刊。
[83] 「夜食の文化誌」西村大志・著、青弓社。2010年1月刊。
[84] 「ラーメンの歴史学 ホットな国民食からクールな世界食へ」 バラク・クシュナー(Barak Kushner)・著、幾島幸子・訳、明石書店。2018年6月刊。