不器用母娘の甲状腺記

甲状腺癌というのは、早期発見できれば、予後がよく知られているようですが、情報が少ない癌なので、情報源になれればと。

家族が『余命』を告知されること

2009-04-13 22:25:26 | 日記
首にちょっとした出来物ができて、
それを取れば治る(熱も下がる)と思っている母と、
甲状腺がんという現実のギャップ。

「がん」という病名よりも、
『余命』という言葉にインパクトがあり過ぎました。

すぐに、採血、レントゲンなどの検査が入って、
母のそばに付き添わなければいけないのですが、
涙が止まらなくて、
何度もトイレに行っては泣いて、
幸い?私のはアレルギーがある季節だったので、
「病院の中、アレルゲンがすごいみたい。
目が痒いやー。」で、母には涙をごまかしました。

病棟に上がって、
私が「入院の準備をしてまた明日来るよ。」と伝えると、
母は最高潮に具合が悪い中でも、
「まあ治ったら、温泉でも行こうよ。」と、
私を安心させるような事を言いました。
(今となっては覚えていないそうです。)

このA病院では、
がんと分かり次第、
即告知が方針らしく、
母の主治医にも、
「私が明日当直でいますので、
その時にご本人にも説明しましょう。」と、
早い告知を入院当日に勧められました。

この時の私には、
母が一番信用しているのは私なんだから、
という思いがあって、
「母には私が告知します。」とだけ医師に告げて、
病院を後にしました。

27年前、
告知が思いがけず、
末期がんの父親に伝わってしまい、
父の場合は大荒れに荒れました。
母を必要以上に責め立てたり、
暴力を振るったり、
一緒に死んでほしいと頼んだり。
精神が壊れている状態になりました。

まあ、その時のこともあるし、
母親の性格上、
発作的に何かしてしまう、
荒れることはないと思いましたが、
告知するには、
母親が安心して治療を受けられる要素
(お金の工面、私以外にも支えてくれる人材を確保するなど)を、
出来るだけ準備してから、言おうと思いました。

病院からの帰り道、
泣きながら私は何人かの友達に電話をかけました。
こういう時って、
本当に自分が友達だと思っている相手がすぐに分かります。

ただただ泣きながら、
私は明日もなんでもない顔で、
母に会いに行かなければならない、
『母は私が守らなければいけない』
そんな気持ちで、
病院から帰ったのです。

甲状腺癌発見まで

2009-04-03 05:14:48 | 日記
母は15~6年前から、
元々高血圧持ちだったので、
近所の町医者で降圧剤を処方してもらっていました。
4年前に、一度、尿管結石、腎盂腎炎で、
入院したこともありました。

父が亡くなってかたらというのは、
特に私をきちんと育てなければいけないという意識が合ったようで、
自分の身体を精神力だけで、乗り切っていたようなところがありました。

2008年4月頃でしょうか。
母が左首に異物(しこり)のようなものを感じると言い始めました。
母の場合は,痛みも飲み込みも食欲も異常がなかったし、
町医者の定期健診でも、貧血とは言われたようですが
エコーで喉のはれを確認する限りは異常はないと。

甲状腺とは、
喉仏(甲状軟骨)と胸骨との間で、気管を取り巻くようにある臓器を甲状腺といいます。甲状腺にできた癌を甲状腺癌といいます。甲状腺癌はその組織型で4つに分類されています。乳頭癌が最も多く、約85%を占めます。
  甲状腺癌は、比較的進行が遅く予後も良好と一般に知られていますが、それは大半を占める乳頭癌をさします。未分化癌や低分化癌は、極めて進行が速くまた治療に抵抗するため、場合によっては発見された時点で3ヶ月の命ということもあります。
(http://www.onh.go.jp/seisaku/cancer/kakusyu/koujyosen.html)から引用させていただきました。

7~8月頃から、
母はずっと清掃の仕事を続けていたのですが、
37℃~38℃の熱を頻繁によく出すようになりました。
仕事を休まざるを得ない日も多くなり、
相変わらず、町医者で、
「とにかく熱を下げてしまってほしい」と言い張り、
座薬を出してもらって朝一時的に仕事をして、
また夕方熱が上がる・・・
猛暑に負けて、水分が足りない夏で、余計に熱が上がるのかと、
点滴をしたり通ったりしていましたが、一向に改善されず・・・
その町医者では、MRIができないということで、
少し大きめの検診センターでMRIを取ることになりました。
(1週間後に甲状腺癌ということが、
町医者にはわかっていたはずなのですが、
私にも母にも直接の告知はありませんでした。
現に町医者の看護師さんが、
ほかの病院に・・・といってくださったようなので)

それと平行して、その町医者はあまり信用できなくなり、
もう少し大きなA病院へと、
あまりに熱が下がらないので、
かかったこともありました。
そこで、外科の先生に、
首の腫れものの組織(細胞針だったと思います)をとって調べましょう。となり、
それから1週間後、
町医者からもMRIの結果も、そこで借りてもっていたことで、
はっきりと「甲状腺癌」という病名が分かったのです。
そして、即入院。
まずは、母のいない場所で、
私にはっきりと、余命つきの診断が下されました。

はじめまして。がん家系???

2009-04-03 04:15:00 | 日記
まずは家族紹介から。
遊(むすめ)34歳です。いかず後家です(笑)
母明子67歳 現在、甲状腺癌の治療中←主役ですね
現在二人暮ししています。

ここから、少し、わが家の癌事情について、
書いてみたいと思います。
私も今現在のそれぞれの、
大腸癌、乳癌、胃癌などの治療情報をきちんと把握しているわけではないので、
甲状腺情報だけでいいよ、という方は飛ばしてくださいな。

まず、17年前に父親を肺癌で亡くしました。
ヘビーモーカーだったのと、
あと、大分呼吸が苦しくなるなどの自己症状が出ても
なかなか病院に行かなかった人なので、
発見されて一応開腹はしてみたのですが、
手の施しようがなかったのです。
母が年中体をさすっていたり、
痛み止めをするとか、暑いお風呂で体を温めるとか、
私はまだ小さかったので、看病ということができなかったのですが、
そんなことをして、耐えしのんでいたと記憶があります。
今は緩和ケアも重視される医療体制が確立してきたと思うので、
今だったら、
もう少し身体も心も楽にさせてあげられたのではないか、
という思いがあります。
(私にも母にも)

その後、母の実家に私と母が戻り、
母方の祖母と3人で生活していたのですが、
今から4年前、
母方の祖母が90歳で他界しました。
(胆石。胃癌。脳出血などなど)
胃癌発見→手術はおそらく祖母が70歳くらいのときではないでしょうか。
胃癌早期発見だったようで、
4分の3摘出しましたが、
時間の経過とともに食べられる量も増えてきていましたし、
胃はだいぶ再生するのだなぁという印象があります。
老人会の集まりにも積極的だったし、
胃癌の検診とともにお世話になっていた病院に、
ずっと定期的に通っていたのですが、
82歳を越えたころから、「息苦しい」ということで、
心臓の検査やらなにやらしたところ、
肺気腫が発見され、肺気腫は在宅酸素療法などがあるのですが、
そのどの治療も拒み、看護師さんにも家族にも薬を投げる始末(笑)
その検査入院のあたりから、
病院にいるということが分からないような、
認知症になってしまいました。
火の始末とかも危ないのに、息苦しいはずなのに、
タバコは吸ってましたけどね^^;
そして外に出るのは息苦しいので、
出かけられなくなってしまい、
どんどん内側にこもる一方になって、
まずます自分の置かれた状況が理解できないから、
認知症はすすむ→家族は祖母中心で普通の生活が営みづらい、
公共のサービスは受け入れたくない祖母の意思もあり、
デイサービスやホームヘルパーなどもうまく利用できず。
最終的には、施設に祖母を見ていただきました。
高齢なのと、可能性としては白血病が考えられるという医師の診断でしたが、
その検査をする体力もないし、
死因は肺炎となっていましたね。

そして、
3年ほど前、母方の兄が大腸癌を発病して、
2008年亡くなりました。

現在、母方の私の従姉妹も30代ですが、
乳がんで治療中です。

母の妹(60才)も乳がんの手術をしたばかりです。


なーんか、これは、初めて思ったことなんですが、
うちってどうやら、癌を受け取りやすい遺伝子でも入っているんでしょうかね。
母が癌になってみても、
お互いに実感がなかったくらいでしたし、
どういう根拠なのか、分からないのですが、
母には「私は絶対に癌にはならない」という自信があったようです。
おそらく私がなっても信じられないのではないかと、
なんとなく今は思っています。