首にちょっとした出来物ができて、
それを取れば治る(熱も下がる)と思っている母と、
甲状腺がんという現実のギャップ。
「がん」という病名よりも、
『余命』という言葉にインパクトがあり過ぎました。
すぐに、採血、レントゲンなどの検査が入って、
母のそばに付き添わなければいけないのですが、
涙が止まらなくて、
何度もトイレに行っては泣いて、
幸い?私のはアレルギーがある季節だったので、
「病院の中、アレルゲンがすごいみたい。
目が痒いやー。」で、母には涙をごまかしました。
病棟に上がって、
私が「入院の準備をしてまた明日来るよ。」と伝えると、
母は最高潮に具合が悪い中でも、
「まあ治ったら、温泉でも行こうよ。」と、
私を安心させるような事を言いました。
(今となっては覚えていないそうです。)
このA病院では、
がんと分かり次第、
即告知が方針らしく、
母の主治医にも、
「私が明日当直でいますので、
その時にご本人にも説明しましょう。」と、
早い告知を入院当日に勧められました。
この時の私には、
母が一番信用しているのは私なんだから、
という思いがあって、
「母には私が告知します。」とだけ医師に告げて、
病院を後にしました。
27年前、
告知が思いがけず、
末期がんの父親に伝わってしまい、
父の場合は大荒れに荒れました。
母を必要以上に責め立てたり、
暴力を振るったり、
一緒に死んでほしいと頼んだり。
精神が壊れている状態になりました。
まあ、その時のこともあるし、
母親の性格上、
発作的に何かしてしまう、
荒れることはないと思いましたが、
告知するには、
母親が安心して治療を受けられる要素
(お金の工面、私以外にも支えてくれる人材を確保するなど)を、
出来るだけ準備してから、言おうと思いました。
病院からの帰り道、
泣きながら私は何人かの友達に電話をかけました。
こういう時って、
本当に自分が友達だと思っている相手がすぐに分かります。
ただただ泣きながら、
私は明日もなんでもない顔で、
母に会いに行かなければならない、
『母は私が守らなければいけない』
そんな気持ちで、
病院から帰ったのです。
それを取れば治る(熱も下がる)と思っている母と、
甲状腺がんという現実のギャップ。
「がん」という病名よりも、
『余命』という言葉にインパクトがあり過ぎました。
すぐに、採血、レントゲンなどの検査が入って、
母のそばに付き添わなければいけないのですが、
涙が止まらなくて、
何度もトイレに行っては泣いて、
幸い?私のはアレルギーがある季節だったので、
「病院の中、アレルゲンがすごいみたい。
目が痒いやー。」で、母には涙をごまかしました。
病棟に上がって、
私が「入院の準備をしてまた明日来るよ。」と伝えると、
母は最高潮に具合が悪い中でも、
「まあ治ったら、温泉でも行こうよ。」と、
私を安心させるような事を言いました。
(今となっては覚えていないそうです。)
このA病院では、
がんと分かり次第、
即告知が方針らしく、
母の主治医にも、
「私が明日当直でいますので、
その時にご本人にも説明しましょう。」と、
早い告知を入院当日に勧められました。
この時の私には、
母が一番信用しているのは私なんだから、
という思いがあって、
「母には私が告知します。」とだけ医師に告げて、
病院を後にしました。
27年前、
告知が思いがけず、
末期がんの父親に伝わってしまい、
父の場合は大荒れに荒れました。
母を必要以上に責め立てたり、
暴力を振るったり、
一緒に死んでほしいと頼んだり。
精神が壊れている状態になりました。
まあ、その時のこともあるし、
母親の性格上、
発作的に何かしてしまう、
荒れることはないと思いましたが、
告知するには、
母親が安心して治療を受けられる要素
(お金の工面、私以外にも支えてくれる人材を確保するなど)を、
出来るだけ準備してから、言おうと思いました。
病院からの帰り道、
泣きながら私は何人かの友達に電話をかけました。
こういう時って、
本当に自分が友達だと思っている相手がすぐに分かります。
ただただ泣きながら、
私は明日もなんでもない顔で、
母に会いに行かなければならない、
『母は私が守らなければいけない』
そんな気持ちで、
病院から帰ったのです。
ちょっと最初の方なので、
悲観的な表現も多かったりしますが、
毎日、
何かしらの楽しい要素を見出しながら過ごしていってます。
コンさんの今日も良い一日でありますように。