新聞によると、8月6日、広島の第59回原爆忌式典での挨拶で、小泉首相は「(前略)人類史上唯一の被爆国であるわが国は、広島、長崎の悲劇を再び繰り返してはならないとの固い決意の下、今後とも、平和憲法を遵守するとともに非核三原則を堅持する(後略)」と述べたらしい。
何という白々しさ!
平和憲法に逆行する方向へ転がっている現実が見えないのだろうか?
それとも、「憲法9条」のネジ曲げなどは止めようと、改心したのだろうか?
そんな思いを抱いて、広島と長崎に原爆が落とされた間の日、20年目を迎えた朗読劇『この子たちの夏』を観賞した。
6人の女優(8月8日の出演者=岩本多代、大原ますみ、川口敦子、北村昌子、水原英子、山口果林)によって静かに、力強く語られる、木村光一・構成・演出のこの朗読劇に、声高な反戦アピールはない。しかし、私たち観客の心には「言葉による記憶の伝達」がしっかりと伝わってきた。「記録に残すのではなく記憶に…」という演出家の意図は成功したのだ。だからこそ、20年間も全国各地で上演され続けているのだろう。
勤労動員で本川土手で被爆し、322人全員が死亡した広島二中一年生の母親たちの手記。
同じく動員先の長崎三菱造船所で被爆した純心女子学園生徒の母親たちの手記。
そうか、戦時中は子供たちも夏休み返上で働かされていたのだ。今さら何を…!
いずれも、涙なくしては聴けない。でも、息子を、娘を惨たらしく殺された母親の痛恨の叫びのはずなのに、何故こんなに美しいのだろう。
それは、母と子の絆の美しさだと思い至る。
そんな親子の上に落とされた原爆とは何?
「長崎のキノコ雲を見た 私の生涯の記憶のために」の副題が付いた松永伍一の『叫び声』。
そして、峠三吉の『仮繃所帯にて』が被爆者の家族の手記とともに取り上げられ、詩人の、その研ぎ澄まされた迫力のある言葉で語られる。
せめて一年に一度だけでも、戦争体験のない世代の我々は、『この子たち』が遭遇した『夏』に思いを馳せ、現実を見つめ直す義務があると、気付かせてくれる公演であった。
(2004-8-8、有楽町朝日ホールにて、butler)
何という白々しさ!
平和憲法に逆行する方向へ転がっている現実が見えないのだろうか?
それとも、「憲法9条」のネジ曲げなどは止めようと、改心したのだろうか?
そんな思いを抱いて、広島と長崎に原爆が落とされた間の日、20年目を迎えた朗読劇『この子たちの夏』を観賞した。
6人の女優(8月8日の出演者=岩本多代、大原ますみ、川口敦子、北村昌子、水原英子、山口果林)によって静かに、力強く語られる、木村光一・構成・演出のこの朗読劇に、声高な反戦アピールはない。しかし、私たち観客の心には「言葉による記憶の伝達」がしっかりと伝わってきた。「記録に残すのではなく記憶に…」という演出家の意図は成功したのだ。だからこそ、20年間も全国各地で上演され続けているのだろう。
勤労動員で本川土手で被爆し、322人全員が死亡した広島二中一年生の母親たちの手記。
同じく動員先の長崎三菱造船所で被爆した純心女子学園生徒の母親たちの手記。
そうか、戦時中は子供たちも夏休み返上で働かされていたのだ。今さら何を…!
いずれも、涙なくしては聴けない。でも、息子を、娘を惨たらしく殺された母親の痛恨の叫びのはずなのに、何故こんなに美しいのだろう。
それは、母と子の絆の美しさだと思い至る。
そんな親子の上に落とされた原爆とは何?
「長崎のキノコ雲を見た 私の生涯の記憶のために」の副題が付いた松永伍一の『叫び声』。
そして、峠三吉の『仮繃所帯にて』が被爆者の家族の手記とともに取り上げられ、詩人の、その研ぎ澄まされた迫力のある言葉で語られる。
せめて一年に一度だけでも、戦争体験のない世代の我々は、『この子たち』が遭遇した『夏』に思いを馳せ、現実を見つめ直す義務があると、気付かせてくれる公演であった。
(2004-8-8、有楽町朝日ホールにて、butler)