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そもそも、行政府に法解釈の権限が法的な意味であるのだろうか

2020年02月14日 | 日記

すごく久しぶりに「長文を書きたくなった」ので、このブログを引っ張り出してみた。

最初はツイッターで連投をしようかなと思ったんだけど、字数が結構多くなりそうなんでやめとく。字数を合わせるだけのために推敲するのもダルいし。



(毎日新聞@mainichi)
安倍首相は、東京高検検事長の定年を半年延長した閣議決定は、法解釈を変更した結果だと答弁しました。
https://twitter.com/mainichi/status/1227909777067393024?s=20

(れいわ新選組🐾福岡組隊士🐶MMT太郎@MMT20191)
法解釈って勝手に変えていいのか?
https://twitter.com/MMT20191/status/1228058603631702016?s=20



こうやって、問題になってみると、そもそもの疑問が湧いてきた。冒頭の疑問。



「行政府に法解釈の権限はあるのか」

「それは法的なものなのか」



ちょっと考えてみたい。



とはいえ、僕は基礎法学の素養はあまりないし、いちいち調べたり勉強したり研究したりするのは面倒なので、適当に書き散らすだけだけど。

つか、それ以前に、この疑問への答えを与えてくれそうなのが、どの学問領域にあたるのかさえ、おぼろげに想像するしかできない。法哲学?憲法学?行政法学?政治学?行政学?

案外、ちゃんと考えた人、学者も含めてすごく少ないんじゃないかな?常識の範囲で「まあ、こんなところだろう」くらいの結論を出して終わってる想像しかない。

もちろん、僕が知らないだけの可能性が一番高いけど。少なくともよくは知らない人間が、少なくとも学術的な論文を書けるレベルまでは知らないまま、想像で補って書くだけの文章になる。僕がそういうのやったの、久しぶりだなあ。ちょっと前まで、そんなことばかりやってたけど。

その上で、「全く知らない人間が勝手なことを書く」ことに対しては、厳しく批判したりしたことも、少なからずあった。別に反省はしないけど。




多分、一般的な常識として、「行政府には法解釈をする権限がある」と考えられているだろう。

ある意味では当然だ。憲法で、三権のうち行政府は法を執行する機関だと規定されている。法を執行するなら、「法に何が書いてあるか」を考えなきゃいけない。


だから、今回、従前の取り扱いと矛盾する行政府の行為に対して、「従前と違うことをしているのはおかしい」という批判とセットにして、「法解釈を変えたこと」に対する批判しかされていないように見える。


しかし、「法的に法解釈をする権限がある」のなら、「法解釈を変える権限」だって、「法解釈をする権限」に含まれるはずではないのか。

今回の政府の「法解釈の変更」という表明に問題があるとすれば、それは、実は、「行政府には法解釈をする権限がある」という命題の時点で誤りだったと考えるべきなのではないのだろうか。

少なくとも、法の執行の権限が法的に存在することで、事実上、「法解釈に類似する振る舞い」が許されるだけで、実は、それは「法的な法解釈権限」とは似て非なるものだと考えるべきではないのか。

今回の政府の答弁は、それが曖昧にされてきたことを明るみに出したのではないかと思う。



法に基づいて権利義務の有無を裁定する機関である司法府に、「法を解釈する権限」が法的に存在することには、基本的には何の疑いも存在しない。

民主的意思の尊重を最重要視したフランス革命期には、「裁判官は法を述べる口である」なんて言説も存在したらしい。君主の暴政を力で排除したことの結果として、君主によって作られた裁判所の権限を縮小しようとしたのだろう。しかし、現在でも維持されている思想ではないと思われる。裁判するのに法解釈しないのは、やはりありえない。法律家が法解釈しないわけがない。

では、裁判所が、ある日突然、それまでの法解釈を変えて、今までは無罪だった被告人を有罪にしたら?債務は存在しないと判断していた被告に対して弁済を命じたら?

実は、裁判官はそういう判断をすることができる。やろうと思えば、そういう判決を書くことはできる。両当事者の言い分を聞いて比較して法と照らし合わせて、自己の良心に従い、その方が正当だと考えるなら。

ただし、法令の解釈に関する問題は上訴理由になる。従前の判例と矛盾する判断は、最高裁への上告理由になる。最高裁で判例変更をするためには、最高裁判事全員が参加する大法廷で判決しなければならない。

法を解釈する法的な権限がある。だから従来の法解釈を変えてもいい。ただし、それを最終決定にする上で、厳格な手続きを経なければならない。


「法解釈をする権限が法的に存在する」というのは、こういうことなんじゃないのか。



行政府が法解釈を変えることができるとするなら、今回まさにそうなっているように、直接には何の手続きもいらない。せいぜい、庁内で上司の決裁をとるみたいなものに毛の生えたような、内部的な手続きくらい。その上で、「次の選挙で政権与党が変わるかもしれない」とか、そんな間接的な手順しかない。

事後的に補足
その後、国会での野党議員の追及によって、
決裁の手続きすらとっていなかったことが判明した。


仮に、今までの解釈を変えて、直接個人の権利を侵害するなら、たとえば、今までは定年を延長されていたのに、退職させられる人間がいたなら、その人は訴訟を起こして法解釈の変更の不適正さを問うことができる。しかし、今回のように、直接的には法解釈変更で誰かに利する扱いをしたとき、誰も訴訟を起こして法的に是正する手段が生じえない。「その定年延長がなければ次にそのポストに就けたはずの人物」は、訴訟で自分の地位の確認を求める利益は肯定されるだろうか。難しいように思う。

そんな状態なら、「法解釈はできるけれど、解釈変更はできない」と説明するより、「そもそも法解釈をする権限など本当はない」と考えた方がいいんじゃないのか。



じゃあ、事実上とはいえ、法を執行する際に、法の内容を考えているのはどう考えるべきか。

今の暫定的な私見としては、「法の文言から国語的に導かれる意味内容を実行するだけ」とか、「立法府がその文言に込めた意味を実行するだけ」とかと考える他ないのではないかと思う。

つまり、行政府には、少なくとも法の意味内容の決定に関しては、右から左に流すだけの権限しかないのだと。法の意味内容を決めることができるのは、(民主的な委託に基づいて)その法律を作った立法府であり、解釈できるのは(法の専門家である)司法府だけであると。



法を定めるのが立法府であり、それに対して行政府の責任者たる内閣に法案提出権がある。そうである以上、法律の執行の仕方を変えたいのなら、法律を変えてくれと立法府にお願いするのが筋だ。現時点でも、その点の批判はされている。

そのことについて、「行政府には法の解釈権限があるが、変えたいなら法改正を立法府に求めるべき」ではなく、「行政府には法を解釈する権限などないのだ」と説明した方が、理屈が通っているように、僕には思える。