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国語教育試論

2020年04月02日 | 日記
 国語教育が上手く行っていないのではないかという声が言われて久しいし、リアルで出会う人間たちの中にまるで物事を考えられない者が多くいることや、そんなレベルの人間たちにまで発言の機会を与えるネット社会においてとんでもない喜劇が繰り返されていることなんかを見るにつけ、その声は僕も正しいと思ったりする。

 ふと思ったのだが。

 国語教育って、どうしても、良い文章、優れた文章、美しい文章、正確な文章、ときには格式の高い文章、格式はなくても中身のある文章、、、なんてものを選んで、子どもや若者に読ませようとする傾向が強いよね。

 みんなあ、こういう素晴らしいものをお手本にして、健やかに成長してね~、ってことなんだろうな。

 でも、それってどうなんだろう?

 

 だって、世の中、馬鹿の方が多いんだぜ?

 こんなことを言うと、「お前ごときがそんなことを言うか」とばかりに、僕の知性や見識の欠如を証明したくなる人間が生まれるかもしれないし、神ならぬ僕は、それへの反証に常に成功するわけではないが、少なくとも僕よりも馬鹿な人間が大量にいることは、客観的な事実だろう。僕を言い負かせる知性もまた多く存在したとしても、その事実とは両立する。


 少なくとも、馬鹿には、言葉遣いや論理の正確さを理解できないから馬鹿なのであって、その点だけでも「良い文章」の価値を理解する能力に欠ける。もしかしたら、情操で文章の美しさを「感じ取る」力はあるかも知れなくて、人間の可能性というものに希望を見出したくなるが、倫理が失われれば、結局は別の方向から内面の美しさは失われる。倫理を失った人間ほど得をするこの社会で、どこまで人の倫理に期待ができるだろうか。それ以上に、僕が人の可能性として期待すべきなのは、正しく論理的に考える訓練さえされれば、人は賢くなれるのだという点だと思っているが、論理を弄(もてあそ)び、「国語の試験とは筆者ではなく出題者の意図を見抜く訓練だ」などと嘯(うそぶ)くような、人の書いたものを読むことを本質や自己の内面と向き合う行為と捉えるのではない、ただ人を出し抜くための手段と考えてしまう、倫理に欠けた振る舞いが正当化されるこの社会では、その期待も萎(しぼ)んでしまう。それは辻褄を合わせるだけの論理であり、詭弁との境界が限りなく失われた、非本質的な国語学習でしかない。

 そんな世界で、あくまで人の善性に期待し、これから成長する人たちに「良いもの」を読ませる教育に、どれほどの力が宿るだろうか。

 そんな疑問を持つ人間がすでにいたからかどうか知らないが、最近、国語教育に「実用的な文章」を取り入れようという流れがあるようだ。論説文や小説とは異なるジャンルとして、企業の会議で回覧するような、僕の独断で言い切ってしまえば、簡潔をもって良しとする単調で無味乾燥な文章を、子どもを脱しかけた若者に読ませようということらしい。それはそれで意味などないと、僕は思う。語彙力や理解力を「テスト」するには適しているかもしれないが、それはあくまで能力判定であって、そんな風な、基本的に中身の深さのないもの、少なくとも人に面白いと思わせる契機が一切ないものを読んでも、人格や知性にとって何かを得られる機会になることはないだろう。それはもはや教育ではない。ただの人間の選別の手段だ。

 そこでは、「良いものを読ませたい」という呪いは解けているが、「悪いものは読ませたくない」という呪いには縛られているのではないか。だから「良くも悪くもないもの(結果的にそれが一番良いものになるという価値観の下で評価されるもの)」を読ませてしまうのではないか。

 ならいっそ、「悪いもの」を読ませてしまえばいいんじゃないか。

 

 昔、僕が塾講師をしていた頃、同僚の講師に、はっきり低学歴で、実は勉強もそんなにできないけれど、そのことへの反抗心から塾で働き出したという人物がいた。正直、大人から見れば胡散臭い人物だったが、チャーミングで、生徒たちには人気があった。

 その人物が、生徒から「国語はどうやって勉強すればいいのか」と尋ねられ、「筆者の考えの誤りを筆者に突きつけるつもりで読んでみろ」と答えていた。僕と、僕よりも勉強ができる別の講師は、それを聞いて、「そんな読み方じゃ内容を間違えちゃうんじゃないか」と話し合ったものだった。

 しかし、馬鹿にはその教えの方が合ってるのかもしれない。どうせ、良いと思って選ばれた教材の価値なんてわからないんだから。

 その教えの何がまずいかというと、一つには、本当は価値のあるものを価値のないものと勝手に決めつける振る舞いが、事実と合致していないことにある。ならば、本当に価値のないものを読ませて、どうしてそれに価値がないのかを考えさせる方が、倫理も論理も劣る者への「教育効果」がまだしも生じるんじゃないかと思うわけだ。

 なお、こんな風に人のことを馬鹿にしているお前の倫理はどうなんだ、という批判は、倫理の次元が異なるものなので、今は考えない。

 

 無駄な前置きがいつも通り長くなったが。

 ネットでそこらへんに転がってる、馬鹿同志の、または馬鹿が混じった不毛なやり取りを教材にして、何がダメか批判させてやるという国語教育はどうだろうか。

 世の中、実際は悪文の方が多いし、そういう悪文や、過不足に満ちた非論理的な会話の中に埋もれながら、仕事をしてお金をもらって生きていかなきゃいけない場合が圧倒的に多いのだから。周囲が頭のいい人ばかりの場所で働ける人間は、そうは多くない。

 なんてことを、あまりに馬鹿なことを言っていて、何が言いたいのか理解するのにかなりの時間を要するような出来の悪い文章なのに、なぜか「いいね」を現時点で600ももらっている糞リプを見て思った。

 

例題 次の文章をめぐるやりとりを読んで、議論している人物を一人または複数選び、その言わんとするところを要約した上で、その人物が何を誤っているかを明らかにしながら批判しなさい。

<文章>
杏と唐田のどちらが好きか質問が及んだ際、東出は数秒の沈黙後、杏とは答えず、「心の内をしゃべるのは妻を傷つけることになる」と発言。唐田に未練があるようにも受け取れた。東出の会見では、杏にとって事実と異なる発言が少なからずあったといい、「唐田と別れた」という言葉も信じられなくなったようだ。当初、杏は3人の子供のことを考えて、離婚を躊躇(ちゅうちょ)していたが、これらの出来事で完全に吹っ切れたようで、周囲にも明るく接している。
杏が離婚決意…別居中の東出昌大に不信感、子供のため躊躇も完全に吹っ切れた
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200401-00000506-sanspo-ent


大沢愛@ai_oosawa
杏が離婚決意。別居中の東出昌大に不信感、子供のため躊躇も完全に吹っ切れた、と。経験的には「子供のために」離婚を思い止まった母親に、その後も続く苦労の中で「アンタさえいなかったら別れてたよ」と言われることほど居たたまれないことはないです。「子供のために」の言い訳は最悪。自分の判断で。


さしみ@ningentteiina_0
返信先: @ai_oosawa
きちんと記事を読みましょう。杏さんが『子供のために』なんて言ってませんよ。勝手に勘違いして最悪と書くなんて失礼です。


すぁー@cp_ue_kir·
返信先:@ningentteiina_0 @ai_oosawa
きちんとツイートを読みましょう。ツイ主さんが『杏さんが『子供のために』なんて言った』なんて言ってませんよ。勝手に勘違いして失礼と書くなんて失礼です。主は「もし『子供のために』と離婚をせず生活した」場合の経験則からの内容であり、離婚したことは評価してるのでは?


ituki8787@ituki8787
·もし、なんて、不確定要素の言葉で言われても、何の説得力もないですが……実際に発言した人を例にあげるならまだしもと思うのです。