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槇原敬之 / Appreciation について思うこと

2016年04月03日 | 日記

こんなツイートが流れてきた。

おかげでこの数日、これに対する感想(かなりネガティブ)が溢れだしてくる。何か書きたいと思うのだが、140字で返信とかするのではとてもおっつかない。

なので、久しぶりに長文を書いてみようかなと思った。


G3104@大鳳51回目でキタ―――!! ‏@G3104 3月30日

なんかやけにRTされてるなwせっかくだからまた上げとくか。槙原敬之の感性は本物のロック魂に溢れてると俺は思う。反原発らに不安、恐怖を駆り立てられ発狂してた2011年当時、翻弄される世間に対して彼が冷静に疑問や注意をぶつけた歌がこれだ https://www.youtube.com/watch?v=qw5pu9gcAm0 …



槇原敬之 / Appreciation
http://j-lyric.net/artist/a0005ff/l025b9d.html



まず、この歌が原発事故から間もない頃に作られたという予備知識を度外視してこの歌詞を眺めたときでも、僕の中で拭いがたい違和感が生じる。本題に入る前の「例」からして、なんか違うと感じるのだ。


この歌は、「仕事場に毎日僕を運んでくれていた」通勤電車に対して、「感謝」をしようという言葉からはじまっている。

すなわち、電気を生みだしてくれたものを(「単純に」)悪く言っていいのか、と読むのが普通の読解だろう。


だが、ちょっと待て。

そもそも、「通勤電車」って、感謝の対象なのか?

狭い空間に押し込められ長時間の苦痛に耐えさせられるものというのが、一般的な感覚ではないのか。

いわば、労働者が、ただ命をつなぐためだけに得なければならない給料と引き換えに、自己の尊厳や人間性を奪われ続けている現実が、もっとも如実に表れているのが、通勤電車というものだ。

必ずしも自分の都合だけで受けなければならなくなった苦痛とはいえない、国とか社会とか他人の都合に組み込まれたゆえの時間だというのが、「痛勤電車」などの揶揄の言葉をみるまでもなく、一般的な認識だろう。

そんなものに対して、抵抗できない無力な人々が、何ゆえ、感謝だの承認だのアプリなんとかだのを向けなければならないのか。


むしろ、大量の電気を消費することを余儀なくされる生活を押し付けられた我々を苦しめる象徴的な存在ではないか。



そして、「大好きな人の顔を明るく照らしてくれたもの」として電気を捉える見方にも違和感しかない。

人工的な電気なんて、どんなに明るいものに見えても、太陽の光に比べれば10分の1以下の光の量しかない代物だ。

その程度のもので、「大好きな人」の本当の姿は見えているのか?むしろ、人工の光によって表面しか見えない事態に陥っているのではないのか。


少なくとも、僕なら、大好きな人の顔は、昼間の自然な光に照らされたときに見たいと思う。


たとえば、本当に大事な「夕飯の食卓」で、誕生日とかクリスマスとかそういうときに、明々と電灯をつけて食事しようと思うだろうか。

僕なら、ロウソクの淡い光だけで、大好きな人の顔を見ていたいと思う。



原発の恩恵もあって得られた状況、ふんだんに電気を使って「豊か」な生活を得ていた状況というのは、人工的で表面的な幸せに過ぎないのだと思う。

誰かに利用されすり減らされ、奪われ続けていた時間でしかないのではないのか。

「幸せ」で「豊か」だと思わされていただけじゃないのか。

そんなものを維持するために危険極まりない存在をフル稼働させていたという事態は、あれが爆発した瞬間に、反省をもって振りかえるべきものなのだ。


しかし、槙原は、そんなものに感謝して承認してアプリなんとかをしろ、原発の危険をごちゃごちゃ言う前にそこからはじめろ、てなことを言う。そのように読める。

悪いけど、通勤電車や人工の食卓をありがたがるあなたに、そんなことはいわれたくない。



結局のところ、たとえ彼が原発に賛成していなくても、原発爆発前に政府や電力会社なんかが言っていたことと、根っこの部分で同じことを彼は言ってしまっているのだ。

権力側が発電所やエネルギーに対して持ってほしいと考えているイメージそのままを描いてしまっている。

権力側にきわめて都合のいい発言をしてしまっている。


そんな彼のどこに「ロック魂」があるというのか。


道徳の教科書に出てくるような美辞麗句を並べたてる彼は、通常ならば、もっともロックンロールから遠い存在である。

もちろん、彼には言葉の意味通りの「前科」があり、また過去に報じられたところによると彼はセクシャルマイノリティであるらしい。そんな彼が道徳の教科書に載るならば、むしろロックンロールだといえないこともないのだが、あくまで表現されたものだけを鑑賞する上ではノイズな情報というべきだろう。

仮に「ロックンロール」を「批判精神を音楽に乗せる行為」と定義したとして、彼は何を批判したのか。

社会的権力によって尊厳や価値感を塗り潰された弱者を批判しているのではないのか。震災によってたまたま権力側に抵抗するきっかけを得たというだけで、間違っても強者ではない者たちを批判しているのではないのか。

結果的に、強者を弁護する言論になっているのではないのか。

そういうものをロックンロールとして扱うことは僕にはできないし、すべきでないと強く思う。



彼こそをロックだという感覚の人間からは、明確に反原発の意思を表明した斉藤和義のような人を批判するような言葉も聞かれた。僕が見たのはようつべのコメント欄だけれど。

出した結論や行為に対する賛否は別にしても、少なくとも、そのいずれの言動が「ロックンロール」といいうるのかは、本当なら、火を見るよりもファイアーだ。



槙原のこの歌の何が問題か、何が本当のロックと異なるかといえば、今日の事態の元凶ともいえるものに対する態度をちゃんと明確にしているかどうかという点だろう。

槙原は、少なくともこの作品の中で、原発への態度を明言はしていない。賛成しているわけではないことはほのめかされていても、むしろ「原発の肯定すべき側面」の主張さえ行っている。それも明らかに誤ったイメージで肯定してしまっている。

この歌を聞いて槙原を原発推進論者と「勘違い」する人間が続出しているという。なんて読解力のない人間たちなのかと嘆く声も多く聞かれた。しかし、こんな書きぶりでは、原発反対論者と断じることもできない。

むしろ、明らかに原発推進論者に力を与えてしまっている。実際、ようつべのコメント欄では、原発推進論者たちがこの歌を批判する者に対して向ける再反論であふれかえっている。少なくとも、この歌を支持する人間の多くは、電気が足りなくなるという権力側の言い分を真に受けて、原発廃止に積極的になれない者たちばかりだ。

民主主義において、いったん権力者側がはじめた事業については、消極的に態度を決めかねる人間の数は、事業推進にカウントされるのが常だ。そんな態度では、絶対に原発は止まらない。槙原や、この歌を支持して思考停止している人間は、原発再稼働に一票を入れているのと同じだ。

本気でその危険を受け入れて、それを国民全員の総意としようという手続きをちゃんと踏んだのであれば僕も文句をいわない。しかし、今のままではなし崩しに危険ばかり押しつけられることになる。



失ったものに感謝しろ。

一見、美しい正論である。

道徳の教科書に載せたくなるような人間たちも多いことだろう。


しかし、失ったものは、本当に大事なものだったのか?

なぜそれが失われたかといえば、そもそも無理なことを無理やり押し通し、結果的に多くの人々を不幸にしていたものだったからではなかったのか。

多大なエネルギーを生みはするが、人によっては結局のところ制御しきれず、しかも後始末の方法すら存在しないような、危険で厄介極まりない存在に頼ってまで作ろうとしたものだったから、大災害ではあったが日本の歴史上必ずしも珍しいわけではない大地震一つで崩壊寸前まで追い込まれたのだ。

絶対に必要なものだったのか。勢いだけで突っ走ってしまって、取り返しがどんどんつかなくなっているだけではないか。


そんなものの存在の肯定的な面を思い出し、一通り考えてからでなければ、次の一歩を踏み出せないものなのか?

そんな行いは、今まで我々を騙し続けてきた人間たちが、この期に及んでもまだ吐き続けようとする嘘を、結果的に後押しするための行為に他ならない。


無理を重ねながら人間性を歪めて、しかもそれを幸せと勘違いさせてきた存在を、隙あらば再稼働させようという勢力は、あれだけの大震災があってなお力を失わなかった。この歌が作られ時間がたった後には、さらに勢力を盛り返していった。そんな状況で、何が優先順位として先に来ると思うのか。

まずは原発を確実に止めなくて、この先にどんな危険があるかわからない。

それでも動かすことを認めるなら、明確に意思表示をしろと思う。言葉を濁して抽象的に一見美しい言葉を並べるのではなく、明確に自分がどっちなのかを言えと思う。

まして、賛否をぼかしたまま、とりあえず目に付いた不快な部分だけしか口にしない態度など、僕は許されるものではないと考えている。


もっと大切なものを失う」って何を失うの?

原発が再爆発して失う以上のものなの、それは?


一見美しいようなことを言いながら、実は対象がはっきりせず、結果的に非常にヤバいことを言っている。

それがこの歌だ。



と、こういうことを考えた後に、ふっと思った。

もしかしたら、これ、槙原の皮肉なのかな、と。

「通勤電車に感謝しろとか馬鹿なこと言ってるんだから、ここに書かれている内容が本音ではないことは明らかでしょ、読解力がないなあ」みたいな。

でも、残念ながらそれはないだろう。

本文の中に皮肉を思わせるような箇所は一切ないし、皮肉ソングなら、もう少し上手く真意を伝わるようにするものだ。

たとえば、皮肉ソングの金字塔として僕が真っ先に思いつくのは、聖飢魔IIの「EL DORADO」や、浜田省吾の「MONEY」であるが、前者では「これから歌うのは悪魔の囁きである」という前振りがあるし、後者では「いかに金を求めるようになったかという生い立ち」が丹念に歌われている。この歌が皮肉だとすれば非常に出来の良くないものということになる。




この歌に関しては、複雑怪奇な意味内容を読み込む解釈もあり(http://blogos.com/article/11485/forum/など)、抽象的な言い回しに終始している点で、わかりにくい面も多くあるのは確かである。

しかし、素直に文章を読む限り、
「電気が使い放題だった時代は幸せだった。そんな時代を享受していた自分のことを棚に上げて、特定の人間や存在に文句ばっかり言ってんじゃねえ。そんな態度だからこんな事態を招いたんだ」
といった内容の主張と解釈するのが通常だと思う。


その主張内容に対して、僕は根本的に誤っていると考える。

そんな時代が幸せだったのかは大いに疑問であるし、本当の危険性を必ずしも知らされず、ちゃんと意思決定に参加する機会を与えられるわけでもなく進められていた事業について、なぜ結果的に生じた事故の責任まで押し付けられなければならないのかと思うからだ。


しかも、その主張は、本当に責任を負うべき人間に対する追及をウヤムヤにすることすら目的にしてしまっている。

実際、現在に至るまで、原発に関してちゃんと責任追及がなされた形跡は皆無に近い(かろうじて検察審査会を通じた起訴が実現した程度か)。

これだけの大事件で、またその事件が起きた背景に様々な闇があることが明らかになっている事態において、責任追及をすべきではない(少なくとも後回しでよい)などと考えてしまう人間が一定数いる日本って一体どんな国なんだ。飼いならされ過ぎだろ。それが「通勤電車」に感謝してしまう感覚なのか。


それらの、現状で第一に考えなければならないことを勝手に保留して、「反対運動をする人間たちの態度」といった、出すべき結論とは必ずしも関係のない問題を一番に考えるべきものといった考え方をする人間に対しては、僕は軽蔑の感情を向けることにしている。

槙原やその支持者たちにどれほどの悪意があるかといえば、なお利権を貪ろうとする積極的推進者たちに比べればむしろ善良なのかもしれないが、誤った主張をしていることは間違いないし、それが大きな害を生じさせうることも確かなことである。