長文を書きたくなったときに置いておく場所

超長文用。500字のマストドン@boxingfan@mstdn.jp でも書けないようなやつはこちら

僕は、「自己評価が高い」という言葉が大嫌いだ

2016年07月30日 | 日記

「自己評価が低い人」という言い方がされることがある。自分の実力に自信がなく、引っ込み思案で、物事に消極的な人というイメージが浮かぶだろう。

それに対して、「自己評価が高い人」という言い方がされることもある。

「自己評価の低い人」が上のような意味ならば、理屈だけでいうなら、「高い人」の方は、「自信家で、何事にも積極的に取り組んでいる人」なんていうイメージになりそうである。


しかし、どういうわけか、あまりそういう風にはなっていない。

「自己評価が高い」というとき、「自分に自信がある」というよりは、「自分の実力を過信している人間」という悪口に使われていることがほとんどのようだ。内心の過信の問題なので、積極性も必ずしも問題にされない。


逆に、「君は自己評価が低い」というとき、根本にあるのは、対象の人に対する好意的な印象である。

積極性が不足していることについては多少の批判的要素も含まれうるが、少なくとも日本社会においては、積極性はあまり美点に数えられない。その上で、自己評価を低くしているという点に、謙譲の美徳を見出すのが日本文化ということになっている。


つまり、「低い」の方が褒め言葉であり、「高い」はそういう美徳を備えていない愚か者に向ける言葉とされているわけだ。


僕は、「自己評価」という言葉が大嫌いだし、その言葉を使う人間に対して(とくに「自己評価が高い」と他人を評する人間について)、すんごく嫌な気分になることが多い。



(ここから非常にクドイ話になるわけだが)


そもそも、「評価」って何だ?


その言葉を僕なりに定義すると、こうだ。


ある人の能力や、その能力に基づいて出された成果に対して、特定主体の採用した基準に基づいて、基準をクリアした項目の数や、基準点からの上下の距離を認定する行為


一番わかりやすいのが学校の成績だろう。

中間期末試験において、答案に正解を書けば丸をつけ、その丸の数を点数として計測する。その点数に基づいて、5段階とか10段階とか優良可とかとランク分けする。

授業態度みたいな付随的な基準が加えられることもあるけど、基本的には、学問的科学的な正解とその数が「基準」とされるわけだ。


つまり、「評価」というのは「事実認定」のことだ。


ある場面においては、存在するかしないかという「事実」の問題と、「そうであるべき」という当為を当てはめる「評価」の問題とを区別して論じる必要が生じはする。

しかし、評価が単純な事実の有無と異なるのは、前提に基準設定という当為の問題があるだけで、結局は、評価というのは、「所与の基準を満たしているかどうか」という事実の有無を認定する行為の集合体というべきである。


そして、多くの場合、少なくとも信用に足る「評価」において、その基準も基本的に客観的なものとして設定される。



それに対しては、「評価」というのは、単なる好き嫌いの問題だ、と考える人がいるかもしれない。


ある男性がハンサムだ、ある女性が美人だ、という「評価」をするとき、客観的な基準などあるものか、という考え方だろう。

評価なんてあくまで主観的なものなのだ、と。


たしかに、単純に好き嫌いを述べるだけなら、そもそも上の僕の定義にあてはまらないかもしれない。

しかし、少なくとも、「美人」のような「評価」をするとき、「自分にとって好ましい顔である」という、多分に主観的ではあるが、それなりの事実認定を行っているわけだ。

そして、その主観的な事実認定を各人がそれぞれ行うことで、「容ぼうを好ましいと思う人間の多い人」という形で、一定の客観性を得ることがありうる。その数のカウントは科学的な作業だ。

また、体つきに対する3サイズのように、顔の善し悪しについても、目の大きさだとか鼻の高さだとか、それなりに客観的な指標も設定しうる。「好みじゃないけど美人だよね」みたいな評価するときがあったりする。

美醜のようなものであっても、単純に好みの問題とすることはできない。


もちろん、たとえ集合体とはいえ、主観的な認定であることは間違いないので、礼儀の問題だけでなく、曖昧さがある点でも、美醜の「評価」は避けた方がいいし、ましてそれを何かの基準にして物事を決めることは出来る限り避けた方がいいといえるだろうが。


何にせよ、やはり、評価とは事実認定のことなのだ。



じゃあ、「評価が高い」「評価が低い」とはなんだ。

基準をクリアした項目の数が多かったり、基準を超えた程度が著しく大きい場合が「評価が高い」ということであり、「低い」のはその逆。

ただそれだけのことのはずだし、そうであるべきだ。


基本的に客観的に定められるものである。

たとえ基準が主観的であっても(そういう基準の是非はともかく)、基準が与えられているなら、認定は自動的に行われることになる。


客観的に定められるなら、他者が評価しようが自己が評価しようが、結果が変わるはずがない。


僕が大学受験のときに受けたセンター試験では、自分の点数を教えてくれないので、出願校を決めるのに「自己採点」をしなければならなかった。

マークシート方式の場合、基本的に誤差はマークミスの場合くらいなので、他者と自己の「評価」はほぼ完全に一致する。


それは極端に一致する場合であるとしても、あくまでも客観的な評価であるなら、どんな評価であっても、センター試験と大きな違いがあるようではいけない。


「自己評価」も「評価」の一種であるなら、自己採点と同じ意味になるはずだろう。



にもかかわらず、「自己評価が高い(低い)」と他人を評する人間が存在している。「お前が自分を評価するとき、それは他者からするものとは異なっているぞ」と突き付ける人間が多くいる。

そこでなされているのは、本来の「評価」ではない。

単に、謙譲的である人間を好み、自信家を嫌う感情論を述べているだけだ。または、謙譲的であれば高い点数をつけ、自信を持っているときには低い点数を付けるという主観的基準に基づいて、人格的態度を「評価」しているだけだ。

「評価」というものの本来の姿を捻じ曲げる行いといってよいだろう。

評価はあくまで事実認定に沿って行うものであるが、「自己評価が高い」などと人をけなす人間は、仕事なり勉強なりの成果や能力に対する事実認定は適当なところで切り上げてしまっている。それよりも、本人が他者からされた評価に対して示す態度の認定が最重要になってしまっているわけだから。



もちろん、人に対して「もう少し謙虚になれ」というときでも、大前提として、ちゃんと客観的な評価の存在を十分に尊重しているなら、問題が少ないとはいえる。

「客観的な評価ではCなのに、お前は自己採点で勝手にAにしているよ」と批判していること自体に、論理的な誤りは入りこまない。


ただ、いわゆる「自己評価の高い人間」というのは、なにも、期末テストで平均点を下回る点数しか取れなかったのに、5段階評価で5をつけないことを怒っている人間というわけではない。

まあ、もちろん中にはそういう人間もいるし、ネトウヨとか、ネトウヨをこじらせて大事件を起こすような人間なんかはそういう類かもしれないが、そういうのは少数の馬鹿だけだ。


自己評価が高い人間、すなわち他者の評価に対して文句をつける人間が言っているのは、次のようなことだ。


・事実認定が間違っている
 つまり、「テストの点数が低いのは、正解を書いたのに不正解にされたからだ」とか、「仕事の評価が低いのは売り上げた数字を間違えているからだ」といった主張。

・基準が合理的ではない
 「俺は20㎏の物を10個運んだのに、彼は1㎏の物を50個運んだだけだ。にもかかわらず、俺には10点しか入っておらず、彼には50点入っている。物理学において、仕事量は重さに距離をかけて導くとされているのに、考慮すべき要素を考慮せず、科学的根拠のない評価がなされている」

・つか、そもそも、そんなくだらないことで俺を評価するな、興味ない


何の根拠もなく他者の評価を批判するわけではない。

他者の事実認定に対する異議申立てをする行為が、「自己評価を高くする」という精神的動きといってよい。



ちなみに、「自己評価の低い」人間というのは、基本的に、能力や成果のクリアの有無を認定する際の基準が、単に高めに設定されているというだけで、別に論理的な対立があるわけではない場合が多い。

冒頭でも書いたように、「高い」「低い」という対義語が、全く対称的な姿をしていないわけである。


「低い」の方の人は、勝手にやってくれ。僕は君の謙虚さになど興味ないです。



「自己評価」も「評価」の一種なら、本来は基準設定に基づいた事実認定の話のはずである。まず、基準があって、それをクリアしているかどうか。

そのような評価に対して異議申立てがされたなら、申立てを否定するには、申立人の主張を根拠のないモノとして証明して、いわば正面から「棄却」をするのがスジというものである。


もちろん、異議申立てに対して、「お前に異議をさしはさむ資格はない」といわば「却下」することもありえないではない。

しかし、たとえば提起された訴訟を「却下」する場合というのは、本人が死んでるのに代理人が訴えてきたとか、利益もないのに単に嫌がらせのために訴えてきたとか、よっぽどの場合である。

たとえ社会的身分に差がある場合でも(上司と部下とか)、互いに相手の人格を認め合う関係であるなら、安易に却下して良い理由はない。


しかし、誰かに対して「自己評価が高い」と言う人間の中では、そんな話はどこかに行ってしまっている。

いわば、何の根拠もなく、なされた評価に対する異議申立てを「却下」する行為、それが「自己評価が高い」という言葉といえる。


下手したら、「俺の決めたことにに文句を言うな、俺が大事だと思うモノのためにお前は奉仕しろ、批判は許さない、逆らうお前はダメな人間だ」と言いたいだけだったりする。

「他人は自分のために利用されるだけの存在」といった考え方をする人間が好んで使う言葉が、「自己評価が高い」というものだといっても過言ではないかもしれない。


そこには、自分の認定に誤りがあるかもしれない、基準が客観的な合理性を備えていないかもしれない、相手にも十分な言い分があるかもしれない、という「謙虚さ」は存在しない。完全に上から目線である。

謙虚でない他人を批判する自分自身が、気付かぬうちに、全く謙虚でなくなっているのである。多少複雑な軌道を描いてはいるが、いわゆるブーメランという状態になっているわけだね。



そういう人間たちからすれば、僕なんぞは、典型的な「自己評価の高い」人間なのかもしれない。

僕からすれば、そもそも「自己評価」ってなんだ、ってところだ。


僕は、「自己評価が高い」という言葉が大嫌いだ。