【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

550年後、目覚めた英国王=22=

2016-01-12 12:33:32 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

王妃たちの夢 ◆◇

 12年前にランカスター家の皇太子エドワードが戦死し、そのあとにヘンリー6世がロンドン塔で殺害されると、ランカスター本家の男子直系は断絶してしまった。 そして、ランカスター家の最後の望みは、かつては庶子の家系とされて王位継承権は認められていなかったが、ランカスター家の血をひく男子であるヘンリー・テューダーにかけられたのだった。 ヨーク家の時代となったとき、かれは叔父のペンブルック伯とともにフランスで亡命生活を送っていた。

 しかし、かれの母親でランカスター家の血をひくマーガレット・ボーフォートは、イングランド国内にとどまっていた。 そして、ヘイスティングズ卿の処刑、エドワード5世の廃位とつづいたことでヨーク派やリチャード支持者のなかからもかれから離反してゆく者が相次いだとき、彼女は息子を王位につけるために、反リチャード勢力のあいだを取り持ち、打倒リチャード3世を画策したのである。

  マーガレットはヘンリー・スタフォード卿(バッキンガム公ハンフリー・スタフォードの息子)と3度目の結婚をする。 しかし、ヘンリー卿が亡くなった1471年後、マーガレットは1473年から1482年の間にトマス・スタンリー卿(前節参照)と4度目の結婚をしている。 トマス・スタンリーはその時々の権力者にうまく追従する傾向があり、この結婚時はヨーク派に属していた。 ランカスター派のマーガレットとヨーク派のトマスとの結婚は政略結婚だったといわれるわけである。 マーガレットは夫君とともにヨーク派の当主に就いているリチャード3世の宮廷に戻り、リチャード3世に息子を殺された前王妃のエリザベス・ウッドヴィルと密かに結び、その娘エリザベス・オブ・ヨークと息子ヘンリーを婚約させた。 これが後にヘンリーの王位継承権を強化することになった。

 ランカスター家を中核にする反リチャード勢力が1483年の秋に起こした反乱の作戦とは、次のようなものだった。 まず、バッキンガム公と、エドワード5世の異父兄のドーセット候トマス・グレイがウェールズで挙兵し、リチャードの国王軍をひきつける。 その間にロンドン近郊諸州の反リチャード勢力が蜂起し、ロンドン塔に攻め込んでドーセット候の母親でもある前王妃のエリザベスとその娘らを救出する。 これと同時にフランスに亡命中のヘンリー・テューダーがイングランドに上陸し、王権を奪取する――というものである。

 しかし、前節で概略を示したように、この作戦は成功しなかった。 その敗因としては、いくつかの点を指摘すれば、一つは、ウェールズ南部でのバッキンガム公の蜂起が失敗したこと。 もう一つは、作戦としてはよかったが、反乱軍は寄り合い所帯で、指揮・命令系統がよく組織されていなかったこと。 さらに、ロンドン近郊諸州での蜂起が期待したほどには広がらず、リチャード派のノーフォーク公ジョン・ハワードの軍によって簡単に鎮圧されてしまったことなどである。

 バッキンガム公の蜂起が失敗した原因も、いくつかある。 一つは、彼の軍隊がセヴァーン川の西岸で豪雨と洪水にあい、身動きがとれなかったこと。 もう一つは、かれの遠縁にあたるがリチャード派だったハンフリー・スタフォード・オヴ・グラフトンにセヴァーン川の橋を押さえられ、そこを渡れなかったこと。 そしてその間に、脱落者が続出したことなどである。

 バッキンガム公は、自領での挙兵に失敗したばかりでなく、家臣の裏切りにあって捕らえられてしまうありさまだった。 そして、かれは鎖につながれたソールズベリーまで連行されたあと、11月2日の万霊祭の日に、そこで処刑されたという。 ヘンリー・テューダーはというと、船団をひきいてプリマスの沖で上陸の機会をさぐっていたが、反乱が失敗したことを知ると、イングランドの地を踏むこともなく、むなしくフランスへもどって行ったのである。 結局この反乱は、寄り合い所帯で中心を欠いていたことと、準備不足のために失敗したのであろうが、リチャード派を終息させようとする勢力は潜伏していたのである。

  リンカンから急遽、イングランド南部にむかったリチャード3世は、反乱を鎮圧すると、数週間のあいだに南部、南西部の反リチャード勢力を一掃して行った。 これらの地方で反乱に加わった諸侯や騎士、郷士の数は100人以上にのぼったというが、かれらの多くは大陸へと逃れていった。 そのなかには、かつてはヨーク家に忠誠を誓った者もいたという。 リチャードは反乱を押さえたとはいうものの、南部での支持者を一挙に失っていたのである。 リチャードは、反乱に加わった者たちの領地を没収すると、それを、北から来たリチャードの支持者たち分けあたえた。 皮肉にも、南部の反リチャード勢力がもっとも警戒していたことが、現実のものとなってしまったのである。

 

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森のなかえ

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