○◎ モンゴルのルーシ侵攻 ◎○
★= 「タタールのくびき」からの脱却 ③ =★
1359年より始まるイヴァン1世の孫のドミートリー(ドミートリー・ドンスコイ)の時代、モスクワ大公国は試練をむかえた。 のちに英雄視されるドミートリーは善良で知られるトヴェリ公ミハイル・アレクサンドロヴィチをモスクワに招き、牢に投じて服従を強要した。 それに対し、かろうじてトヴェリに帰還したミハイルは、妹の夫でリトアニア大公国の大公オリゲルド(アルギルダス)と盟約を結んでモスクワを攻めようとした。 元来、ミハイル・アレクサンドロヴィチはその善良さが時の大公にして叔父であったヴァシーリーの妬みを買い、両者は不和に陥るが後に和解していた(1363年)。 1364年にはペストで死去した従兄弟のセミョンから彼の領地を寄贈される。 このようにしてミハイルの強大化は、大公ヴァシーリーとの再度の関係悪化を招く。 ヴァシーリーは時のモスクワ大公・ドミートリーに支援を求める。 他方ミハイルはリトアニア大公国に支持を求めていたのである。
1366年には、ミハイルのリトアニア滞在中に、ミハイル支持に動いたトヴェリ市民を大公ヴァシーリーとエレメイが鎮定しようとするが、これは失敗におわる。 リトアニアの支援を受けたミハイル麾下の軍勢はトヴェリを解放し、エレメイと大公ヴァシーリーの妃を捕らえ、ヴァシーリーの本拠地カシンに接近する。 ここで和平が結ばれ、同時にミハイルはモスクワのドミートリー大公、そしてエレメイとも和平を締結する。 しかし、納得のいかないエレメイは、1367年にモスクワに逃亡し、大公ドミートリーに支援を求める。
この機を逃さず、モスクワ大公国・ドミートリー大公はエレメイの庇護を宣言した。 トヴェリ公ミハイルは府主教アレクシーの言葉を信じ、仲裁裁判のためにモスクワに行くが、これを大公ドミートリーが逮捕、投獄したのである。 しかし、この裏切り行為に関してはタタール(ジュチ・ウルス)からも抗議を受け、ドミートリーはミハイルの釈放を余儀なくされ、両者は和解する。 そして、1368年にはトヴェリ大公ヴァシーリーが死去し、ミハイルはトヴェリ大公になり権勢は拡大する一方であった。 当時、同盟を結ぶリトアニアはキエフやスモレンクスも領土に加えた大国となっていた。 トヴェリ大公となったミハイルは、即位の1368年、そして1370年、1372年と3度にわたってモスクワを攻めたが、いずれも不首尾に終わる。
この対立には、依然としてキプチャク・ハン国(ジュチ・ウルス/タタール勢力)の介入が双方から求められた。 トヴェリ大公ミハイルとモスクワ大公ドミートリーは、交互にウラジーミル大公位に就任することを認められたが、双方ともこれを名分として相手を蹴落とそうとしたのである。 モスクワのドミートリーはトヴェリに大軍を送り、それに抗することの出来ないミハイルはリトアニアに逃亡する。 当時のリトアニア大公アルギルタスは、途中スモレンクス及びブリャンスク軍を加え、ミハイルと共にモスクワに向かい、11月にトロスナ川でドミトリイの前衛部隊を壊滅させ、モスクワに接近、これを包囲する。 大公ドミートリーはクレムリンに立て籠もり、結局三日間の包囲に耐えきった。 モスクワ近郊は、タタールの蹂躙以上に荒らされる。 最終的に両者は和解し、ここでやっと、ミハイルの従兄弟セミョンの遺贈が確定するのである。 大公ドミートリーは、その後、裏切りを名目にスモレンスクとブリャンスクを攻めることになる。
しかしミハイルは、モスクワとの主導権争いがまだ続くことを予見し、1370年にトヴェリの町の外壁を強化する。まさに予想通り、同年、モスクワのドミートリーは和約を破棄して軍をトヴェリに送った。 だがミハイルは三度 リトアニアに逃亡、トヴェリはモスクワ軍により荒廃させられることになる。 当時、リトアニア大公アルギルダスはドイツ騎士団との戦いに忙殺されており、トヴェリ支援に向かうことが出来なかった。 ミハイルは、ここで、ハン国(ジュチ・ウルス)に援助を求めることにした。 当時キプチャク・ハン国(ジュチ・ウルス)実権を握っていたママイは、分割して統治するというルーシ支配の大原則に則り、ミハイルにウラジーミル大公のヤルルィク(統治権)を与える。 モスクワ大公ドミートリーはミハイルを捕らえるよう命じるが、ミハイルは追っ手の手を逃れ、再度アルギルダスの支援を求め、リトアニアに行く。
11月に大公アルギルダスと弟ケイスタス麾下の大軍はヴォロコラムスク近郊(モスクワ北西130km)を荒廃させた後、モスクワを包囲する。 一週間の包囲の後、最終的に、リトアニア大公アルギルダスとモスクワ大公ドミートリーは和約を締結する。 その結果、ミハイルはウラジーミル大公の座から降りることを余儀なくされた上に、 トヴェリ公ミハイルはモスクワ大公の優位を認め、タタール軍と戦闘状態に入ったときには共同作戦をおこなうことで合意した。 こうしてルーシは結束してタタール軍に対するという方向がようやく見えてきたのである。
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森のなかえ
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