【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールの軛( 追稿 )= 09 =

2015-11-09 12:19:28 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

 ★= 「タタールのくびき」からの脱却 ④ =★

 1380年、ドン川流域で戦闘が起こり、ドミートリー率いるモスクワ大公国軍は、ママイ率いるジョチ・ウルス系政権(ママイ・オルダ)およびリトアニアなどの連合軍を破り、「タタールのくびき」からの脱却の第一歩を踏み出した。これが史上名高い「クリコヴォの戦い」であり、ドミートリーが「ドンスコイ(ドン川の)」と敬称されるのも、この事績にもとづいている。 この戦いでモスクワの権威は高まったが、ジョチ・ウルスを再統一したトクタミシュの攻撃によってドミートリー・ドンスコイは再度ジョチ・ウルスに臣従した。 モスクワ大公国がジョチ・ウルスへの貢納をやめるのは、1480年のウグラ河畔の対峙イヴァン3世が大オルダのアフマド・ハンの軍勢をウクラ川から撤退させて以後のことであった。 そこで、歴史の転換点になった“クリコヴォの戦い”の経緯からルーシ諸侯が“タタールの軛”から脱却し、ツアリーの権威がこの地を支配して行く史跡を俯瞰しよう。

 モスクワ大公国のドミートリー大公は、増税を要求するジュチ・ウルスに対し公然と反旗を翻し、1378年にリヤザン公国北部のヴォジャ河畔の戦いでタタール(蒙古軍)の軍を破ったが、1380年にはジョチ・ウルスの事実上の支配者ママイ自身の率いる大軍と再び戦わなければならなくなった。 ヴォジャ河畔での敗戦を知ったママイは、モスクワ大公国を討つべく、より綿密な軍事的・外交的準備を進めた。 自らの軍をイタリアのジェノヴァ共和国からの傭兵・チェルケス人およびヤス人(ハンガリーの少数民族)の兵で補強し、リトアニア大公国とリャザン公国に対しては、両国と同盟関係を結んだのである。 ロシアにおける覇権を相互に争い、モスクワにとってライヴァル中のライヴァルであったリトアニア大公国のヨガイラは一も二もなくこの申し出に乗り、ママイと同盟した。

 しかし、リャザン公国の立場は微妙なものであった。 1373年と1377年の2度にわたり、タタール軍の侵入を受けて荒廃していたリャザン公国は、ママイ軍とモスクワ軍双方の進路にあたり、戦場になることが予想されるため、どちらに味方しても難しい立場に置かれることは明白であったからである。 かといっても、中立を貫くのも不可能な状況にあった。 苦しい立場にあるリャザン公オレーク・イヴァノヴィチは、結局、モスクワ打倒が成った際には、ママイの従臣として、ルーシの地をヤガイロと二分して統治するというタタール側の条件にひかれて、基本的にママイ軍に加担するものの、モスクワのドミートリーに対しても友好的な態度を保持しようと努めた。

 1380年9月8日、モスクワのドミートリー大公が率いるルーシ諸侯連合軍は、ママイとそれに同盟したリトアニア大公国とルーシ諸侯連合軍とがドン川近くのクリコヴァ平原で戦闘状態に入った。 ドミートリー率いるルーシ軍はドン川を渡って背水の陣をしき、双方が数万ないし十数万ともいわれる大軍がぶつかり合う激しい会戦となった。 戦闘は終日つづき、モスクワ側が最後に温存していた伏兵部隊を投入し、かろうじて勝利を勝ち取る。 これがクリコヴォの戦いである。

 軍事的・外交的に周到な準備をほどこしたジョチ・ウルスの武将ママイは、モスクワ大公ドミートリーに使者を送り、ママイ政権の従臣になること、また、ウズベク・ハンの時代にウラジミール大公がジョチ・ウルスに納めていたのと同等の貢税の実施を求めた。 これは、実質的にママイの対ドミートリー最後通牒に等しかった。 ドミートリーはこの要求をすぐに拒否はせず、しかし、ママイ軍の接近の報せを聞くと、戦端を開くことを決心して諸公に軍勢の動員を促した。 ルーシ諸公の軍は1380年8月15日を期日として、モスクワ川とオカ川が合流するコロムナに終結することを約していた。

 モスクワ大公国側は、ママイ軍、リトアニア大公ヤガイロの軍、リャザン公オレークの軍が集結するとみられるオカ川を越え、さらに南方に進出してママイ軍を迎撃する計画を立てた。 ドミートリー率いるルーシ連合軍は9月8日にドン川を渡り、その支流ネプリャドヴァ川の右岸、クリコヴォ平原に陣を布いた。 クリコヴォ平原は、リャザンの領域にあり、その背後をドン川とネプリャドヴァ川が流れ、これはまさに背水の陣であった。 この布陣は、ドミートリーの不退転の決意をあらわすとともに、戦術としては、タタール(蒙古軍)の騎兵が迂回してルーシ軍の背後や側面から奇襲をかけることを難しくしていた。

 ルーシ連合軍は、騎兵からなる前哨部隊と歩兵からなる先遣部隊が前衛を構成し、その後方に右翼部隊、主力部隊、左翼部隊が配備された。なお、この三部隊は、両翼の騎兵が中央の歩兵を取り囲むかたちに配された。さらに、その後詰めとして予備部隊と騎兵からなる伏兵部隊が配置された。一方のママイ軍は、軽騎兵からなる先遣部隊、ジェノヴァ傭兵を含む歩兵中心の中央部隊、そして騎兵からなる右翼部隊と左翼部隊が並ぶという布陣を採用した。 戦闘に先立って、当時の慣行で両軍から勇士が選抜され、一騎打ちをおこなった。 ロシア側は到聖三者聖セルギイ大聖堂院の修道士アレクサンドル・ペレスヴェート、ママイ側はタタールの武将チェルベイであった。 双方相打ちで倒れ、戦端がひらかれた。

 

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