【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

チンギス統原理 【12】

2011-02-09 20:37:15 | 史蹟彷徨・紀行随筆
 ジュチ家の系図《二》

 
 蒙古軍が東欧に進撃するの目標は ジュチ家の所領西方の諸部族、アス・ブルガル・キプチャク(クマン)を征圧することが主ではない。 ルースを殲滅し、カフカスを落とし、ポーランド・ハンガリーに進撃し、更に ドナウ河の西 ドイツ・フランスまで攻略して人頭税を取ることであった。 当時 キエフに居城を構えるキエフ大公国はルース(ロシア)諸国・諸部族の盟主であった。 モスクワは小さな砦に過ぎなかった。 キエフ大公国はスェーデン系の侵略国家である。 十一世紀頃から内紛で分裂の兆しが見え、十二世紀には首都・キエフは荒廃し ドニエブル河流域に及ぼす権勢は衰えていた。 しかし、 ルーシ地域の諸侯を支配し、ウラル山脈を中心に勢力を持つヴォルガ・ブルガール人 また カスピ海北東部のアラン人やキプチャクのクマン人と友好関係を維持していた。 キエフ大公国の北東にラップ人のスーズーダリ大公国、南西にはハールィチ・ウルィーニ大公国が覇を誇示していた。 東欧侵略に関する諸種の情報はモンゴル入手していた。
 1236年 二月 ヴォルガ・ブルガル人を制圧するたねに、スブテイ将軍がウラル山脈南麓のブルガル市攻略に北上した。 ブルガル首長・バヤ、ジグらは抵抗空しく、服属した。 1227年に従属したキプチャクのクマン人は有力首長・パチュマンに率いられ、カスピ海西北辺のアス人の首長・カチャル・オグラと同盟し抗戦に転じていた。 モンゴル軍団・左翼軍のモンケはカスピ海沿岸を進撃し、キプチャク草原全体を囲い込む作戦を展開した。 この戦術で 左翼軍・モンケはパチョマン・カチャルを捕殺した。 この年 蒙古軍はカスピ海北岸域で夏営している。 カスピ海からカフカス北方までの地域にはブルタス族、チュルケス族、サクスィーン人(アストラハン周辺)などが居住していた。 が、これらの諸族はこの夏までに帰順・征服された。 後背の憂いを全てなくしたモンゴル軍は 1237年秋 ルーシ方面に侵攻する。 12月下旬にはリャザン、コロムナが攻略され、翌年2月 ウラジミール大公国の征圧・攻略の成功、そして ルーシ北部諸国の多くが征服された。 また 自ら帰順する諸国もあった。 しかし コロナム包囲戦でチンギス・カーンの庶子・コルゲンが戦死した。 その後、遠征軍は南に転進し コゼリスクを陥落させる。 カフカスの北部方面に一時の撤退で諸軍を休ませている余裕すらあった。 1238年から翌39年にかけては、カフカス北部域を侵攻して カフカス北部地帯の諸部族を征圧している。 が、モンゴル軍団内部は齟齬をかんでいる。 論功行賞にてつき、皇子軍のバトゥとグユク・モンケで激しく対立してしまったのです。 オコデイ・ハーンはこの報に接するや、激怒してグユク・モンケに帰還命令を出ています。 1239年秋 両皇子はモンゴル本土へ出立つしています。 1240年初春 ルーシ南部に進撃するや、キエフを包囲して同地を攻略・破壊した。 当時 キエフは大公位を巡り ルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵略に対処できぬ状況であった。 バトゥは広範なルーシのステップ地帯で敵の組織的な反撃がないと知ると 蒙古軍団をより小さい分隊に分け 機動性を活かし ルーシ国土を略奪し荒廃させている。 キーテンの町などは モンゴル兵を避けるため 住民全てが湖に投身したと言う。 ルーシ諸国を制圧・支配したモンゴル軍は 次の目標 中欧に 軍を進めていく。 1236年冬 初春にイリを出陣し4年の歳月ですから快進の速さです。


 1240年内にルーシ諸国をほぼ破壊した。 ごく一部の残留部隊を残し、バトゥは大きく軍団を3っに分けて中欧に進撃した。 バイダル、コデン、オルダ・ハーンの3将軍はポーランドに侵攻した。 バトゥは中軍を率いて カルパチヤ山脈中央部を横断 ハンガリーに軍を進めた。 ハダン・オウル率いる左翼はクロマチア方面へ南下した。 キエフ攻略の期間に偵察は十分おこなっいた。 右翼・ポーランド軍団、及び左翼クロマチヤ・セビリヤ軍団は中央ハンガリー軍団とセイヌ河で合流し オーストラリア・ドイツに侵攻する計画であった。 ポーランド北部と中部を進撃する、オルダ将軍は41年2月14日にルブリンに続きサンドミュシュをも陥落させている。 ポーランドはボヘミヤに援軍を依頼したが、 ポーランドの南部地帯を侵略するバイダルがボヘミヤ・ポーランド・ドイツ騎士軍団を撃破した。 ポーランド国土内はパニックに陥り、指示系統は混乱し、蒙古騎兵に蹂躙される。 右翼・ポーランド軍団は4月9日の大戦(ワールシュミットの戦い ポーランド王・ヘンリケ二世は敗死する)以降 ポーランドを占拠し、ハンガリーに進軍していく。 他方 バトゥはカラパチヤ山脈を抜け、トランシルヴェニア経由で正面から ハンガリー王国に侵攻した。 進入と同時に バトゥはハンガリー王・ベーラ四世に降伏勧告を行なっている。 やがて モラヴィヤからバイダル・スブタイ・カダアンの諸将が合流して来て、ベシュト市を陥落させている。 モンゴル軍は戦線を広げず、ハンガリーの城市を集中的に進撃して行った。 時、1241年4月11日 ハンガリー軍の総力を挙げた“モヒの戦い”が始まった。 蒙古軍バトゥ以下1万弱余の兵力、他の諸将はいない。 ハンガリー軍ベーラ四世以下、テンプル騎士団、ドイツ騎士団の1万5千の兵力が激突しのです。 ベーラ4世は蒙古軍の侵入を知ると、10万の将兵を戦場に送っていた。 他方 蒙古軍はスブタイ将軍等が分散してハンガリー領内を侵略していた。 バトゥはドナウ河にまで進軍した時、ハンガリー軍と遭遇し、数倍の敵兵力に後退してきてモヒ平原にはいったのです。 スブタイ将軍はモヒ平原の近くにいた。 ベーラ4世はバトゥがモヒ平原に入ったと知るや、騎士団を率いて モンゴル軍の前衛部隊を撃破し、サヨ川の石橋を奪い右岸に橋頭塁を確保したのです。 数に勝るベーラ4世は石橋を使い 何度もに騎兵をバトゥ軍に突撃させるが、左岸で陣を固めているバトゥが投石機と弓矢で激しく応戦する。 戦いのさなか スブタイ率いる別働隊が戦場に駆けつけた。 スブタイ将軍は、サナ川を南側から迂回渡河して 右岸のベーラ4世本陣を襲った。 機動力を活かしハンガリー軍を包囲しながら攻撃する。 左岸のバトゥは陣を水際まで進め、投石・弓矢をハンガリー本陣に集中攻撃させた。 ベーラ4世が優勢な兵力を動かすには モヒ平原は狭すぎた。 有利な体制で戦うべき戦場を誤ったのです。 ハンガリー軍は大量の石弾と矢弾で壊滅的打撃をうける。 攻防さなかで、スブタイは包囲の西方の一部のみを解いた。 意図的にハンガリー軍の退路を作った。 誘導されるように ハンガリー軍はわれがちに逃走した。ベーラ4世軍も包囲網から脱出することができた。 が、モンゴル軍には代え馬が十分にあった。 追撃され、援軍も撃破される。 この“モヒの戦闘”でハンガリー軍はほとんど壊滅してしまった。 ベーラ4世は追撃を逃れ、ダルマチア沖の孤島に避難したが ハンガリー全体はモンゴルの占領下にはいった。
 一方 ハダン・オウル率いる左翼軍団はクロアティアを南下してクロアティア国を従属させ、アドリア海岸に達し セルビア国を横断する進撃を重ねていた。 


 ドナウ河を遡れば、オーストラリアに入る。 ハンガリーを蹂躙したモンゴル軍は南方セビリヤを進軍中のハダン・オウル将軍の動静を集め、オーストラリア侵攻への準備を進めた。 オーストラリア王国・フリードリヒ公は隣国ハンガリーの戦況に心胆を凍らせていた。 ドイツとの連合、兵団の補強 対抗策に日々 席が温まらない。 フリードリヒ公は騎士であった。 1218年 第四回十字軍に加わり、自軍を率いてパレスチナに上陸している。 モンゴル遠征軍は 指呼のウィーナー・ノイシュタットに現れた。 1242年の初春である。 負け戦を知らぬモンゴル軍は活気に満ちていた。 バトゥの本営に独りの伝令がわき目も振らずに駆け込んできた。 見れば、腹部は服の上にきつく晒を巻き、顔は蒼白で死相が現れていた。 背には皮袋が結わえ付けられていた。 伝令は息絶え絶えにそれを開きバトゥに差し出した。 バトゥは無言で受け取り、玉書を開いた。 オコデイ・ハーンの死の知らせる文面であった。 退席した伝令はまもなく血を吐いて死んだ。 彼は蒙古高原・カラコルムから日夜走り続け、60数日で7000有余キロの道を駆け抜けて着たのです。 馬を90数頭乗り潰して、 バトゥは無言で莫舎を出ていた。
 1242年3月 モンゴル軍はウィナー・ノイシュタットから撤退した報がオーストラリアに入った。 フリードリヒ公は勇んで追撃軍を出した。 バトゥの退却は見事であったが、八人の将校が捕らえたと史書は記す。

 逸話を一つ追記します。 捕らえられた将校の中にイギリス人がいた。 名前は記録されていない。 1215年にイングランドのジョン王に迫って[マグナ・カルタ/大憲章]を認めさせた貴族の一人らしい。 マグナ・カルタ推進者は 翌年 ジョン王の死後、ヘンリー3世の即位に反対してフランスの王子・ルイを迎え王位に就かせようと画策した。 が、失敗してローマ教皇に破門される。 囚われたイギリス将校は贖罪のために第四回十字軍に加わり、パレスチナに赴いた。 アークルに上陸し、彼が戦いよりも語学に没頭している。 この地でフリードヒ公は彼に会っていたのです。 しかし このイギリスの貴族は十字軍から脱落し、苦労を重ね、放浪・流浪の果てにバクダットでたどり着き、語学の研鑽をしています。 もともとの教養とあらゆる国の言葉の読み書きができる才人の噂に モゴル貴族が興味をもち、彼を召抱えます。 忠節を誓わせ、語学の研鑽をさせたたのでしょう。 その後 バトゥの遠征に従軍し、ハンガリー王・ベーラ4世に無条件降伏の交渉などで従軍の勤めを果たしたのです。 バトゥがこの貴族を従軍させている事実は チンギス・カーンが有能な技術者や工芸家を虐殺せずに活用した遊牧民の伝統でしょうが、モンゴル軍団が大西洋まで進軍する構想を裏付けていると考えるのは浅はかでしょうか ・・・・・ 尚 このイギリス将校の話は 陳舜臣さんの『チンギス・カーンの一族』に登場しますが小説では従軍していません。 ナイマンの皇女とキリスト教の布教で各地を旅します。 また バトゥに玉書を渡した伝令は司馬遼太郎の初期の作品にあります。 題は忘れました。 ご一読ください。 大変 面白い小説でした・・・・・
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