




*追伸(12・28日)昨日 ジンギスカーンの子沢山の話をしました。 で 確証の為調べてみました。2004年にオックスフォード大学の遺伝子研究チームは、DNA解析の結果、ジンギスカーンが世界中で最も多くの子孫を残した人物あるとの結論を発表しております。 研究結果は 現在までに彼のY染色体を引き継いでいる人物、即ち 男系の子孫は1600万人にのぼると解析(ジンギスカーンの数世代前以前に突然変異により生じた遺伝子がある可能性も高い)し、 また 長兄”ジュチ・ウルス”の女系子孫の貴族層が ロシア貴族との幾世代もの通婚を通じた結果、ロマノフ王朝の血に繋がり、ヨーロッパ貴族の多くにジンギスカーンの血が流れている。 とのことです。 誠に驚きの情報です。 小生もフフホト滞在の折、一人の女子学生と二人の男子学生がジンギスカンの直系でありました。女子学生は父がジンギスカーンの末子の子孫で母は有名な将軍の子孫でしたが、ジンギスカーンを偲ぶ子孫の大会では中心的な家系だった。
ちなみに 現代の染色体配布者のNo.1は金日成だとどこかで読んだ記憶もあります。 高杉さんの虚構 ”ジンギスカーンは源義経である”を信じる御仁には日本人の誇りが また一つふえます。 ハッハッハ・・・・*
カルマイ市を離れ 公道217号線は油田地帯を抜け、一路南下する。 周囲は穀倉地帯だ。 屯田兵の兵農集落が続く。 河川の水は豊富だ。 ポプラが茂り、豊かな田園風景 オッと スピード違反で呼び止められた。 袖の下で事なきをえる。 前方にポロホロ山脈が見え出した。 鳥蘇市に入れば、高速道路312号線にのれる。 鳥蘇は敬愛する友・バトワール教授の故郷だ。 マイナス25度の寒冷下、この町で彼と落ち合ったことを思い出す。 彼から父祖が辿った苦難の歴史を聞いている。 ボルガ河からの逃避行・ウイグル族の反乱・漢族の圧制・モンゴル族の団結・キルギス族との軋轢・屯田兵の侵食 等々

17世紀初頭 清皇帝・乾隆は”草原の道”と”絹の道”に大軍を発する。天山山脈は地勢学上 誠に重要な地域であった。 産業革命に伴う欧州列強は植民地獲得に動き出す。 大英帝国はインド大陸を支配した後、新たな市場拡大 殖民領土を中央アジアに志向する。 ロシア帝国は不凍港を求め、南下・東征を繰り返す。
海のシルクロード(海上交易)が技術革新で安全・確実に成ったとは言え、交易の富は旧来の草原の道に集まる。 天山山脈にいかに覇権を確立するか 清朝・ロシア・大英帝国が競い合う。 17世紀中頃 清王朝・乾隆帝はジュンガール王国の激しい抵抗に 王国内の住民を抹殺する勢いでジュンガール地方を征圧する。 人口は半減したと言う。 乾隆帝はこの地を新疆(新しく征服した地域)となずけ、未だ抵抗やまぬ王国民弾圧の為 興安嶺山脈の遊牧・猟集民 シボ族5000名余 アムール川のソロン族 満州北部のダグール族を強制移住させる。 万余の異種民族がこの地に流入、支配者側に立ったのです。 ロシア帝国はキルギス族を配下に納め、イリ渓谷をヤコブ・ペグ*蒙古系ジンギスカン第二子系列、パミールより西進しウルムチ・イリから清朝勢力を撃退するも清朝に鎮圧させられる。回教である*の反乱に乗じ制圧する。 されど ヤコブ・ペグ撃退に費やされた清朝軍の4万余はイリ渓谷からロシア勢力を追い払う。 18世紀初頭の頃である。 他方 大英帝国はアフガン戦争に勝利して北上を進め、ヤコブ・ペグと協定に基づき、カシュガール南部地域を支配地域とした。 18世紀の中央アジアは このジュンガール・イリ地方は 上記勢力図の如き 巨大な3勢力がこの地で 角を付き合わせたのです。 強制移動を強いられたツングース系遊牧民・旧勢力の蒙古系遊牧民・土着のウイグル系住民・新来の漢族系農民の秋烈 そして イスラム教・ラマ教・ギリシャ正教がこの地をますます混迷に陥れて行くのです。
モスクワにてロシア臨時代理公使の任務を終えた 西徳三郎が帰国の折 1880年7月 西トルキスタンに入り アルマイからイリ渓谷を詰め、イリに入っています。 我々と同じコースを歩いています。 人々の暮らしぶりを日記に書き残しています。 哀れ・見るに絶えず・不浄と日記のページを繰るたびにこの言葉が飛び込んできます。 鳥蘇周辺の日記は特に激しく怒りを表しています。 烏蘇辺りから北上してシベリヤ経由で帰国しています。 タシケントまで馬車を利用していますから、馬・馬車のたびだったのです。 この地と日本人について一言添えておきます。19世紀初頭の大谷探検隊*第一次1902年 第二次1908-1909年 第三次1910-1914年*の事業は次回の”トルファンーカシュガール 天山南麓の旅”にて話しましよう。 ただ 1889年 浦 敬一(上海 東亜学院)が ロシア・シベリア鉄道建設計画が満州の防衛上重要かつ新疆を防衛線と考えての調査にこの地に来ていますが、消息不明。 1905年 東亜学院生*上海に開いた大陸で活躍するべく密偵を養成した学校 当校より ラサ・シベリヤ・タイ北部・アッサム地方 に調査に赴いた若人の記録を読むことは一部可能*4名 草 政吉(ウリスタイ/アルタイ山脈西部・三浦 稔(クーロン/アルタイ山脈北部)・波多野養仲(ウルムチ/現在ウルムチ市内は繁華街 南門 に大きな地下アーケード街が在る。 200店舗は営業している。 このアーケードの名前が”波多野”です。 密偵になって調べる価値はある)・桜井好孝(コブド/アルタイ山脈東側)等 四名来訪し、滞在し、二ヵ年ほど調査の後 帰国している。 無論 目的はロシア軍の動向調査と浦 敬一の消息でしょう。 この事実は書いておきましょう。
我々が進む道を 悠々自適で旅した哲人がいます。 儒学の泰斗”王重陽”の高弟No.1”丘長春”その人です。 時の金帝国をも袖にする胆力・知力の御仁 ”耶律楚材”を高く評価し、高齢にもかかわらずジンギスカーンの要請に応じて山東半島から旅してきたのです。 天地で遊び、サリム湖畔を楽しみ 遠征中のジンギスカンに会います。一月ほど待たされた後に 身内の戦死でいきり立つ大帝王は馬上から下問する。『遠路はるばる来られたからには、朕に約立つ長生の薬を 何かを お持ちに成られたのであろうな』長春真人は答えた『養生に道在り、されど 長生の薬なし』 と喝破している。二年猶予の旅の目的は この一瞬で終わり、耶律楚材と詩のやり取りを楽しんでいる。 始皇帝の妙薬切望に詐欺して 日本まで逃亡した福寿何某とはちがうようですね。 天山山脈まで強壮剤を探しに来た友人がいる。 始皇帝の故事には詳しいが、この話は知らないようだ。 ”冬虫夏草”は効き目なしと大帝王・ジンギスカーンは喝破していたらしいから。
烏蘇で昼食。 高速道路に入る。 ポロホロ山脈に沿って西に向う。 草原地帯だ。 時折 干上がった河に架かる橋をわたる。 モンゴル族の祭場・オボに詣でる。道は緩やかな登り、カザフスタン国境が近い。 サイラム・ノール(サリム湖)は海抜2100m 琵琶湖の7割程度の面積。 北側に山稜が迫る。 間道あり、キルギスタンひ通じる。 南はポロホロ山脈に接しイリへの峠がある。 西は山麓地帯で東が草原地帯だ。 草原地帯を登りきた我々はサリム湖 湖畔の草原に遊び 湖畔をドライブ 峠のホテルに部屋を取った。 風呂・温水は無かった。 ホテル前面の景色は壮大であった。 目前でヤギ・羊が草をはんでいた。 その先に 工事中の高速道路は柱脚が ニョキニョキニョキと立っていた。 高さ50mはあろうか トンネルにすればいいのに・・・・・・明日は イリ入城だ
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