ライブで知り合った人たちに、
そのアーティストのファンになったきっかけを聞かれたり、
聞いたりすることがあります。
私は出口さんのファンになったきっかけを聞かれると、
「ラジオで偶然、SUICIDE SPORTS CARの曲を聞いたから。」
と答えています。
それは嘘ではありません。
しかし、実のところ、いつから出口さんのファンなのか、
私自身、はっきりとはわからないのです。
長年、聖飢魔Ⅱ信者をやって来て、
ここ数年で出口さんのファンになったというと、
聖飢魔Ⅱ→face to ace→本田海月
→本田恭之→GRASS VALLEY→出口雅之
という図式が思い浮かぶ人もいらっしゃるのではないでしょうか。
それも全くない訳ではないんですが…。
出口さんの場合は、別ルートなのです。
今日はその辺のこまごまとした経緯を、
時系列順を追って、書いてみたいと思います。
(注:長くなります。興味のない方にはどうでもいい話です。)
私が「GRASS VALLEY」、「出口雅之」の名を初めて目にしたのは、
聖飢魔Ⅱ地球デビュー3周年記念写真集
『聖魔伝説』の中で、です。
各教典の曲解説のページで、
「『BIG TIME CHANGES』の中の、
『THE FINAL APOCALYPSE』という曲の2番は、
GRASS VALLEYの出口雅之が歌っている」
と書かれていたのです。
バンドのことに疎い私は、
「GRASS VALLEY? 有名なバンドなのかな?
これ、いでぐちまさゆき・・・って読むのかな?」
と思った程度で、すぐにそのことを忘れてしまいました。
後に『BIG TIME CHANGES』を初めて聴いたとき、
この曲の2番は閣下が声色を変えて歌っているんだと思いました。
すぐに歌詞カードを見て、気が付いたんですけど…。
それよりも、エース清水長官のボーカル曲、
『ANGEL SMILE』に聴き惚れていたのです……。
同じFITZ BEATレーベルの兄弟バンドということで、
聖飢魔Ⅱ構成員の皆様は、ことあるごとに、
GRASS VALLEYを推奨していました。
自身がパーソナリティを務めるラジオ番組や、
ファンクラブの会報などで、よく話題にされていたし、
エース長官に至っては、
「オレはGRASS VALLEYみたいな音楽がやりたかった。」
と、公言して憚りませんでした。
しかし、私は、聖飢魔Ⅱさえ聴いていればいい人だったので、
GRASS VALLEYを聴いてみようとは、全く思いませんでした。
音楽は聴いていませんでしたが、写真でお姿は拝見していました。
当時、PLUM(プラム)という音楽雑誌があったのをご存知でしょうか?
聖飢魔Ⅱの記事を読む為だけに毎月買っていたのですが、
そこにGRASS VALLEYも載っていたのです。
「ああ、この人たちがGRASS VALLEYか。」
とは思ったものの、それ以上の興味は示しませんでした。
だって、GRASS VALLEYって、普通にかっこいいんですもの。
ほら、私、聖飢魔Ⅱが好きなくらいですから・・・。
普通じゃダメなんです。
「なんか、スカしてない?」
とか、思ってました。(ゴメンナサイ)
しかし、これだけ構成員の皆様が推すのだから、
きっと良いに違いない、とようやくレンタルする気になったのが、
GRASS VALLEY解散の直前か、直後か、そのくらいだと思います。
はっきりと記憶が残っていないのですが、
最初に借りたのは『at GRASS VALLEY』だと思います。
あの手のロックは私の好みです。
逆に、最初に聴いたのが1stや2ndだったら、
お子ちゃまな私は、その良さを理解できなかったでしょう。
それから暫く、ダビングしたテープを繰り返し聴いていました。
色々とモヤモヤしていた当時の私には、
特に『ハッピネス』は印象的でした。
そして、他のアルバムも聴いてみよう、と思いました。
そこで、次にレンタル屋の棚から手に取ったのが、
『瓦礫の街』でした。
敬虔なる悪魔教信者である私は、
そのジャケットを見た瞬間、拒絶反応を起こしました。
所詮、そっち側の人なのね、と思いました。
私はCDを棚に戻し、GRASS VALLEYから離れてしまいました。
その後、出口さんがREVとして活動していたことも、
全く知りませんでした。
CMや劇空間プロ野球等で耳にしていたとは思うのですが、
売れているもの、タイアップもの、というだけで、
私のアンテナは反応しないのです。
そうして時は過ぎ、あるときテレビで、
出口さんのソロアルバムのCMを目にしました。
CDショップに立ち寄った時、そのことを思い出し、
探してみたら、ありました。
聖飢魔Ⅱ以外のCDは滅多に買わないのですが、
その時なぜか、私は出口さんのCDを買いました。
出口雅之名義のアルバム2枚は、
かなりのヘビーローテーションで聴きました。
それからまた、しばらくあって、私は目当ての番組もなく、
深夜にラジオをつけるという習慣があった時期がありました。
その時も、私はラジオの電源を入れ、
選局ボタンをポンポンと押していました。
そして、「ん?」と思いました。
私はボタンを押し、通り過ぎた局に戻しました。
そこから流れていた音楽がどうにも気になったのです。
「……なんか、…これ、…………出口さんぽくない?」
その時流れていたのは、確か『BOND GO』だったか…。
インストものでした。
私は曲名やアーティスト名を確認したくて、
そのまま、その番組を聴いていました。
次にかかった曲は歌ものでした。
「…やっぱり、この声、出口さんだよね?」
その曲が終わると、抑揚のない男性の声で、
ドラマとも、朗読とも付かないものが始まりました。
その独白の合い間合い間に、出口さんのらしき曲がかかる、
という形で進行して行き、
「なんじゃ、こりゃ?」と思っているうちに、
結局、最後まで聴いてしまいました。
番組の最後に、これまた抑揚のない男性の声で、
こう聞こえて来ました。
「ディス プローグラム プロデュースド バーイ
スー サーイド スポーツ カー・・・。」
「・・・えっ? ・・・出口さんの名前、微塵もなっ…!?」
それが、Nack5(FM埼玉)の『クール・ラブ』(だと思う)
という番組だということがわかり、毎週、聴くようになりました。
といっても、私が聴き始めてから何回もたたないうちに、
その番組は終わってしまいました。
どうしても気になった私は、
Nack5のスタジオがあるアルシェ内のCDショップまで行き、
スーサイドのアルバム『非情のライセンス』を買いました。
出口雅之の名前は伏せてあるようだったし、
イラストも写真もビミョーだったけど、
「…やっぱり、これ、出口さんだよね?」
と、一人納得しました。
スーサイドの音楽はかっこいいけれど、
ソロの路線でずっと行くと思っていた私は、
少なからぬ衝撃を受けました。
そして、また月日は過ぎ、
私はスーサイドのCDをあまり聴かなくなっていました。
なぜならば、face to aceやら、CANTAやら、
元構成員の皆様の活動が活発になって来たからです。
コンサートホールでのミサしか経験のなかった私が、
あちこちのライブハウスにちょいちょい足を運ぶようになり、
ライブというものを身近に感じ始めました。
ふと、「そういえば、スーサイドってライブやってるのかな?」
と思った私は、家にあった雑誌『ぴあ』をパラパラとめくってみました。
(当時、まだインターネットやってなかったんです。)
すると、あったんですよ。スーサイドのライブが!
しかも、2ndアルバム『SPY DISCO』が発売されているではないですか。
買いましたよ、アルバムもチケットも。
こうして、西暦2003年7月26日、
初めて出口さんのライブを観たのです。
ステージに現れたメンバーは、
全員、黒のスーツにオールバック、サングラス着用でした。
「んー、なんか、スパイっぽい? いつもこんな感じなのかしら?」
と思っていたら、出口さんの後ろに男性2人が直列。
曲が始まるや、出口さんが右に左にとのけぞるではありませんか。
後ろの2人がやや遅れてそれに続きます。
「も、…もしや、これは、映画『マトリックス』?」
MCでは、本当なのか冗談なのか、わからない話が繰り広げられる…。
なんなんだ、この人たち・・・?
でも、演奏は盛り上がりました。
歌った、踊った、楽しかった!
大満足で帰路に着いたのでした。
その日、渡されたフライヤーには、
新プロジェクトDANDY Dのライブ告知が・・・。
まあ、これは、行かないだろう、と・・・。
とりあえず、CDは買うけど、と・・・。
で、結局、行きました。
池袋ロサも、対バン形式も初めてで、
すごくドキドキしたけど、行きましたさ。
ちなみに、その時の対バンが、よけむらさんのユニットYMCKと、
コウセイさんのバンドLes Stereo-Phonic Theatreと、
ローマとしきで活躍中のMacさんの、マックとチェリーでした。
で、肝心のDANDY Dはどうだったかというと…。
やっぱり、よくわからん人だな~・・・と。
しかし、音楽かっこいいな~・・・と。
そんなこんなで、その年の暮れには、
ファンクラブD-SYSTEMに入り、
出口さんのライブに、ほぼ毎回参加するようになったのです。
それから、GRASS VALLEYやREVのアルバムを買い集めました。
ここで初めて、REVというものが何なのか知ったのです。
こうして、ライブに通ううち、
友だちが増え、好きなバンドも増え、
今に至る訳なんです。
いやー、ほんとに書き散らかした感じで・・・。
なんか、すみません。
そのアーティストのファンになったきっかけを聞かれたり、
聞いたりすることがあります。
私は出口さんのファンになったきっかけを聞かれると、
「ラジオで偶然、SUICIDE SPORTS CARの曲を聞いたから。」
と答えています。
それは嘘ではありません。
しかし、実のところ、いつから出口さんのファンなのか、
私自身、はっきりとはわからないのです。
長年、聖飢魔Ⅱ信者をやって来て、
ここ数年で出口さんのファンになったというと、
聖飢魔Ⅱ→face to ace→本田海月
→本田恭之→GRASS VALLEY→出口雅之
という図式が思い浮かぶ人もいらっしゃるのではないでしょうか。
それも全くない訳ではないんですが…。
出口さんの場合は、別ルートなのです。
今日はその辺のこまごまとした経緯を、
時系列順を追って、書いてみたいと思います。
(注:長くなります。興味のない方にはどうでもいい話です。)
私が「GRASS VALLEY」、「出口雅之」の名を初めて目にしたのは、
聖飢魔Ⅱ地球デビュー3周年記念写真集
『聖魔伝説』の中で、です。
各教典の曲解説のページで、
「『BIG TIME CHANGES』の中の、
『THE FINAL APOCALYPSE』という曲の2番は、
GRASS VALLEYの出口雅之が歌っている」
と書かれていたのです。
バンドのことに疎い私は、
「GRASS VALLEY? 有名なバンドなのかな?
これ、いでぐちまさゆき・・・って読むのかな?」
と思った程度で、すぐにそのことを忘れてしまいました。
後に『BIG TIME CHANGES』を初めて聴いたとき、
この曲の2番は閣下が声色を変えて歌っているんだと思いました。
すぐに歌詞カードを見て、気が付いたんですけど…。
それよりも、エース清水長官のボーカル曲、
『ANGEL SMILE』に聴き惚れていたのです……。
同じFITZ BEATレーベルの兄弟バンドということで、
聖飢魔Ⅱ構成員の皆様は、ことあるごとに、
GRASS VALLEYを推奨していました。
自身がパーソナリティを務めるラジオ番組や、
ファンクラブの会報などで、よく話題にされていたし、
エース長官に至っては、
「オレはGRASS VALLEYみたいな音楽がやりたかった。」
と、公言して憚りませんでした。
しかし、私は、聖飢魔Ⅱさえ聴いていればいい人だったので、
GRASS VALLEYを聴いてみようとは、全く思いませんでした。
音楽は聴いていませんでしたが、写真でお姿は拝見していました。
当時、PLUM(プラム)という音楽雑誌があったのをご存知でしょうか?
聖飢魔Ⅱの記事を読む為だけに毎月買っていたのですが、
そこにGRASS VALLEYも載っていたのです。
「ああ、この人たちがGRASS VALLEYか。」
とは思ったものの、それ以上の興味は示しませんでした。
だって、GRASS VALLEYって、普通にかっこいいんですもの。
ほら、私、聖飢魔Ⅱが好きなくらいですから・・・。
普通じゃダメなんです。
「なんか、スカしてない?」
とか、思ってました。(ゴメンナサイ)
しかし、これだけ構成員の皆様が推すのだから、
きっと良いに違いない、とようやくレンタルする気になったのが、
GRASS VALLEY解散の直前か、直後か、そのくらいだと思います。
はっきりと記憶が残っていないのですが、
最初に借りたのは『at GRASS VALLEY』だと思います。
あの手のロックは私の好みです。
逆に、最初に聴いたのが1stや2ndだったら、
お子ちゃまな私は、その良さを理解できなかったでしょう。
それから暫く、ダビングしたテープを繰り返し聴いていました。
色々とモヤモヤしていた当時の私には、
特に『ハッピネス』は印象的でした。
そして、他のアルバムも聴いてみよう、と思いました。
そこで、次にレンタル屋の棚から手に取ったのが、
『瓦礫の街』でした。
敬虔なる悪魔教信者である私は、
そのジャケットを見た瞬間、拒絶反応を起こしました。
所詮、そっち側の人なのね、と思いました。
私はCDを棚に戻し、GRASS VALLEYから離れてしまいました。
その後、出口さんがREVとして活動していたことも、
全く知りませんでした。
CMや劇空間プロ野球等で耳にしていたとは思うのですが、
売れているもの、タイアップもの、というだけで、
私のアンテナは反応しないのです。
そうして時は過ぎ、あるときテレビで、
出口さんのソロアルバムのCMを目にしました。
CDショップに立ち寄った時、そのことを思い出し、
探してみたら、ありました。
聖飢魔Ⅱ以外のCDは滅多に買わないのですが、
その時なぜか、私は出口さんのCDを買いました。
出口雅之名義のアルバム2枚は、
かなりのヘビーローテーションで聴きました。
それからまた、しばらくあって、私は目当ての番組もなく、
深夜にラジオをつけるという習慣があった時期がありました。
その時も、私はラジオの電源を入れ、
選局ボタンをポンポンと押していました。
そして、「ん?」と思いました。
私はボタンを押し、通り過ぎた局に戻しました。
そこから流れていた音楽がどうにも気になったのです。
「……なんか、…これ、…………出口さんぽくない?」
その時流れていたのは、確か『BOND GO』だったか…。
インストものでした。
私は曲名やアーティスト名を確認したくて、
そのまま、その番組を聴いていました。
次にかかった曲は歌ものでした。
「…やっぱり、この声、出口さんだよね?」
その曲が終わると、抑揚のない男性の声で、
ドラマとも、朗読とも付かないものが始まりました。
その独白の合い間合い間に、出口さんのらしき曲がかかる、
という形で進行して行き、
「なんじゃ、こりゃ?」と思っているうちに、
結局、最後まで聴いてしまいました。
番組の最後に、これまた抑揚のない男性の声で、
こう聞こえて来ました。
「ディス プローグラム プロデュースド バーイ
スー サーイド スポーツ カー・・・。」
「・・・えっ? ・・・出口さんの名前、微塵もなっ…!?」
それが、Nack5(FM埼玉)の『クール・ラブ』(だと思う)
という番組だということがわかり、毎週、聴くようになりました。
といっても、私が聴き始めてから何回もたたないうちに、
その番組は終わってしまいました。
どうしても気になった私は、
Nack5のスタジオがあるアルシェ内のCDショップまで行き、
スーサイドのアルバム『非情のライセンス』を買いました。
出口雅之の名前は伏せてあるようだったし、
イラストも写真もビミョーだったけど、
「…やっぱり、これ、出口さんだよね?」
と、一人納得しました。
スーサイドの音楽はかっこいいけれど、
ソロの路線でずっと行くと思っていた私は、
少なからぬ衝撃を受けました。
そして、また月日は過ぎ、
私はスーサイドのCDをあまり聴かなくなっていました。
なぜならば、face to aceやら、CANTAやら、
元構成員の皆様の活動が活発になって来たからです。
コンサートホールでのミサしか経験のなかった私が、
あちこちのライブハウスにちょいちょい足を運ぶようになり、
ライブというものを身近に感じ始めました。
ふと、「そういえば、スーサイドってライブやってるのかな?」
と思った私は、家にあった雑誌『ぴあ』をパラパラとめくってみました。
(当時、まだインターネットやってなかったんです。)
すると、あったんですよ。スーサイドのライブが!
しかも、2ndアルバム『SPY DISCO』が発売されているではないですか。
買いましたよ、アルバムもチケットも。
こうして、西暦2003年7月26日、
初めて出口さんのライブを観たのです。
ステージに現れたメンバーは、
全員、黒のスーツにオールバック、サングラス着用でした。
「んー、なんか、スパイっぽい? いつもこんな感じなのかしら?」
と思っていたら、出口さんの後ろに男性2人が直列。
曲が始まるや、出口さんが右に左にとのけぞるではありませんか。
後ろの2人がやや遅れてそれに続きます。
「も、…もしや、これは、映画『マトリックス』?」
MCでは、本当なのか冗談なのか、わからない話が繰り広げられる…。
なんなんだ、この人たち・・・?
でも、演奏は盛り上がりました。
歌った、踊った、楽しかった!
大満足で帰路に着いたのでした。
その日、渡されたフライヤーには、
新プロジェクトDANDY Dのライブ告知が・・・。
まあ、これは、行かないだろう、と・・・。
とりあえず、CDは買うけど、と・・・。
で、結局、行きました。
池袋ロサも、対バン形式も初めてで、
すごくドキドキしたけど、行きましたさ。
ちなみに、その時の対バンが、よけむらさんのユニットYMCKと、
コウセイさんのバンドLes Stereo-Phonic Theatreと、
ローマとしきで活躍中のMacさんの、マックとチェリーでした。
で、肝心のDANDY Dはどうだったかというと…。
やっぱり、よくわからん人だな~・・・と。
しかし、音楽かっこいいな~・・・と。
そんなこんなで、その年の暮れには、
ファンクラブD-SYSTEMに入り、
出口さんのライブに、ほぼ毎回参加するようになったのです。
それから、GRASS VALLEYやREVのアルバムを買い集めました。
ここで初めて、REVというものが何なのか知ったのです。
こうして、ライブに通ううち、
友だちが増え、好きなバンドも増え、
今に至る訳なんです。
いやー、ほんとに書き散らかした感じで・・・。
なんか、すみません。