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よど号犯人と拉致問題 東京集会11恵谷治氏の講演(3)

2006-02-01 | 東京集会
  『恵谷治氏の講演 その3』

いずれにせよ70年代そういう形でやったんですが、一番ポイントはですね。
80年によど号の、それまでにご存知のよど号の妻たちってのがどんどん日本に入って来ます。
80年にNHKでも報道された、名古屋から魚本(民子)が連れて行った男性がいたらしいんですが、どうやら帰って来ていると。
私もイマイチ判断出来ない、苦しいのはですね。
返す人間と返さない人間とどう違うのか?
それでいろいろ私も考えてですね。
ふと先ほど言った、調査部マターか連絡部マターか、つまり部署の違いがあるのかなぁ?と言うふうに考えました。

ご存知の安明進と言うのは有名な工作員といわれますが、彼は調査部でもなく連絡部でもなく作戦部という、金正日が大検閲をして以降、新たに設置された組織の人間です。
とにかくまだ結論は出ないんですが、そういうふうな視点で物を見る必要があった。
と言う事でもう一度話を戻しますと、拉致をこれまでしてきた部署を見ますと調査部か連絡部なんです。
それ以外は、証拠・事実としてはないんですが、可能性としては偵察局、軍です。
ただ具体例はまだありません。
今までハッキリしているのは調査部か連絡部なんです。

で、作戦部といいましたがもう一度、金正日が大検閲を行った後、紆余曲折はあったんですが77年までに固まったのはですね。
3号庁舎には連絡部、調査部、作戦部、統一戦線部、4つ目の統一戦線部。
これは皆さんもご存知だと思いますが、朝鮮総連を管轄する指揮する部署です。
この4つで確定されたと言うか、現在に至ってます。
その間いろいろ名前が変わりまして、その当時の部署、例えば大韓航空機爆破事件を起した金賢姫と言うのは調査部に属していまして、調査部と言うのが新聞報道でいろいろいろいろ言われたもんですから、その後は35号室と言う名前に変えてます。
しかしこれは誰が見ても調査部で、工作員も未だに調査部と古い名前で呼ぶケースが多いんですが、いずれにせよ3号庁舎には4つあります。

拉致の作戦計画、当然上からも来るんですが、この先ほど言った調査部と連絡部の二つの部署が、いわば競い合って拉致をやる。
その良い例がですね。
70年代、77年ぐらいだったかな?
ドイツに在住していた韓国人ピアニストと、ユン・ジョンヒという女優さんが奥さんでした。
彼らを金正日の指令で拉致をする。
ところがこれもザグレブ、ユーゴスラビアでその拉致は失敗します。
それは連絡部でした。

翌年今度は韓国の申相玉さん(映画監督)と崔銀姫さん(女優)の夫婦を、別々に拉致するんですがこの拉致をしたのは調査部です。
調査部は金正日から高く評価されたんですが、いろんな事があるんですが、一つ拉致についても競い合わせる。
先ほど言ったようによど号の連中は連絡部管轄。
しかし、拉致の作戦実行、作戦を担当するキム・ユーチョルと言うのは調査部の工作員だと。
この辺が未だにちょっとハッキリしないんですが、よど号の場合はそうだと。
もう一つの見方としてはですね。
調査部と連絡部の二つの違い、大きな違いと言うのは連絡部は基本的に対南工作を専門。
もちろん例外はありまして、先ほどのザグレブの拉致未遂が連絡部であったんですが、それは例外的です。
調査部と言うのは韓国以外、ですから日本であれヨーロッパであれアジアであれ、そういう所で様々な作戦をする。
こういう大きな違いがあります。

皆さんもご存知だと思いますが、金正日政治軍事大学というところで4年あるいは6年間教育を受けてですね。
成績の良い順から部署配置がされる。
彼らは卒業後、配置と言う。
つまり一応希望は出すんですが、自分の意思とは無関係に配置されます。
その場合ですね、優秀な順に調査部、連絡部、統戦部、で作戦部なんです。
それがいわば3号庁舎の格付けですね。
3号庁舎内の部署の格付けです。

つまり調査部が一番偉い。
で、例の安明進はですね。
彼は外交官になって海外に行きたかったんですが、調査部に入れば多分、彼は亡命しなかったんじゃないかと思うんです。
で彼はあれだけの能力があるから当然調査部に入れたんですが。(横で西岡氏が「彼は調査部だったんです、調査部の依託生だったんです」の声)
ごめんなさい、失礼勘違いしました。
入る段階で、決まってたんですね。
で、卒業後に作戦部に回されたもんで頭に来て亡命をしたと、異色の人間なんですが。

でなぜ今のような格付けが起こるかといいますとですね。
最初の頃にも言いましたが、作戦部というのは金正日政治軍事大学でもですね。
全員がやるんですが、とにかく一番体力的に頑張る。
もちろんいろんな無線だのいろんな事があるんですが、頭脳より体力が優秀な方が作戦部に回す。
作戦部は工作船、あの展示している工作船と言うのは作戦部管轄で、その船長も作戦部そこに乗ってる人間も作戦部の人間で、3号庁舎内では最も人員が多い部署です。

その作戦部の部長はゴ・コクレツという金正日と同級生、学校が同期だった非常に有能な男がいるんですが、彼が部長をしています。
しかし、末端の人間、例えば韓国にたくさん脱北者がいますが、その工作員と言うか、金正日政治軍事大学の卒業生の同窓会のような物があります。
その中でですね。
「お前出身は?」「調査部だ」と言うと一目置かれるんです。
「お前は?」「作戦部か」というような明らかなランクがあるんです。
ある人間が私に言ったんですが、「作戦部と言うのはタクシーの運ちゃんですよ、変わらんのだから」

つまり船を運用します。
陸上で車の場合もあるかもしれませんが、基本的に日本の場合は船を運用する。
これはこれで非常に重要な任務ですが、そこに辛光洙のような調査部の人間をゲストとして乗せます。
この間奄美沖といいますか、銃撃戦があって沈んだ中に誰が乗っていたかと言うのはまだハッキリしませんが、これは作戦部以外の人間が乗っていたと言うことだけはハッキリしています。
証拠があるんです。
まだ公表されていませんが。
ですからあの船が何らかの任務であったと言う事は間違いないんですが。
いずれにせよ作戦部が運用する工作船には定員がありまして、全て作戦部の所属の人間です。
そこに連絡部、あるいは調査部の人間を乗せて運びます。

拉致と言う物をもう一度具体的に考えて見ましょう。
辛光洙の場合、辛光洙はですね。
めぐみさんを拉致したあるいは地村さんをという証言が今出て来ていますが、ハッキリしているのは原敕晁さんを拉致した。
その時は80年の4月に宮崎の海岸から潜入します。
それからですね。
人選をし、情報を集め、原敕晁と言う人物をピックアップし、宮崎まで連れて行って一緒に北朝鮮に戻ります。
それが6月24日に北に到着するんですが、いわば2ヶ月、一人の人間を拉致するのに2ヶ月、少なくとも彼の証言です。
それが可能だったんですが、それにもう裁判でも分かってますが、彼が主導していろんな人間に当たって、協力者を集めて宮崎まで連れて行くわけですが。

いろんなケースはあると思うんですが、先ほど行った調査部なり連絡部なりの人間が拉致をするというのは、いわゆる暴力的にと言うかそういう事をするわけではなくてですね。
まず命令を受ける。
その命令に添った人物を選定する。
それから接触をする。
それである程度納得させてある場所まで連れて行く。
で、そこで今度は作戦部の人間に任すんです。
それはもっと言いますと、迎えに来た人間、これには船に乗っています作戦部の人間が。

その中で最初に言いましたが船に乗っている人間は全員工作員ではなくて、戦闘員といいます。
ゴムボートで上陸する、その人間を戦闘案内員と言います。
日本語的に言うと案内員と言うのは何かイメージが違うんですが、実際はですね。
自分は案内員をしていたというと非常に能力がある。
つまり敵地に入って日本側の警戒をチェックして、客である調査部の人間、工作員を潜入させる。
あるいは回収する。
それをやる人間ですから、優秀な人間が選ばれます。

ですから覚えているか、これは偵察局マターだったんですが、潜水艦が韓国の沖に座礁した事件があります。
一人だけ生き残りがいます。
何人か殺されて逃げ出して射殺されて、おそらく一人だけは逃げ帰ったと思うんですが、ひとり韓国に生き残っている人間がいます。
彼なんかに話をして、彼は案内員だったんですね。
偵察局の中で、偵察員であり、案内員であったんですが。
その案内員、「あなた案内員だったんですか?つまりそれだけの能力・力があるんですね?」と言うふうに彼にインタビューしたときにですね。
「お前は分かるか?」という位にですね。
その案内員と言う響きが日本人には非常に馴染みが無いんですが、それは余談としまして。

とにかく案内員が基本的に拉致をする。
暴力的に振り向かせるのは、蓮池さんは声をかけたのは朴だったと言う言い方をして、声をかけて振り向かせて後ろからバンと殴るのは作戦部。
それまであの男をやるぞというふうに、ずっと指揮をするのは調査部。
この違いを皆さんとにかく覚えていてください。

もう一つのポイントは、辛光洙の事件も出てきますが、総連の関係者です。
話したい事は半分も言えなくて。(笑い)
辛光洙、もっと言いますと原敕晁さんのケースは、本当にこれは辛光洙流のやり方で、すねに傷を持っている総連関係者を集めて、何とかしろと。
結果的に2ヶ月だった。
で、彼は非常に有能だったと。
もっと言いますと、検閲の後に彼らは呼び戻されて、有能で無い人間はそこで全て辞職させられたはずですから、彼は80年に戻ってくる。

ただ、ここでもう一つだけポイントは76年に償還されて80年の4月に日本に来た。
その間にめぐみさんの事件、あるいは地村さんをやったという事はですね。
ポイントは何か?と言いますと、先ほど言ったように、原敕晁さんを拉致するには潜入して人定して決行まで2ヶ月なんですね。
ですから76年から80年の間に、そのベテラン工作員がずっと教育を受けていたなんて事は有り得ないんですね。
数ヶ月で戻ってきて、拉致して戻る。
また作戦で来て戻ってるのは間違いない。
それが一つの例が未遂事件の時に、目撃されているということです。
ちょっと話が中途半端になりましたが、後は質問で受け答えたいと思います。

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