国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

特急つばめガールは、GHQの置き土産?

2020-01-02 22:47:06 | 国鉄思いで夜話
皆様、特急「つばめ」と言えば、若い方ですと、九州新幹線の「つばめ」を思い出される方も多いかと思います。
我々の年代ですと、岡山から九州方面に走っていた列車、もしくは、新幹線開業前に東京~大阪間を走っていた列車名と言うことで覚えている方も多いかと思います。

今回のお話は、戦後復活した客車特急つばめ・はと誕生秘話として、昭和27年に発行された
桜木町日記を参照しながら書かせていただきました。

国鉄にとって、「つばめ」は特別な列車であり、これは戦前の世界恐慌時(1929年)昭和4年に行われた特急列車の愛称一般公募結果をもとに命名されたものもので、超特急の愛称として。「つばめ」が選ばれました。
もっとも、当時は、「燕」と漢字で書かれていたのです。

戦前から国鉄を代表する特急列車の愛称名であることは、変わりなく、国鉄では球団を作ったときもスワローズ(現在のヤクルトスワローズは、国鉄スワローズが身売りされたため)を名乗ったほか、国鉄バスも「つばめ」マークが取り付けられました。
現在も、JRバスにつばめマークが描かれていますが、国鉄バスの伝統を引き継ぐものと言えそうです。(余談ですが、西日本JRバスは発足当初つばめマークを使用していなかったのですが、最近は復活しているようですね)

さて、話がすっかり脱線してしまったので元に戻しましょう。
特急つばめなどの優等列車も戦争の激化により特急列車は廃止されてしまい、実に昭和19年の時刻表(復刻版)を参照しますと、急行列車(東京発鹿児島行き)1列車の他門司行き二本、広島行き(呉線経由)一本、大阪行き夜行一本の計五本という寂しさです。
そして、終戦を迎えた国鉄では、戦後昭和24年国鉄発足直後に特急列車の復活を試みることになりました。

国鉄としては、日本一の代表列車にしたいという思いがあったのですが、当時は占領中であり、何か事故で列車が遅れると最優先で運転されるのは軍用列車(進駐軍専用列車)であり、特急を運転した場合、特急が遅れてしまうことになるため具合が悪いと言うことで、特急列車に優先権をということで、GHQと交渉することとなりました。

当時の国鉄の輸送事情では。連合軍列車>急行列車>普通列車>貨物列車という序列があり、国鉄としては、最上級の列車である特急を最優先で走らせられる位置に持っていきたいわけで、特急列車>連合軍列車>急行列車>普通列車>貨物列車になるように交渉をするのですが、当然のことながら、GHQは、連合軍専用列車を最優先で走らせるようにと言うことで、首を縦に振りませんでした。

粘り強い国鉄側の交渉で、特急列車>連合軍列車>急行列車>普通列車>貨物列車の序列が認められることとなりました。

その次に国鉄としては、特急列車の時刻などを決定して相談に行くことになるのですが、これについては、戦前の「特急燕」のダイヤをほぼ踏襲(9時間運転)、列車名は「へいわ」で行こうと言うことで、東京9:00発、大阪は12:30発(戦前の燕は、東京~神戸間の運転であり、大阪は13:00発であった)のダイヤを設定しようとしたのですが、ここでGHQの運輸局側から、次のような物言いが付いたそうです。

優等列車の同時発車にすべきであると。

下図、昭和15年復刻版時刻表参照



戦前の時刻表を見ますと、下り列車は東京9:00発、上り列車は大阪始発13:00(始発は神戸0:20)となっていました。


その辺を、桜木町日記から引用してみますと。
「主要列車というものは、東京と大阪を同時刻に出すべきである。しかもその列車番号とか名前とか変えるべきではない、現にニューヨークセントラルで一番いい汽車は、トウエンティス・センチュリー号(20世紀号)というし、又ペンシルバニア鉄道のブロードウエイリミテッドと言う汽車の名前は、長年同じ名前で同じ時刻に出ている。国鉄もそういう列車が決まったらそのままで出すべきだ。」との意見であった。


引用終わり

と言うことで、この運輸局の一声で「へいわ」の運転時刻は東京・大阪とも同時刻に出発となったそうです。


昭和24年9月から運転を開始した、「特急へいわ」運転を開始してみると、中々評判も良く同年中に公募で「つばめ」に再度愛称を変更することとなり、(へいわは昭和25年1月つばめに改称)されました。
この成功に気をよくした国鉄は、今度は姉妹列車を出すこととなり、これを「はと」と名乗ることにしました。
ここに、「つばめ・はと」の二つの列車が誕生することになるのですが。ここでも、GHQから横やりというわけではないのですが、アメリカの主要列車には女性のアテンダントが乗務しているので、日本でも実施すべきだと言われたそうです。
更につばめガール・はとガールの制服に付いても、GHQの運輸局が事細かく指示を出してきたそうで、アテンダントの面接試験にも立ち会うという熱心さであったそうです。

この辺を再び桜木町日記から引用したいと思います。

ところが、この特急を出したところ仲々評判もよく、収入もいいので、今度は「はと」も出すことになった、「はと」も十二時半、相互に出せ、ということであったので、昭和二十五年五月十一日特急「はと」も十二‘時半東京大阪発ということで運転を開始した。
 このため、戦後の特急は東京と大阪の始発時刻が戦前のように違うということにはならなかった。
 つまり時間もアメリカ式の特急になったわけで、国鉄でもこれは国際列車としても大いにいいものにしようと考えていた。すると今度運輪局では、「アメリカの主要列車にはしばし女のきれいなアテンダントが秉ってぃる、日本でもアテンダントを乗せたらどうか、これは是非必要だ。そして国際列車にしろ」ということを云って来た、国鉄側でもそれはいいというので早速賛成し、部内からミスつばめ、ミスはとを募集することになった。
 運愉局でもこのミスはと、ミスつぼめには殊の外熱を入れ、御苦労にもその詮衡試験には立合うというわけで、試験当日には、シヤグノンやブレーデンなどが来て、熱心に見て行った。この試験は東京と大阪両方で行われた。

 ところが、この試験の結果、ミスはと、ミスつばめが決まると、今度はそれにふさはしい制服を作ることになった、ところが運輸局ではこの制服のデザインまでも見せろと云うわけで、早速見せると、この襟はもう一寸短くした方がいいといったような意見まで出て意気仲々盛んであり、大変な内面指導ぶりであった。
 こうして東海道線の旅行者から親しまれているミスつばめ、ミスはとが世に出ることになったのであるが、これにも強い運輸局のリコメンデーションがあったわけで、これなどは、占領秘話の中でも極めて明るいものであろう。


と言うことで。昭和35年の151系化まで親しまれた、つばめガール・ハトガールですが、占領軍GHQ運輸局の強い推しがあって誕生したと言うお話でした。

追伸
東京では、部内からの選考でしたが、大鉄局は新たな臨時職員として募集したそうで、つばめ廃止時には多くのつばめガールは退職、はとガールは部内配転が行われたようです。


にほんブログ村 鉄道ブログ 国鉄へ
にほんブログ村

にほんブログ村 鉄道ブログへにほんブログ村

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 食堂車と営業事業者割り当て... | トップ | 万博こぼれ話 新大阪駅が簡易... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国鉄思いで夜話」カテゴリの最新記事