皆さん、こんにちは。
佐賀大学の西山です。
最近、商店街の橋本さんという方に案内されて、
結構商店街の色々なところを回らせてもらっている。
特に呉服元町アーケードの近くが中心であるが、
こんなにもというくらい、
私は意外で悲惨な光景を目の当たりにした。
そう、先日の商店街トリートメント活動でも
参考にした場所であるが、窓ノ梅の周辺地域だ。
特に窓ノ梅の裏口など一見すれば見えないから、素通りする場所だ。
だが見えない場所は入り込んでいくとそのずさんな姿を露出してくる。
一説によると、人目を阻む闇の部分であるが故、
高校生同士の不法行為も行われ、警察通報騒動も
あったという噂もあるほどだ。
確かによく考えれば、
迷路のようで未知なる世界を探検する気分を味わえる。
そしてちょと神秘性が魅力な場所でもある。
きれいだからではない、奥まっているが故の
危険な感覚と緊張感からだ。
そして、なぜか明らかに汚れている。。。
浮浪者の影響もあるだろう、倉庫のような内部には
ビンや空き缶もあり、タオルケットのようなものさえ見受けられる。
浮浪者の雨宿りや住居にはもってこいの場所であろう。
しかしなんとも「汚い」のが印象に残る。今後もゴミが増える気配もあり
浮浪者のたまり場になる確率も高いのではと判断した。
また佐賀は「水路」が通っていて県外の方から注目されているが、
佐賀の自慢の一つである「水路」でさえ、
汚染の危機が迫っている。
奥まった水路には、多数の食べ後のパックや
飲みかけの空き缶やビニールなどが散乱して
「きれい」というには程遠いものがある。
このまま放置すれば、確実にゴミは増える一方だろう。
それは人間の感覚として、ココはゴミ箱同然の場所だという錯覚が
できあがるからだ。
まさに「ゴミがゴミを呼ぶ世界」が、そこには形成されるのだ。
こういう感覚を抱かせてはいけない。
誰だって「だめなこと」ってわかっている。
けれど、一時のそして自分だけの“楽さ”を求めて「ポイ捨て」をする。
その後どれだけの苦労をもって
多くの人がその後始末をするか知ってか知らぬか、である。
そういう意味で「人間が場所に抱く感覚」って大事であり、
ある意味では「紙一重」でもある。
人間の本性って怖いもので、心理的には2つの側面を持つと思う。
「きれいにしなければ」という美的感覚を重視する自分と
「ポイ捨てしてもよかろう」という安易な行動に走る自分。
この行き来の中で、時点での集団として、また個人として
世間体の存在に配慮しつつ、自己判断を下す。
時として、それが清掃活動をしている横での「ポイ捨て」行為を引き起こす…。
言ってみれば、「ポイ捨て」も「きれいにしよう」という行動も
紙一重である。
私が思うに、人間はその際の自分の気分等の複雑な要因によって
楽か苦のどちらかの方法を瞬時に選択している。
私が清掃活動をする動機も
「まちづくり」の大切さを知って自己喚起させるためであり、
実はこういう「きれいにしょよう」という活動を通じて
自分に対しての「ポイ捨て禁止令」を暗示させているとも思える。
清掃活動は本当に良い活動である。
その活動には「自己への啓発」と「他人への啓発」が同時に存在するからだ。
「ゴミがゴミを呼ぶ世界」を創らないように
美的な景観づくりがいかに重要かを多くに皆さんに認識してもらえたら
光栄である。
そして清掃活動の意味が自己啓発と他人啓発の両観点にあるということを
皆さんにご理解頂けたら幸いである。
今回は、内容が難しく、長文になったことを
お許しいただきたい。
佐賀大学の西山です。
最近、商店街の橋本さんという方に案内されて、
結構商店街の色々なところを回らせてもらっている。
特に呉服元町アーケードの近くが中心であるが、
こんなにもというくらい、
私は意外で悲惨な光景を目の当たりにした。
そう、先日の商店街トリートメント活動でも
参考にした場所であるが、窓ノ梅の周辺地域だ。
特に窓ノ梅の裏口など一見すれば見えないから、素通りする場所だ。
だが見えない場所は入り込んでいくとそのずさんな姿を露出してくる。
一説によると、人目を阻む闇の部分であるが故、
高校生同士の不法行為も行われ、警察通報騒動も
あったという噂もあるほどだ。
確かによく考えれば、
迷路のようで未知なる世界を探検する気分を味わえる。
そしてちょと神秘性が魅力な場所でもある。
きれいだからではない、奥まっているが故の
危険な感覚と緊張感からだ。
そして、なぜか明らかに汚れている。。。
浮浪者の影響もあるだろう、倉庫のような内部には
ビンや空き缶もあり、タオルケットのようなものさえ見受けられる。
浮浪者の雨宿りや住居にはもってこいの場所であろう。
しかしなんとも「汚い」のが印象に残る。今後もゴミが増える気配もあり
浮浪者のたまり場になる確率も高いのではと判断した。
また佐賀は「水路」が通っていて県外の方から注目されているが、
佐賀の自慢の一つである「水路」でさえ、
汚染の危機が迫っている。
奥まった水路には、多数の食べ後のパックや
飲みかけの空き缶やビニールなどが散乱して
「きれい」というには程遠いものがある。
このまま放置すれば、確実にゴミは増える一方だろう。
それは人間の感覚として、ココはゴミ箱同然の場所だという錯覚が
できあがるからだ。
まさに「ゴミがゴミを呼ぶ世界」が、そこには形成されるのだ。
こういう感覚を抱かせてはいけない。
誰だって「だめなこと」ってわかっている。
けれど、一時のそして自分だけの“楽さ”を求めて「ポイ捨て」をする。
その後どれだけの苦労をもって
多くの人がその後始末をするか知ってか知らぬか、である。
そういう意味で「人間が場所に抱く感覚」って大事であり、
ある意味では「紙一重」でもある。
人間の本性って怖いもので、心理的には2つの側面を持つと思う。
「きれいにしなければ」という美的感覚を重視する自分と
「ポイ捨てしてもよかろう」という安易な行動に走る自分。
この行き来の中で、時点での集団として、また個人として
世間体の存在に配慮しつつ、自己判断を下す。
時として、それが清掃活動をしている横での「ポイ捨て」行為を引き起こす…。
言ってみれば、「ポイ捨て」も「きれいにしよう」という行動も
紙一重である。
私が思うに、人間はその際の自分の気分等の複雑な要因によって
楽か苦のどちらかの方法を瞬時に選択している。
私が清掃活動をする動機も
「まちづくり」の大切さを知って自己喚起させるためであり、
実はこういう「きれいにしょよう」という活動を通じて
自分に対しての「ポイ捨て禁止令」を暗示させているとも思える。
清掃活動は本当に良い活動である。
その活動には「自己への啓発」と「他人への啓発」が同時に存在するからだ。
「ゴミがゴミを呼ぶ世界」を創らないように
美的な景観づくりがいかに重要かを多くに皆さんに認識してもらえたら
光栄である。
そして清掃活動の意味が自己啓発と他人啓発の両観点にあるということを
皆さんにご理解頂けたら幸いである。
今回は、内容が難しく、長文になったことを
お許しいただきたい。