紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

Death Note

2006-10-28 23:51:07 | ドラマ
 昨日はとびとびだけど、「Death Note」の映画をテレビで見た。ストーリーやディティールはともかく(なんせ「とびとび」なので、「そのできごとの前」に何があったのかも判然としなかったりする)、作者のテーマへの意図についてとても興味深く思った。

 「人の死を思うままに操れるとしたら?」

 これは凶悪な犯罪者に対して厳しい罰を望む集団心理への警告なのかもしれないと思ったんだけど。
 たとえ「罰としての死」だとしても、「殺す=生きる事を奪う」ことができるのだろうか。逆に「殺人への臨界点」が低くなっているからこその「死をもって償わせる」ことへの躊躇はあった方がいいのではないだろうか。

 それよりもむしろ、被害に遭われた方々への手厚い保護と、同様の犯罪を生まないための根本的な対処に力を入れていただきたい。目先の、付け焼き刃みたいな対処ではなく。

 「凶悪で反省なき犯罪者には、問答無用に厳罰を」の声がほとんどで、でもどうしてもその意見に釈然としなかったのは、どんどん「死ぬこと」や「生きる事」の意味が軽く薄くなっていくことに、背筋が寒くなるような、足元が崩れて行くような恐ろしさを感じたからである。

 死神の持つ「Death Note」を手に入れて、凶悪で救い様のない犯罪者の名前を書き込み、次々と死に至らしめる主人公ライトは、「これで犯罪のない平和な社会ができる」「世界が変わる」と喜ぶが、自分が追いつめられるにつれ、罪のない人間までをも「Death Note」に書き込んで殺してゆく。

 安易に他人の死を望む事は、やはり穴を2つ以上掘ってしまうことなのだ。しかも一度「Death Note」を使ってしまえば、どんどん加速をつけていくようでそれも浮ゥった。死神に「おまえは本物の死神以上に死神らしいな」と言われてしまう程、ライトの感情は希薄になってしまう。

 なんだかストーリーは頭の横を通り抜けて、メインテーマだけが、ずかずかと心に入り込んで来るようなドラマだった。 

 自分も他人も、最小限「生きていること」が尊重されるにはどうすればいいのか、国を動かすような賢い人々には、充分に考えていただきたいものである。このままじゃ、かなりヤバいのでは。

 と、たまに柄にも無く真面目なことも考えてしまうから、PCに接続拒否されてしまったりするのである。

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