紙魚子の小部屋 パート1

節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物のあれこれ、家族漫才を、ほぼ毎日書いています。

ウェルカム、カニさん!

2006-10-31 23:39:37 | ファミリー
 今日のお昼前にスーパーへ行ったら、「生ズワイガニが2匹入りで580円也」のパックを見つける。とりあえずはおばあちゃんに電話を入れ、作戦会議。
 「もしもし、紙魚子です。カニが2匹で580円です。買うべきでしょうか、どうぞ」
「えらい安いなあ・・・身が入ってないかもしれへんけど・・・買うたら? どうぞ」
 まるでバクチだ。

 でも北海道に行った時に、鮮魚スペシャリストのおばあちゃんが吟味してカニを買い、クール宅急便でウチに送り、料理の段になってミソ抜きのカニであることが判明した。北海道でカニを買ったら、かならず「ミソもつけて」と念を押す事が必要なのだ。

 カニのパックの重さを量り、カニの足が何本付いているかを確認の上、選びカゴに入れる。お兄ちゃんはカニ嫌いなのでビーフシチューを作る事にし、2パック購入。他の4名はカニさえあれば、他に何もいらない。あのおかずを多数必要とするH氏でさえ、他におかずがあると、カニの味を邪魔するから、とカニ・オンリーを許してくれる。

 おばあちゃんが一番大きな鍋で、カニを茹でてくれる。甲羅を下にしてひたひたの水からカニを入れて、沸騰してそのまま15分茹でる。茹で過ぎると身が溶けてしまうので、時間厳守のこと。

 茹でた後は、食べやすいように解体作業に入る。甲羅を取り、足を切り、割り、腹を削ぎ、垂ニ醤油と共に大盛りのカニを二皿、食卓へ。流石に20年近くカニ料理をしているので、解体の手順は覚えた。

 しかし命懸けでロシアの領土付近で取って来たかもしれない漁師さんの苦労を思うと、安すぎるカニが申し訳ない。でも、ああ、美味しかったのでした! カニがおでましすると、もうすぐ冬、とちょっと焦る。 

昨日今日のできごと

2006-10-30 21:27:57 | ファミリー
 今日はKちゃんの模試である。
 昨日必死で山鰍ッ勉強の手伝いをしていたんだけど、漢字の部首の名称(「くさかんむり」とか「にんべん」とか)の問題を出している時に、「態」「恋」など下方に「心」がつく部首の名称をみて、爆笑大会になった。
 
 その名も「したごころ」。

 算数では、私が小学生のときには見たこともないような、難解な図形の面積を求める問題に驚く。私の苦手な算数だったので、彼女に教えられるかどうかドキドキだったが、答えをみたら、ちゃんと道筋の理解が出来た。ああよかった! 苦手教科の理解を妨げるものは、能力や努力以外に、「苦手意識そのもの」だったことが、今さらながら判明。

 「どうせできない」「ほら、やっぱりわからない」という意識で自分自身をしばっていたのかも。これをブレイクするのは、やはり必死のぱっちな努力しかないのかなあ。
 しかし、かつて見た事がないくらい、この連休も必死で勉強をしていたKちゃんだった。いつのまに「子ども」を脱皮したのか不明のまま、親は取り残されるのである。 

 今日の午前中は「干し柿吊るし」と洗濯で終了。柿の皮を剥く所までは、おばあちゃんにしてもらっていたので、そんなに手間取るとは思っていなかったのに。2階のベランダの隅の日当りのいい特等席が、「柿のれん」の占領場所になった。その下には古新聞を敷いてガムテープで押さえ、柿汁ガードをする。

 H氏とテレビを見ていたら、遠景に古びた藤の乳母車が佇んでおり、「わあ、懐かしい!」。
「そういえば、昔のオババはみんな、(杖代わりに)あれを押しとったなあ。」
「昔は集団でお婆さんがお寺参りにきやはるとき、石段の下にズラッと藤の乳母車がならんでたわ」
「あの乳母車、年寄りは押してたけど、赤ん坊乗ってるの見た事無かったなあ」
「あ、ほんまや! 乳母車やのにね!」
 と、妙に盛り上がってしまう話題だった。
 そういえば、おじいさんと乳母車、っていうコンビもあんまり見かけないなあ。おじいさんは杖とコンビが定番。

 ウワサをすれば影、というけれど、今日スーパーの前で、明らか農家ルックのおばあちゃんが、ヴィンテージの藤の乳母車を押しているのを目撃した。細めのタイヤが4輪付いた、色も褪せきった廃車寸前。でもおばあちゃんが「どうしてもこれやないと!」と言い張ったためか、ボロボロの枠の部分はビニールテープを巻いて補強してあった。愛車なのであろう。

 (追記)ふと思い立って検索をかけてみたら「矢来車」という名称らしいと判明。藤編みは手づくりなので、やはり高価だけど、品物見てしまうと「いいな、いいな!」とわすれられなくなります。足腰弱くなったら、絶対買おう!っと。どうかこれ以上値上がりしませんように。それとも自分で作れるように、藤屋さんに修行にいこうかな(笑)





老人力話in町家

2006-10-29 23:40:00 | アート
 昨日の話である。

 最近話題の町家のギャラリー、ボーダレス・アートギャラリーNO-MAの秋の企画展「快走老人力 ー老ヒテ マスマス 過激ニナル」の最終イベント、第3回目トークイベントがあった。

 前回2回目のトークイベント、都築響一さんの「珍日本紳士録~わが道をばく進するアウトサイダーおじいちゃん」も、とても行きたかったが、どうにも行ける状況ではなかったので、涙をのんで断念した。

 昨日もどうしても仕事に入らざるを得なかったので、おとといの夜に寂しく「行きたかったなー、行きたかったなー」とひどく残念がっていた。あまり残念がっているので、夫H氏が「代わりにいってこようか?」と申し出てくれた。
 実のところ、その言葉が出るのを今か今かと待ちながら、残念がっていたのだよ、明智くん! 確信犯な怪人二十面相なのである。

 3回目のトークイベントは美術史研究家であり、信楽のMIHOミュージアム館長の辻惟雄氏なのだ。ほんの20年前にはかなりマイナーだった江戸時代の画家、伊藤若冲ら「奇想の画家たち」の再評価の火付け役となった『奇想の系譜』『奇想の図譜』などの著者である。
 NHK教育テレビで10~11月の月曜、夜10:25~10:50に放映されている『知るを楽しむ この人この世界』にも「ギョッとする江戸の絵画」というテーマで講師をつとめていらっしゃる。

 NO-MAでのトークのテーマも、もちろん主に江戸美術だ。「江戸は老人力~若冲、北斎、鉄斎を語る~」というのがタイトルになっている。場所はNO-MAの向かい側、野間清六邸。

 その日の晩ご飯が済み、興味津々で「(トークイベント)どやった、どやった?」とH氏に聞くと、開口一番「すごい町家やったで。庭なんか寺院の庭園みたいに広かったし。町家って、ええもんやなあ~」 ああ、そりゃいいでしょう。町家はくつろげるし、ほっとする場所やん。わかるわかる。

 「あんたの好きな若冲とか、じいさんになってから、ますますパワフルになった北斎とかの話でなあ」うんうん!
 「若冲は京都の人で、オタクとかマニアやったんやな。タイルみたいな絵とか、点描のとか、すごいマニアックな絵を描いてはったんやて。青物問屋の若旦那やったんやけど、絵に専念するために家督を弟に譲って」 そうそう。若旦那やったから絵の具もええの使てはったんやて。年取ってからは禅寺のお坊さんと仲良くて、石で五百羅漢とかも作ってはったみたいよ。京都伏見の近くの深草あたりにあるらしい。
 「ああ、それ言うてはった。変な猿石みたいなやつやろ。スライドでみせてくれはったわ」

 ちなみに夫のお気に入りの、明治から昭和後期まで生きた画家、熊谷守一氏の話やスライドもあったそう。「この人の絵、MIHOミュージアムにあったやろ、こないだの青山二郎の展覧会のとき」 ええっ?! そうだっけ? 見事に覚えていない私。
 ばっちり興味と好みがすれ違う(笑) 

 私の身代わりで出かけたとはいえ、なかなか楽しんで来てくれたようで、うれしい。

「ところで、町家って、ほんまにええなあ」と話が頭に戻る夫H氏。突如、いや~な予感が走る。もしかしたら・・・。「どっかで、いらん町家あったら、欲しいなー。あんたもなんか情報みといてや~。解体して運んで、組み立てて」おいおいおい!
「これで仕事に張り合いできるわー♪ やっぱり目標なかったら、仕事しよ~って気にならへんもんなー」おいおいおい!

 とんだプレ老人力をつけて帰宅したH氏なのであった。

Death Note

2006-10-28 23:51:07 | ドラマ
 昨日はとびとびだけど、「Death Note」の映画をテレビで見た。ストーリーやディティールはともかく(なんせ「とびとび」なので、「そのできごとの前」に何があったのかも判然としなかったりする)、作者のテーマへの意図についてとても興味深く思った。

 「人の死を思うままに操れるとしたら?」

 これは凶悪な犯罪者に対して厳しい罰を望む集団心理への警告なのかもしれないと思ったんだけど。
 たとえ「罰としての死」だとしても、「殺す=生きる事を奪う」ことができるのだろうか。逆に「殺人への臨界点」が低くなっているからこその「死をもって償わせる」ことへの躊躇はあった方がいいのではないだろうか。

 それよりもむしろ、被害に遭われた方々への手厚い保護と、同様の犯罪を生まないための根本的な対処に力を入れていただきたい。目先の、付け焼き刃みたいな対処ではなく。

 「凶悪で反省なき犯罪者には、問答無用に厳罰を」の声がほとんどで、でもどうしてもその意見に釈然としなかったのは、どんどん「死ぬこと」や「生きる事」の意味が軽く薄くなっていくことに、背筋が寒くなるような、足元が崩れて行くような恐ろしさを感じたからである。

 死神の持つ「Death Note」を手に入れて、凶悪で救い様のない犯罪者の名前を書き込み、次々と死に至らしめる主人公ライトは、「これで犯罪のない平和な社会ができる」「世界が変わる」と喜ぶが、自分が追いつめられるにつれ、罪のない人間までをも「Death Note」に書き込んで殺してゆく。

 安易に他人の死を望む事は、やはり穴を2つ以上掘ってしまうことなのだ。しかも一度「Death Note」を使ってしまえば、どんどん加速をつけていくようでそれも浮ゥった。死神に「おまえは本物の死神以上に死神らしいな」と言われてしまう程、ライトの感情は希薄になってしまう。

 なんだかストーリーは頭の横を通り抜けて、メインテーマだけが、ずかずかと心に入り込んで来るようなドラマだった。 

 自分も他人も、最小限「生きていること」が尊重されるにはどうすればいいのか、国を動かすような賢い人々には、充分に考えていただきたいものである。このままじゃ、かなりヤバいのでは。

 と、たまに柄にも無く真面目なことも考えてしまうから、PCに接続拒否されてしまったりするのである。

おわび

2006-10-27 07:36:07 | ノンジャンル
お詫びです。

 昨夜はPCがネット接続できず残念ながらお休みしました。もしご心配をおかけしていたら、ごめんなさい。とてもシンプルな事情です。
 本日も仕事に行きますので、本日深夜にアップする予定です。

 では、よい一日になりますように!