カネサダ番匠ふたり歩記

私たちは、大工一人、設計士一人の木造建築ユニットです。日々の仕事や木材、住まいへの思いを記していきます。

作為なき作意

2007年03月18日 | お茶室のこと
S邸茶室新築工事もいよいよ大詰めとなりました。
左官屋さんの仕上げと共に、庭師さんによる露地(ろじ、茶室における茶庭のことです)作りも完成に近づいてきました。





お茶事に招かれたお客さんは、玄関をガラガラっと入ってからいきなりお茶室に入るわけではありません。
寄付(よりつき)、待合(まちあい)という部屋を経て、服装や心の準備を整え、それから露地に出て、いよいよ
にじり口より茶室に入っていくわけです。





お茶事の流れの中でも、再び露地に出る中立(なかだち)というものがありますから、お茶室と露地は切っても切れない関係なのです。

今回露地を担当して下さったのは、岐阜県養老町の庭師、加代智章さんと彼の友人の南村和也さんです。
加代さんはユニークな発想の持ち主で、「カネサダさん、茶室って個室ですよね・・」なんて、裏や表の千家がひっくり返りそうなことを真面目な顔をして諄々と説くような一面を覗かせたりする反面、今回の露地作成には並々ならぬ情熱を注いで下さいました。





まるで河原にでもいるみたいでしょう。実際に使う石の何倍もの石を現場に持ち込んで、その場にあった石を選択していくわけですから、結果として目に見えるよりも、何倍もの手間がかかっていることになります。

さて、露地作りにおいて必要と言われている心がまえに、「作為の見えるものであってはいけない」ということがあります。自然に限りなく近づけるのが理想なのでしょう。

露地のみならず、あらゆる芸術的なことの全般にわたって、このことは当てはまるのでしょうね。
しかし、どう考えてみても、人間が作るものである限りは、それは作為のかたまりみたいなものです。老境に達した熟練者ならまだしも、駆け出しの私たちみたいな者に作為のない作意なんてあり得るのでしょうか?

それを解くヒントは、加代さんと南村さんを見ていれば解りそうです。
とにかく一生懸命なんです。いい露地にしよう、お客さんの期待に応えようと、毎日寒風に吹かれながら、何度も石を並べ替えては検討して、自分たちの納得いく姿を懸命に追い求めているのです。

仕事に我を忘れて自分を没頭させるということは、作為をもはるかに凌ぐ作用をあるいは引き起こすのではないかと思えるのです。
職人として、その様に自分の心を傾けることのできる仕事にめぐり合うことは、なかなかあることではないでしょうし、それができる時期というのも人生の中では限られてくるでしょう。

私たちの、そして建て主のSさんの気持ちにも呼応するような名前が、このお茶室には付けられました。
ある禅の大家の老師様に命名して頂いたその名前は、

 「忘路庵」

といいます。
忘路庵についてのお話は、また次の機会にさせていただきますね。
コメント
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