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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

1990年代の沖縄旅行 きゃんきゃん喜屋武岬

2020年01月30日 00時00分53秒 | 1990年代の沖縄旅行 いろんな場所編
初めて知ったときは読めませんでしたね。

「きやたけみさき?」「きやぶみさき?」ってな感じです。


ということで、

沖縄本島南端の喜屋武岬でございます。





1990年代後半までは上記の画像だったはずです。

ここはレンタカーや徒歩やMTBで何度も訪れています。




で、いつのまにかピカピカに塗り替えられていました。

確か2000年代初頭だと思います。

この時はホントに塗りたてホヤホヤでしたね。


喜屋武岬からは東シナ海を一望できますから、

絶景の一言でございます。

晴れた日は勿論のこと、

曇天の荒れた海と波しぶきも迫力があり、

自分はむしろ時化たときの荒ぶる波うち際とか、

そっちのほうがインパクトに残っております。


で、画像を見ればわかると思いますが、

この当時は柵がありません。

だから簡単に岬の下を覗き込むことができました。

落ちたら確実にあの世行きなのに、

バカだから行くたびに断崖のヘリまで進んでは、

下を恐る恐る眺めていました。

現在はちゃんとした鉄柵が設置されてますけど、

危険ですから柵を乗り越えようなんて思わないでくださいね。


また、慰霊塔には「平和の塔」という文字が刻んでありますゆえ、

この場所も非常に悲しい歴史がございます。

興味がある方はググってくださいな。





観光スポットとしてお薦めするような喜屋武岬ですけど、

自分が一番印象に残っているのは喜屋武岬そのものではなく、

喜屋武岬の手前での出来事です。


岬へは喜屋武の集落を通っていくのですけど、

その中心部にあたる喜屋武郵便局の、

隣の商店で休憩していた時のことです。

その時はレンタカーで一気に喜屋武岬まで行ってから、

喜屋武周辺を徒歩で巡っていました。

その途中で休憩しようと自販機で飲み物を買ったのですけど、

備え付けのベンチに40代ぐらいのおっちゃんが座っていました。

タクシーが一台停まっていましたから、その運転手さんですね。

買うだけでその場を立ち去ろうとしたら、

アイスを食べながら話かけてくれました。


自分は戦跡巡りをしているというようなことをしゃべったら、

どうやらその運転手さんは地元の人らしく、

親切に色々なことを教えてくれました。


地元の人の話って、ものすごく貴重なのです。

そこに住んでいる人しかわからない情報が得られますし、

戦跡巡りをしていた時は、

自分からは特に話しかけようとはしませんが、

むこうから話しかけれれた時は必ず聞いていましたね。

まぁ…必ずしも有益な情報ではありませんが、

それはそれで聞いていて飽きなかったのも事実です。


その運転手さんからは、

喜屋武やその周辺の「一家全滅」になった場所や、

「佐藤中尉の壕」がどこどこにあるから行ってみなとか、

そのようなことをいろいろ教えてくれましたね。

いつの間にか自分もベンチに座って聞いていましたよ。


中でも一番印象に残っているは、

ひめゆりの資料館についてです。

「あそこの人はみんな女優さんだからな」と言ったとき、

自分は「えっ?」っていう感じで、

どういうことかサッパリわかりませんでした。

その当時は何度も何度もひめゆりの塔や、

隣接する資料館に足を運んでいましたけど、

いきなり「女優さんだね」なんて言われても、

ホントに理解できませんでしたよ。


「あの人たちはね、説明をするたびに泣くんだよな」

「でもな、その人たちに聞いてみな。何年生でどこの所属だったかをさ」

「答えられないんだよな、ひめゆりの人じゃないから」

と、このようなことを言っていましたね。

要するに、資料館のなかでガイドや説明する人は、

生き残りではないのにもかかわらず、

説明するたびに泣いていて、

それを毎日繰り返しているということなんだろうと思います。

だから運転手さんにとっては「女優さん」なんです。


「そうなんですかぁ~」ぐらいしか返事ができませんでした。

実際、ホントにそうかどうかわかりません。

1990年代当時、その資料館では元ひめゆりの方々が、

ガイドや説明をしていたのは知っていましたし、

自分もその方々を見たことがあります。

また、学芸員やスタッフの人がガイドをしていたのも覚えています。

現在も同じじゃないのかなとは思います。

ただ、元ひめゆりの方々は、

やっぱり高齢化が進んでいるでしょうから、

その頻度は少なくなっているのではないでしょうか。

ここ最近は沖縄さえ行っていないのでわかりませんが…


しかし、泣いて説明している場面に遭遇したことがありませんから、

どうでしょうね…

かといって、わざわざ嘘をついているとも思えませんし…

その時は苦笑いしかできませんでしたね。

今となっては懐かしい思い出です。
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渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編⑨

2020年01月27日 00時00分09秒 | 渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い
沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第7回②

  • 西山A高地に住民が集合したのは軍の意思によるもの
  • 将校会議は証言をそのまま記録しただけ

 今回は「将校会議は証言をそのまま記録しただけ」についての個人的見解です。少し長くなりますが、以下に太田氏の主張を引用します。


 「将校会議はなかったということを証明するために、それをおこなう場所さえなかったと曽野氏は説明する。将校会議などやろうとおもえばどこでもできる。陣地の設備など問題ではない。
陣地になんの設備もなかったというのもおかしい。通常、陣地の移動は設備のある場所を選ぶ。「西山A高地」は軍隊用語であり、陣地名とおもわれる。(中略)西山A高地は要塞の場所らしいが、その場所に、その翌年(前年の間違いと思われる──引用者注)からきていた設営隊や赤松隊は、そこに陣地もつくらずに何をしていたのだろう。しかも、西山A高地を“複郭陣地”とよんでいる。複郭陣地は高度の防御陣地のことである。」


 以上が太田氏の主張になります。

 まず言っておかなければならないのは、残念ながら疑問点がことに多い文章だということです。
 「曽野氏は女だから軍隊を知らない」と、この論争で曽野氏を差別的に批判した太田氏ですが、軍隊経験がある当の本人も「軍隊を知らないのではないか?」という疑問がわいてくるのです。

 「西山A高地」は西山(北山=ニシヤマ)とA高地について、それぞれが別の場所であることは前述しました。
 そのような誤解はともかく、太田氏によると軍隊は通常「陣地の移動は設備のある場所を選ぶ」らしいのですが、仮にそれが本当だとしたら軍隊は「設備のない場所には布陣しない」のでしょうか。常識的に考えるならばそれは全くあり得ませんし、名称や呼称のみしかないというのは、なにも軍隊だけに起こる事象ではないはずです。
 もっとも、引用の後半部分を読んでみると「赤松隊や設営隊がいたにもかかわらず、陣地や設備を構築していない」というような前提があることになると思います。
 従って「ある神話の背景」や赤松大尉を含む元軍人の証言や主張する「地下壕陣地はなかった」に対して、太田氏は彼らの主張が全くのデタラメで、彼ら全てが嘘をついている、ということになるではないかと思います。

 それに加えて「高度な防御陣地」であるはずの「複郭陣地」があったのだから、「地下壕陣地」がないほうがおかしい、ということにもなるのではないでしょうか。

 そもそも太田氏のいう「高度の防御陣地」とは何を指すのでしょうか。これは本人に聞いてみなければわからないかもしれませんが、「完成された防御陣地」については、沖縄戦のなかでも激戦地で有名な安里五二高地(シュガーローフ)を例にして、以下に引用することが可能だと思われます。


 「この小さく裸の岩山は、その前面の斜面をトンネルで結ばれた機関銃陣地の十字砲火で、堅固に防護されていた。反斜面にもまた機関銃座が設けられ、相互にそして前方の機関銃座とトンネルで連絡され、さらに通路、前面の斜面、頂、そして側面を守る小銃手、軽機関銃手、そして擲弾兵(てきだんへい──引用者注)がひしめく塹壕であった」ゴードン・ロトマン イアン・パルマー 齊木伸生訳『太平洋戦争の日本軍防御陣地 1941-1945』(大日本絵画 2006年)


 ちなみに現在の安里五二高地は貯水施設の建設や商業施設、それらに伴う様々な開発によって、当時の面影は全くといっていいほどなくなりました。

 上記のような「高度な陣地があった」と、頑なに信じて疑わないというような態度をうかがわせる太田氏の主張ですが、では本当に渡嘉敷島にはそのような陣地があったのでしょうか。

 実は沖縄戦の日本軍、具体的にいえば沖縄に駐屯した陸軍の第三十二軍が置かれた状況や実情をつぶさに観察すれば、そもそも渡嘉敷島を含めた慶良間諸島に「高度な防御陣地」を構築する計画さえなかったことがわかります。これはなにも2020年に発掘された新事実ではなく、この論争がおこなわれた1985年当時でも資料をちゃんと考察すれば、簡単に理解できることでもあったのです。
 つまり最初から渡嘉敷島を含む島嶼部に、太田氏の主張するような「高度な防御陣地」を構築する計画も必要性もなかったことが言えるのです。

 沖縄を担当する第三十二軍は布陣当初から防御だけを考え、上陸するであろう米軍をできるだけ「足止め」するようにと、沖縄本島に様々な防御陣地を構築しました。上記引用の安里五二高地は比較的有名ですが、ほかにも最近では「ハクソーリッジ」という映画での舞台となった前田高地や、嘉数台公園として整備されている嘉数高地も有名で、その場所には慰霊塔にまじってコンクリート製のトーチカ跡や、防御陣地の入り口が戦争遺跡として現在でも残されております。
 また、司令部がおかれた首里城の地下やその近辺にもありました。陸軍ではありませんが那覇市小禄の「海軍壕」も同様です。 
 「高度な防御陣地」ゆえに、上記の場所はそれぞれが激戦地となりました。米軍はカミカゼ攻撃の恐怖にさらされたうえ、予想以上の損害を出したと言われております。

 米軍をできるだけ「釘付け」にして侵入を食い止めようというのが基本方針ですから、「沖縄は捨て石にされた」という批判もありますが、その是非はともかく、現地軍にしてみればとにかく沖縄本島に兵力を集中させなければなりません。
 しかし、兵力や資材が極めて限定されているうえ、その補給も全くといっていいほど期待できない戦争末期の実情は、沖縄本島内でも全てが不足していたといっても過言ではありません。
 
 軍事学的観点の基本として兵力を分散させるということは、それをさせればさせるほど弱体化していくということになります。従って第三十二軍には慶良間諸島みたいな、本島から遠く離れた島嶼部にまで、米軍を食い止めるような「高度な防御陣地」を構築する余裕などないことがわかるのです。繰り返しになりますが、このことは1985年当時でも十分に理解できるものなのです。

 その代わりに考え出したのが「小型ボートによる特攻」でした。
 渡嘉敷島では舟艇攻撃が任務の第三戦隊と、舟艇基地群の建設とサポートが主任務の第三大隊が駐屯していました。しかし舟艇基地群が完成していないのにもかかわらず、第三大隊は本島防衛のために配置転換され、その主力部隊は渡嘉敷島から去っていきます。

 このような実情があったことを考え、太田氏が信用しない元軍人たちの証言である「地下壕陣地はなかった」等を突き合わせてみれば、舟艇基地群は造ったかもしれないが「高度な防御陣地」は造らなかったのではないかという仮説が成立するのです。
 なお、この件に関しては当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる鉄の暴風」にて詳しく考察しております。ご興味があれば一読をお願いします。

 ここで一番問題にしなければならないのは、太田氏が頑なに元軍人の証言や軍側の資料を信用しないという姿勢です。
 「信用しない」こと自体は全く問題ありません。しかし証言や資料をロクに考察もせず、分析すらしないで突き放しているような、偏りがあるような気がしてなりません。要は信用しないその理由に、論理的かつ合理的なものが見えてこないのです。

 太田氏は「女だから軍隊を知らない」と書いておりますが、軍隊経験がある太田氏こそ「軍隊を知ろうとしない」のではないかと危惧した次第であります。

次回以降に続きます。


参考文献

防衛庁防衛研究所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社 1968年)
八原博通 『沖縄決戦』(読売新聞社 1972年)
大田嘉弘 『沖縄作戦の統帥』(相模書房 1984年)
戸部良一他 『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(ダイヤモンド社 1984年)
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渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編⑧

2020年01月19日 00時08分17秒 | 渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い
沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第7回①

  • 西山A高地に住民が集合したのは軍の意思によるもの
  • 将校会議は証言をそのまま記録しただけ

 第7回の要点は上記の二つになると思います。

 一つ目の軍による集合についてですが、住民たちは米軍の攻撃が始まると各々の避難小屋や洞穴に隠れていたのに、全てが軍の意思が働いていたからこそ、それをわざわざ退去させて西山A高地へ集合させたということになります。そしてそういった指示を出していたのは「ある神話の背景」に登場する駐在巡査であり、むしろ「かり出された」のである、ということになります。
 ちなみに駐在巡査は「ある神話の背景」にて「自決命令は聞いていない」というような証言をしていると同時に、駐在巡査について太田氏は自決命令を出した軍側の「共犯者」という主張をしております。

 また「西山A高地に集合」というのは、住民たちが実際に集合した場所とは違うということも付言します。厳密にいえば西山は北山(方言でニシヤマと発音)」で、その北山とA高地は別々の場所にあります。
 そういった意味では少々混乱しておりますが、1985年当時は自決場所が確定できなかった事実もあるようですし、「鉄の暴風」でも恩納川原で自決したという明らかな誤認もありますから、こういった間違いは仕方がないものではないかと思います。

 住民たちに「集合しろ」あるいは「移動しろ」といった指示が出ていたのは間違いありません。ただし人によってはそれが上記の巡査だったり役場の職員だったり、あるいは防衛隊員だったりとまちまちな証言が多く、どのような経緯で指示が流れていったのかは現在でも不明なようです。それだけ混乱していたということぐらいしか判明しません。

 そういったなかで太田氏の主張は「軍の意思があったからこそ住民は集合させられた」のであり、その意志の中には「自決命令」も含まれている、ということになるのだと思います。
 そして住民が集合させられたという事実は、その主犯でもある赤松大尉が知らなかったはずはないとして、彼がウソをつくことを糾弾しているということになりますので、以下、長いですがわかりやすいように引用いたします。


 「米軍上陸が三月二十三日(空襲が始まったのが3月23日──引用者注)で、その翌日、赤松隊は西山A高地(原文ママ──引用者注)に移動している。その陣地の位置がまた問題である。赤松隊長自身、その移動先の陣地の場所を最初は知っていなかったと『ある神話の背景』に書かれている。(中略)住民たちが、赤松隊(第三戦隊──引用者注)がどこに移動したか知るはずがない。ところが、住民が新陣地である西山A高地の赤松隊の陣地付近に集まってきたのは、赤松隊が陣地をそこに移動したその当日である。住民集結には誘導者がいたのだ。軍の意思が働いていたのだ。」


 ちなみに、ここでいう赤松隊(第三戦隊)はその「陣中日誌」や「戦闘詳報」等を読む限り、全部隊が整然と一斉に移動したのではないようです。各中隊規模の部隊が米軍の攻撃を受けながらそれぞれ所定の場所に移動しました。
 赤松大尉が直接指揮する戦隊本部は集団自決の前日である3月27日に所定の位置に布陣し、一部の部隊は集団自決後に完了したそうです。

 「ある神話の背景」における「自決命令は出していない」「陣地の場所も知らなかった」「住民の集合も知らなかった」という赤松大尉の証言に対して、全て嘘だという太田氏の反論が、この場においてその理由とともに掲示されました。

 太田氏が主張するように、赤松大尉が嘘を言っているのかどうかについては、この論争の核心部分でもあると思われます。従って曽野氏はどういった内容で再反論しているかについてということになりますが、具体的な内容については「「沖縄戦」から未来に向かって」を取り上げた時に言及します。

 ここでは個人的見解として赤松大尉が嘘つきかどうかの考察をしたいと思いますが、「自決命令は出していない」「陣地の場所も知らなかった」「住民の集合も知らなかった」に関しては、嘘ではない可能性が高いという仮説を提示します。

 その理由として、まず「陣地の場所も知らなかった」については、赤松大尉自身が陣地を知る必要性が自決直前までなかった可能性があることです。
 「住民の集合も知らなかった」については、集団自決直前まで住民を把握することは困難かつ、把握する必要性がなかった可能性が高いという仮説が提示できるからです。

 この点については当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる鉄の暴風」にて詳しく考察しておりますから、ここではこれ以上は言及いたしません。興味のある方は是非ご一読をお願いいたします。


次回以降に続きます。
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渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編⑦

2020年01月17日 00時01分30秒 | 渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い
沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第5回と第6回④


 「軍に掌握された防衛隊の合流と、厳重に管理され後に追加された手榴弾が持つ意味は、指揮官である赤松大尉による集団自決の命令・意思・許可があったにちがいない」というのが太田氏の主張です。
 今回は上記の主張に説得力があるか、あるいは納得できるものなのかを考察していきたいと思います。

 最初は防衛隊が完全に掌握されていたかとどうかいう観点についてです。まずは太田氏の主張を引用します。


 「防衛隊員が軍の掌握下から完全に離れておれば、個々任意に渡したとも考えられるが、あのとき防衛隊員は軍の完全な掌握下にあったのである」


 集合した住民の中に防衛隊が合流してきたという事実は、多数の住民によって証言されておりますので間違いありません。
 ただし、それが命令なのか自発的なのかははっきりしていません。太田氏は少なくとも自発的ではないという主張をしているということになりますが、一方で下記に掲示する元防衛隊員の証言もあります。


 「第二中隊へ大隊長の命令が伝達されておりました。「敵はA高地まで迫っている。もし、西山陣地へ一五〇メートル以内まで接近するならば、貴隊は、一人十殺の敢闘精神で最後の突撃を敢行せよ」というものでした。その時中隊長は無線機を壊し、酒なのか水なのかわからんが、盃を交わしていました。
二十二歳の富野中隊長はひじょうにうわずった声で「戦闘準備!」と叫んで、しのつく雨の中をマントをかなぐりすて、抜刀して勇んでいました。私は、あわてて家族の方へ帰っていきました。「手榴弾二発ではどうにもならない」、死ぬ時は家族と一緒にというのが率直な気持ちでした。」渡嘉敷村史編纂委員会編『渡嘉敷村史 資料編』(渡嘉敷村 1987年)


 この論争は1985年におこなわれており、上記の証言が採録された「渡嘉敷村史」の発行は1987年ですから、真偽のほどはわかりませんが、1985年当時の太田氏はこのことを知らなかったかもしれません。
 後から出てきた資料で揚げ足取りをする気はありませんが、同時に複数の防衛隊員が自決前に合流した事実など、そういった状況を踏まえて考慮すれば、上記の証言者が唯一あるいは特例的に「家族の方へ帰って」いったとも思えません。同じようにして所属部隊から抜け出し、集合した住民たちと合流した防衛隊員が、絶対にいないとも言い切れないのです。
 また、渡嘉敷島の例ではありませんが、防衛隊の隊員が勝手に部隊から離脱したという事実は、既に「鉄の暴風」にて採録されています。このような状況を考慮すれば、渡嘉敷島でも防衛隊員の離脱は可能性が高いと言えそうです。

 こういった状況をわかりやすく表現すれば、防衛隊員は「自分の意思で持ち場を離れることもできた」ということになります。従って太田氏のいう「掌握された防衛隊」ではない、ということになるのではないでしょうか。つまり赤松大尉の率いていた第三戦隊は、防衛隊、あるいは個々の防衛隊員を完全に把握できていなかった可能性があるということです。

 次は「厳重に管理された手榴弾」についてです。以下に太田氏の主張を引用します。


「防衛隊員が、指揮官の命令がないのに勝手に武器を処分することは絶対に許されない行為である。それがわかったら、それこそ大変なことになる。(中略)軍の生命である武器を指揮官の命令なくして処分することが何を意味するか、容易に理解できることである。防衛隊員を通じて手りゅう弾が住民に渡された事実を、赤松が知らなかったはずはない。「知らなかった」とは白々しい言葉である。」


 防衛隊員が2発の手榴弾を支給された事実に関しては、当の防衛隊員や元軍人の証言によって判明しておりますので間違いありません。
 ここで問題になるのは「追加された手榴弾」だと思います。その追加された手榴弾が持つ意味に対して、太田氏は赤松大尉による自決の命令・許可・意思があったとする主張なのですが、そもそもどういった経緯で追加されたということについては全く不明な状態です。「鉄の暴風」も同様です。

 防衛隊員が持ち出したということに関していえば、武器弾薬を取り扱う以上、彼らは持ち出すことが可能な状況だったかもしれません。ただし、勝手に持ち出したかどうかについては、追加された経緯が不明という点が払拭されない限り、判別することができないと思います。

 また、「厳重に管理された」というのは、武器庫のような施設で物理的に「厳重に管理」されたのか、軍規といった精神的な拘束によって「厳重に管理」されたのか、あるいはその両方なのでしょうか。
 逆に「厳重に管理」されていなかったとしたらどうなるでしょうか。
 この時点では「厳重に管理」されていたかどうか不明なのにもかかわらず、太田氏は何の根拠もなく「厳重に管理」していた、と断定しているということが気になります。

 そういったわけですので、太田氏の主張する「赤松大尉による自決命令があった」その根拠は、手榴弾が追加された経緯が全くの不明であるがゆえに決定的ではなく、数ある仮説の中の一つにすぎないということしかいえません。


次回以降に続きます。
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渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編⑥

2020年01月12日 00時00分22秒 | 渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い
沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第5回と第6回③


 太田氏は「鉄の暴風」の正当性あるいは赤松大尉の自決命令があったとする主張を、第5回と第6回において具体的に掲示しております。
 
 その要点をわかりやすくいえば
  • 「厳重に管理」された手榴弾が住民に渡されるはずがない
  • 防衛隊は完全な掌握下にある
  • 防衛隊が手榴弾を自らの意思で持ち出すことはできない
  • 追加された手榴弾は防衛隊員が決めたことではない
  • 全ては指揮官の命令・許可・意思がなければ成立しない
 ということになるのではないかと思われます。

 この論争は太田氏と曽野氏によるものなので、次はこの点について曽野氏がどのように反論しているかということになります。
 しかし曽野氏の具体的な反論は次回以降、自ら執筆した「「沖縄戦」から未来へ向かって」の連載順に沿っていったほうが無難であると判断しました。従ってその都度取り上げていきたいと思います。
 そういうことでありますから、今回は上記の主張について個人的見解をもって分析・検証したいと思います。

 まずは「厳重に管理」された手榴弾についてですが、太田氏が何をもって「厳重に管理」されていたのかが気になるところでもあります。太田氏の主張が具体的にどのようかを把握するために、少し長いですが第5回から引用させていただきます。

 
「武器管理の常識
 (中略)切迫した状況のなかで、手りゅう弾五十二発が住民に渡されたのだが、そのことがいちばん重要な意味を持っている。
 
 これだけの手りゅう弾は、装備劣悪な赤松隊(第三戦隊──引用者注)にとって、かなりの比重をもつ火力であったはずである。(中略)自分は(赤松氏のこと──引用者注)知らぬと言っていたようだが、防衛隊員が、どういう理由で、自分の意思で、同じ島の住民である非戦闘員に手りゅう弾を渡すのか、その動機や理由が理解できないし、防衛隊員もまた、大切な武器である手りゅう弾を上官の許可なく他人に渡したりすると、軍規上、厳しい処罰を受けるおそれがあることを知らなかったはずはないのである。

(中略)軍隊の指揮官が武器の取り扱いについての注意もなしに武器をあたえることは考えられないのである。」


 最初の気がかりは「厳重に管理」についてというより、手榴弾が「52発」という、明確で具体的にカウントがされていることです。
 「鉄の暴風」では防衛隊員によって32発が持ち込まれ、さらに20発が追加されたという描写を受けたものであると同時に、生存者のどなたかがその個数を証言したものである可能性が非常に高いものです。ノンフィクションを謳った「鉄の暴風」やその執筆者である太田氏が証言する取材方法を信じるならば、生存者の中の誰かとしか考えられません。
 しかし、このように正確な個数が判明する状況だったのであれば、なぜ「赤松大尉の命令」を聞いた人がいないのか不思議です。

 手榴弾の個数と「自決命令」を比較した場合、よりインパクトが強い、あるいは印象が強いという点を考慮すれば、「自決命令」のほうが圧倒的に強いのではないでしょうか。
 「自決命令」はすなわち「死ね」と同意義です。現代の日常生活は勿論のこと、戦死することが常態化していた戦争中であったとしても、「死ね」と言われたり死ぬことを命じられたりしたならば、常識的に考えると手榴弾の個数より衝撃的な心象を受けるのではないでしょうか。
 しかも彼らは死を前提にした特攻隊員ではなく、ましては通常の兵隊でもありません。太田氏のいう非戦闘員であるはずの住民でした。防衛隊員も軍隊経験はあるとはいえ、いわば臨時雇いの身分で限りなく住民側に近いものでした。

 衝撃が強ければ強いほど残るものというのであれば、どうして誰も赤松大尉の命令を聞いていないのでしょうか。あるいは「聞いたことがある」といった証言が出てこないのでしょうか。

 自決命令の出所はどんなに探しても「鉄の暴風」だけにしかないのです。正にオンリーワンなのです。それとも可能性は非常に低いのですが、自決命令を聞いた住民だけが亡くなってしまったのでしょうか。
 なお、証言がないことについては当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる鉄の暴風」にて詳細に考察しておりますので、ご興味のある方は一読をお願いいたします。
 
 防衛隊員が手榴弾を持ち込んだことについては、「鉄の暴風」以外でも多数の証言によって判明しております。
 つまり、手榴弾の数と誰が手榴弾を持ち込んだのかということは、住民たちの証言によって把握できているのに、自決命令だけは全く証言がないというのが、この論争がおこなわれた1985年当時の現状でした。それは2020年現在も続いております。

 集団自決自体、現代の日本人からすれば想像を絶するような混乱や混沌があったことは間違いありません。また、住民の方々がどのようにして集団自決を行ったのかという実情は、それを知れば知るほど憂鬱さが深まるばかりです。
 しかしそういった大変な状況なのにもかかわらず、考えようによっては些末的ともいえる手榴弾の個数は正確に把握できても、よりインパクトが強い「自決命令」の経緯が、全く把握できていないという状態があるのも事実だと思います。
 そして残念ながら、なぜそうなるのかが理解できません。別の言い方をすれば、あまりにも「具体的すぎる数」の持つ意味が腑に落ちないのです。

 繰り返しになりますが、手榴弾の数はそれを証言した住民がいた可能性が非常に高いです。ただし、ここで住民の証言が「嘘かどうか」を詮索するつもりはありません。

 太田氏の主張を見る限り手榴弾が52発というのは、彼にとってゆるぎない既成事実であるようです。それを基調として自らの論理展開が始まるのですが、上記の疑問が払拭されない限り、残念ながら説得力に乏しいと言えるのが個人的見解です。


次回以降に続きます。
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