鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

「鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」」フォトチャンネル一覧

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ch 277218
「駅の数だけ、発見がある。」 駅のスタンプ・77駅
JR東日本東京支社管内の駅のスタンプを集めてみました。
更新日時2013-12-05 13:41:18
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ch 246944
【日本100名城】16番・箕輪城
戦国時代の上州は、はじめ関東管領の上杉氏の勢力下にありましたが、当主の上杉憲政は河越城の戦い(河越夜襲)で相模の北条氏康に大敗し、没落の一途をたどります。 上杉憲政は、上州を放棄して越後の長尾景虎のもとへ落ちのびます。(憲政は景虎を養子とし、景虎はのちに上杉謙信と名乗ります) 憲政が逃亡したのちも、上州の豪族であった箕輪城主・長野業正(なりまさ)は、北条氏康やその同盟者・武田信玄に抗戦していました。長野業正は知勇兼備の名将で、武田信玄の軍を何度も撃退しています。信玄は「業正が生きているうちは上州には手が出せない」と嘆いたといいます。 1561年、業正病死。嫡子・業盛(なりもり)への遺言が壮絶なものでした。「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」 武田方が業正の死を察知し、ついに信玄が箕輪城を攻略。若き城主・長野業盛は父の遺言を守って自害して果てます。 その後は武田家が治め、武田を滅ぼした織田、本能寺の変に乗じた北条へと移り、豊臣秀吉の小田原攻めののち徳川家康が関東に移ってからは、徳川四天王のひとり・井伊直政が預かることとなりました。 1598年井伊直政は居城を高崎に移し、箕輪城は廃城となりました。
更新日時2013-05-19 18:42:33
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ch 246693
【日本100名城】8番・仙台城
2012年4月「おくのほそ道」より。 仙台城は、もとは「千代城」といい、伊達氏の親戚にあたる国分氏の居城でした。1591年の豊臣秀吉の奥州仕置(天下統一)により、国分氏が改易。さらに1592年に、伊達政宗が移封となり、宮城県中・北部がその領地となると、千代(仙台)も政宗の所領となりました。政宗は最初、宮城県北部の岩出山城を居城としました。1600年の関ヶ原の戦役で、白石城などの宮城県南部も伊達家の所領となると、岩出山では所領の北側に位置するため、居城の移転を考えます。政宗は徳川家康に対し、千代の地を居城とする旨申し出て、認可されました。仙台城は、当時の平城&天守造営という流行に反し、山城で天守なしというものでした。天守がなかったのは、徳川家康の警戒に対し遠慮したともいわれるが、もとより堅固な山城であったため天守は不要でした。立地は戦闘を想定したものでしたが、城内の建造物は、桃山文化の粋を集めた御殿など、華やかなものだったといいます。天下泰平の世となると、政宗は「こんな山城は平和な世じゃ役に立たないから移転した方がいい」と嫡男の忠宗に言い遺し、政宗の後を継いだ忠宗は、二の丸に御殿を新たに建て、平山城に改築しました。明治になると、仙台城は接収され、陸軍の鎮台などの政府の機関が置かれました。現在もなお、二の丸の跡地には東北大学があります。
更新日時2013-05-18 18:52:15
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ch 246630
【日本100名城】37番・一乗谷城
2011年末「北陸雪中行軍」より。 一乗谷は、越前朝倉氏の本拠地として5代100年のあいだ繁栄した城下町でした。 朝倉氏は、朝倉孝景(英林)の代に一乗谷に本拠を構えたといいます。英林は、応仁の乱に参戦して西軍から東軍に寝返り、その過程で越前守護・斯波氏や守護代・甲斐氏と争い、越前国に覇を唱えました。 越前平定戦は英林の子・氏景、孫・貞景の代まで続きます。 貞景の代で越前は平定され、加賀の一向一揆とも和睦し、越前国内は貞景の子・孝景の代まで戦乱とは無縁でした。そのため公家などの文化人が、戦乱を避けて越前に移り、一乗谷には京都にも劣らない華やかさを誇ったといいます。 しかし朝倉義景の代になると、一向一揆衆が再び蜂起します。織田信長とも敵対、その戦いにも消耗し、1573年の刀根坂の戦いで朝倉軍は壊滅してしまいます。 義景は一門の裏切りにあい自害、一乗谷の城下は織田軍の焼き討ちにあい灰燼に帰したのでした。
更新日時2013-05-18 14:20:59
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ch 246629
【日本100名城】36番・丸岡城
2011年末「北陸雪中行軍」より。 丸岡城は、1576年に柴田勝家の甥・勝豊により築城されましたが、以来めまぐるしく主を変えました。 まず本能寺の変の後、清州会議(信長の家臣による領地配分)により、柴田勝豊は長浜城(近江国)に移ることとなり、丸岡城は勝家が城代を置くことになる。 しかし、柴田勝家と羽柴秀吉は鋭く対立、長浜城は対立の最前線となりました。このとき勝豊はあっさり秀吉に降伏。勝家も賤ヶ岳の決戦に敗れ、北ノ庄城(現在の福井市)で自害。 越前国はいちはやく秀吉に味方した重臣・丹羽長秀の所領となり、丸岡城には青山宗勝を城主として配置しました。 丹羽長秀死後、丹羽家は所領を大幅に削られ、青山はそのまま大名として独立。しかし関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易となりました。 代わって越前国を治めたのは、徳川家康の次男・結城秀康です。その家老であった本多成重があらたに丸岡城主となりました。 秀康を祖とする結城松平家は、1624年に秀康の子・忠直の不行跡で改易となりましたが、本多家は大名として独立、丸岡藩が成立します。 1695年、本多家はお家騒動により改易。その後は有馬家(キリシタン大名の有馬晴純を祖とする)が藩主となり、明治維新をむかえます。 明治維新後は、天守を残してすべて取り壊されましたが、天守は旧丸岡町が買い取って保存されます。 1948年の福井地震で倒壊。再建にあたっては、もともとの部材を組みなおして修復されています。
更新日時2013-05-18 18:19:33
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ch 221357
【日本100名城】12番・会津若松城
2012年4月「おくのほそ道」より。 はじめは「黒川城」といいました。1384年、蘆名(あしな)直盛が建てた黒川館がはじまりとされます。蘆名家は、当主が盛氏のときに中興しましたが、その後は相次ぐ当主の若死にしてしまいます。常陸の大名・佐竹義重の次男・義広を養子とし当主に迎えましたが、家中はまとまりを欠き、1589年摺上原(すりあげはら)の戦いで米沢城主・伊達政宗に大敗。義広は黒川城を捨て実家の常陸に戻っていきました。 黒川城を手に入れた政宗でしたが、この闘いは関白・豊臣秀吉の惣無事令(私戦禁止命令)に反したものでした。 関東に大軍を送り天下統一を間近にしていた秀吉に、政宗はあっさり秀吉に降伏。秀吉の奥州仕置により会津を没収されてしまいます。 次に黒川城の主となったのは、蒲生氏郷(がもううじさと)でした。秀吉が恐れるほどの才略をもっていた氏郷は、奥州の伊達と関東の徳川家康の抑えを期待され、これに見事に応えました。氏郷は黒川城下を整備し、町の名を「若松」に改めました。「若松」の名は、氏郷の故郷である近江国日野の地名に由来します。また黒川城を改築し7層の天守を建造、城の名も「鶴ヶ城」と改めました。「鶴ヶ城」は、氏郷の幼名・鶴千代に由来するといいます。 蒲生氏郷は40歳の若さで亡くなり、嫡男・秀行が継ぐが、度量は父に劣るとされたため、宇都宮に移封されてしまいます。 蒲生秀行の後を継いで会津の主となったのは、越後の上杉景勝でしたが、景勝は関ヶ原の戦役で西軍についたため、会津領を没収されます。会津は再び蒲生秀行の所領となりました。 蒲生秀行の死後、蒲生家の家中はお家騒動を起こしたため、再び所領を没収されてしまい、伊予松山から加藤嘉明(よしあきら)が新たな城主として移ってきました。加藤嘉明の孫にあたる明成も、鶴ヶ城の改修に着手しています。また、蒲生時代の7層の天守が地震により破損したため、新たに5層の天守を建てました。現在の天守は、加藤時代の天守をモデルとしています。加藤明成が亡くなると、加藤家は後継ぎが絶えてしまい所領没収。 その後には、老中として初期の幕政を支えた保科(ほしな)正之が城主となりました。正之は、2代将軍・徳川秀忠の隠し子で、保科家に養子に出されていました。正之の子の代より松平姓を名乗り、幕末に会津戦争を戦う松平容保(かたもり)まで続きます。
更新日時2013-05-23 09:45:03
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ch 218086
【日本100名城】10番・山形城
2012年4月1日登城。 室町時代の羽州探題・斯波兼頼により築城されました。のち、斯波氏の一族・最上氏の居城となります。 戦国時代後期、最上家当主・最上義光(よしあき)は所領を山形県村山地方・最上地方に広げます。関ヶ原の戦役では、上杉景勝・直江兼続軍の侵攻を受けましたが、長谷堂城の戦いでこれに耐え抜き(慶長出羽合戦)、戦後に山形県庄内地方を獲得、57万石の領主となりました。上杉勢が陣を構えた長谷堂城付近は、山形城からそう遠いところではないのですが、山形城には霞がかかっており、上杉勢からは見えなかったといいます。そのため山形城は「霞城(かじょう)」とも呼ばれます。 山形城は、57万石の領主にふさわしい大規模な城郭に整備されましたが、最上義光の死から9年で、最上家は改易となります。 代わって鳥居忠政が入城し、山形城の改修がなされました。 その後領主がたびたび代わり、その石高は減っていき、規模の大きな山形城の維持もままならなくなります。 幕末には、本丸が更地になり、三の丸の半分は田畑になっていたといいます。 明治に入ると、陸軍歩兵32連隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸や三の丸の堀は埋め立てられました。 現在、二の丸の内側は霞城公園となっています。
更新日時2013-05-22 11:45:33
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