盛岡城【国指定史跡】の登城、本格的に開始。
時は夕刻、午後5時すぎ。
通常ならば登城の儀はできない時刻なれど、盛岡城は年中無料開放。
暗くなってしまわない限り、いつでも見聞することができるのです。
不気味な灰色の空の下、大手側にあたる北側から登城していきます。
まずは、さきに詣でた櫻山神社周辺から。
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端整に成形された石による算木積みの角、そして側面はこれも成形がじゃっかん粗い石を用いた打込接ぎの石垣。
造成されたのは江戸時代中期と判明している石垣です。
その証拠が・・・
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普請奉行銘石の存在です。
「宝永二 乙酉歳 九月二日
奉行 野田弥右衛門 川守田弥五兵衛」
宝永2年は西暦換算で1705年、当時は将軍・徳川綱吉の晩年期です。
文字は現代人にも読みやすい楷書、私でも解読することができました(*^^)v
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瓦御門跡を通り、三ノ丸へ。
進路が折れ曲がっているので、ここはかつては枡形構造だったのかな~と思いをはせてみます。
しかし手持ちのガイドマップを見ると、どうも枡形構造ではなく、門はひとつだけだったように記載されています。
三ノ丸に入りました。
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三の丸の石垣・・・ではなく、三ノ丸の崖っぷち?から望む二の丸の石垣です。
この石垣は高さが約14メートルあり、盛岡城では最も高い石垣だそうです。
お次は二ノ丸。
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石垣によってカギの手に曲がった通路。
ここは車御門跡で、この先が二ノ丸です。
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市民に親しまれている公園らしく、歩道が整備され樹木が整然と植わっていて落ち着いた雰囲気です。
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二ノ丸の通路から外れた場所、片隅に立っているのは、石川啄木の歌碑です。
空に吸はれし 十五の心
南部家の所領ははじめ現在の青森県から岩手県北部地方に及んでおり、居城は三戸城(青森県三戸)にありました。
南部信直の代、所領は岩手県中部にまで拡大するも、同族の大浦為信の離反で青森県津軽地方を失いました。
(ちなみにこの離反で信直は父・石川高信を討ち取られてしまいました。このため南部・津軽の怨讐は江戸時代を通じて続き、現在もなお津軽と南部は仲が悪いとか??)
そこで信直は、豊臣政権の有力者・蒲生氏郷や浅野長政の助言もあり、また南が野心家・伊達政宗の領地と接することとなったため、居城を「不来方」の地に移すこととしました。
しかし着工翌年、信直は病没、嫡男の利直が継ぎます。
利直は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、所領を守りました。
慶長20年(1615年)ごろ、城がほぼ完成しました。
利直はこのときに地名を「盛り上がり栄える岡」という願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めました。
その後も工事は続き、利直の子で3代藩主・重直の代になり、寛永10年(1633年)に全城域が完成しました。
以後、明治4年(1871年)に廃城になるまで、南部家の居城であり続けました。
もう少し二ノ丸。
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二ノ丸のふちから望む、三ノ丸の石垣。
粗く成形された大石に細かい石を埋め込む打込接ぎ、石を不規則に積む乱積みで造成されているこの石垣は、江戸時代初期のものです。
二ノ丸の先へ。
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盛岡城のシンボルのひとつといえる朱塗りの渡雲橋。その先は本丸です。
本丸と二ノ丸を橋で結ぶ構造となっている城郭は、盛岡城と高知城だけだそうです。
またかつては「御廊下橋」と呼ばれていて、本丸から二ノ丸まで続く御殿の一部をなしていて、屋根付きの橋となっていたそうです。
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橋の下は通路になっています。
本丸も二ノ丸も完全に石垣で囲われています。
本丸に入りました。
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かつては御殿があった本丸も、いまでは植樹がなされていて落ち着いた空間になっています。
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本丸の中央部にぽつんと残されている台座は、南部中尉銅像台座です。
戦前には南部家42代南部利拝の銅像が立っていましたが、戦中時の金属類回収令で接収されてしまい、現在も台座だけが残っているのです。
本丸を取り巻く石垣。
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渡雲橋側の隅櫓跡、
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その反対側の納戸櫓跡、
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別の出入口・御末御門跡、
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現在はあずまや「凌虚亭」が立つ御三階櫓跡。
いずれも大きな石が用いられています。
盛岡の採石の豊富さを物語っているようです。
御末御門より本丸を出て、淡路丸という曲輪に入りました。
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淡路丸と本丸を隔てる石垣は、野面積みという自然石をそのまま積み上げたものとなっています。
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この石垣は盛岡城内で最も古いものとされています。
本丸の周囲を時計回りに歩き、腰曲輪へ。
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ここでついに雨が降ってきてしまいました。
神社で神頼みしたのに効果がなかったのか・・・・・・いや、それでも小雨程度だったので、この程度で済んでいるのは南部公のご神徳でしょう。
そう思いながら、城めぐりを続行します。
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腰曲輪は本丸の北側。
こちらの石垣も古そうな野面積みです。
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本丸を取り巻く石垣も、南西部に差しかかるとその姿が変わってきます。
だいたいが古式の野面積みなのに対し、こちらは石を成形して隙間なく積み上げる切込接ぎです。
時代が下るにつれ御殿が増築されていくと、本丸は手ぜまになっていきました。
そこで従来ある石垣のさらに外側に土を盛り、石垣を造成していったそうです。
造成された石垣が、新式の切込接ぎによるものだそうです。
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本丸の西側。
御殿を増築するために、石垣からさらに張り出した建物ができたそうです。
本丸の北西側です。
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二ノ丸と本丸をつなぐ渡雲橋まで戻ってきました。
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渡雲橋をくぐって本丸北東側へ。
このあたりが100名城スタンプの絵柄になっている場所ですね。
さらに外側を周っていきます。
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本丸の外側・淡路丸のさらに外周です。
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淡路丸をとりまく石垣。
全体的に盛岡城の石垣は、それぞれの石が大きめです。
こちらの積み方は粗く成形した石を積み隙間を小石で埋める打込接ぎです。
右の画像中央部にある石に残っているくぼみは、石を割るときに打ち込んだくさびの跡です。
さきほどの淡路丸と腰曲輪の周囲を取り巻く帯曲輪。
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鶴ヶ池と呼ばれる水濠代わりの泉水が流れています。
この泉水は、天然の水濠にもなっている中津川につながっています。
淡路丸南東部の石垣。
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画像右側のカドの部分には小さな櫓があったそうです。
そして画像中央右寄り、シダレザクラの木の近くに黒い穴のようなものがあります。
これは蛇口という排水口の樋で、外周の石垣にはところどころに備えられています。
さらに南東部。
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石垣のカドがふたつ。なかなかの光景ですなぁ。
ここの上には二重隅櫓【現存せず】が建っていました。
南方から見ると、この櫓の延長線上には本丸の御三階櫓があり、あたかも5重の天守のようにも見えたそうです。
少し歩いて南側。このあたりは腰曲輪の石垣が目に入るところです。
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白壁の蔵が1棟建っています。
この蔵が盛岡城唯一の現存する建物で、彦御蔵【現存】です。
もともとは別地にありましたが、市道の整備のため現在の位置に移築されました。
ちなみに現在彦御蔵が建っている場所は、別の蔵である米内蔵があったところだそうです。
南西側。
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なかなか圧倒的な石垣です。
西側。
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小さい曲輪・榊山稲荷曲輪を取り囲む石垣です。
カドの石垣の勾配は、西国や近畿の城郭と比べると緩やかであります。
ちょうど寺の屋根になぞらえて「寺の勾配」というそうです。
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榊山稲荷曲輪付近の石垣。ここにも蛇口があります。
こちらの勾配は、少々急になっていますね。
北西側、二ノ丸西側を取り巻く石垣。
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見ごたえのある高い石垣が続きます。
造成時期は、江戸時代中期だそうです。
よく見ると蛇口もあります。
さらに進み、二ノ丸北側と三ノ丸西側の石垣に着きました。
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画像中央が14メートルの高石垣、左が江戸時代初期の石垣です。
盛岡城をぐるりと1周したところで、今回の盛岡城の登城はこれにて終了。