ガンバレ よし子さん

手作りせんきょ日記

ヴィルデ・フラングに片思い (2)/ありがとう☆ノリントン!

2011年04月25日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベコンチームの皆さんこんにちは。シベコン広報部長のクレタです。前回のエントリからひと月近くたちますが、引き続きヴィルデのシベコンをレポートします

・・・と言いつつ、



いきなり乱入してきた、このはげ頭のおじさんは???

そうです。ロジャー・ノリントン
実は私、NHKホールでノリントン指揮N響のマーラーを聴いたばかりで、
その余韻が未だ覚めやらぬ状態なのです。 あ~ノリントンかっこよかった ・・・

か っ こ ・ よ か っ ・ っ た ぁ ぁ ー ー! ( 絶叫

というわけで、余震にも風評にも負けず来日してくれたノリントンへの感謝をこめて、今回のエントリは豪華2本立て。ヴィルデのシベコンレポートとノリントン報告を同時にリリースします。でも無理強いするわけじゃありません。3月5日のヴィルデ・フラングのシベコンを聴いた方は<前半>を、4月22日と23日にノリントン指揮N響定期を聴いた方は<後半>を、それぞれチェックして下さいね。もちろん両方読んでいただいてもかまいません。私は大歓迎です。ただしシベコンレポートは前回からの続きなのでご注意ください。
( 前回のテキストは こちら

***  *** <前半> 「ヴィルデに片思い」の続きです。 ***  ***

「 極寒の澄み切った空を、悠然と滑空する鷲のように 」 ・・・ これはシベコン第1楽章の冒頭部分に対するシベリウスのコメントです。どのようなシチュエーションでシベリウスがこの言葉を残したのか、私はずっと知りたいと思っているのですが、出典のウィキペディアにその経緯は書かれていません。直筆の楽譜にこの言葉が書き込んである、という説もありますが、なにぶん遠く離れた北欧の作曲家なので資料も少なく詳細はわかりません。
いずれにせよ、作者はこの曲にはかなり明確なイメージを残しています。そのため、「 極寒の空を滑空する鷲 」というフレーズは、シベコンを語る上でのお約束になっているようで、「 この曲を弾く時、キミは鷲になるのだ 」とソリストに助言する指揮者もいたりします( フジテレビのドキュメンタリーでオスモ・ヴァンスカが五嶋龍にそう言ってました )。



しかし、そうは言っても今は21世紀でここは東京。東京の空を滑空するのは鷲ではなく、カラスです。おまけにシベコンが演奏されるコンサートホールは、渋谷の喧騒を見下ろす高台や、首都高の渋谷線と目黒線が合流する騒音地帯に作られていて、その風景は100年前の北欧の風景から遠く隔たっています。そんな中で演奏者が「 極寒の空を悠然と滑空する鷲 」になるのはやはり難しいのでしょう、この曲に挑戦するソリストはいろんな工夫をして現実のギャップを埋めようとします。例えば、庄司紗矢香は連獅子ヘアになり( 過去の話を何度も蒸し返してスミマセン、現在の庄司さんのヘアスタイルは活動的でよくお似合いです )、神尾真由子は恐山のイタコのような妖気を漂わせて霊界にチューニングしていました。それは彼女たちがシベリウスの言葉に従って精神を離陸させ、一定の高度に保つために必要なステップなのだと私は推察します。

そして、自慢するわけではありませんが、私も演奏会にはソリストと同じ心構えで臨みます。私も客席で「 極寒の空を悠然と滑空する鷲 」になるべく努力するわけです。でも客席で鷲になるというのもけっこう大変で、はじめのうちは些細なことで気が散りました。2000から4000人収容のコンサートホールにはいろんな人がいて、演奏中に隣のおじさんが大きな音で鼻をすすったり、後ろの席の老人がアメの皮を剥きはじめたりすると、とたんに集中力が萎えて高度が一気に下がります。でも頑張って強くイメージし続けます。頭の中に鷲の視点を定めて、そこだけに精神を集中し、自分が注ぎ込める全てを注ぎ込みます。

演奏者でもないのに、そんな難儀なことをして何になるのか、と、シベコンチームの皆さんは不思議に思うかもしれません。自分でも、これは鑑賞というより訓練とか修業に近いのではないかと思ったりします。でも、繰り返すようですが、この曲は巨大です。音楽の知識の乏しい私のキャパシティを超えています。最初のうちは聴けば聴くほど混乱しました。私にできることといえばシベリウスの言葉をそのまま実践することくらいで、それをやらなければ、曲の大きさの前にただ立ちすくむだけで、あっという間に演奏が終わってしまいました。それに、やってるうちに鍛えられていく部分もあって、今では近くにマナー悪い人がいても雑音が気にならないし、自分が拾った情報をつなぎ合わせて音楽の全体像を立ち上げることもできるようになりました。

我、そんなことに人生の貴重な時間を費やす酔狂さをもって
自らをシベコン広報部長と呼ばせしむ( 日本語変? )。

しかし、この日はいつもと違いました。開演のベルが鳴っても私はいっこうに鷲になれず、むしろ春の野原を漂う蝶々のように心が浮かれていました。なぜか。その理由を突き詰めると、その時私の心に芽生えていた迷いに辿り着くことになるのですが、それはひとまず置いといて、さしあたって、この演奏会には同伴者がいた、つまりこの日はデートだった、というところから話を始めましょう。     ( つづく )

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***  *** <後半> ここからはノリントン ***  ***

敬愛するロジャー・ノリントンがN響を指揮するために来日しています。早速聴きに行ってきました。プログラムはマーラーの交響曲第1番。マーラーは1860年に生まれて1911年に亡くなったので、昨年が生誕150年に、今年が没後100年にあたります。節目の年にあやかろうと、昨今の演奏会はどこもかしこもマーラーだらけ。この日(4月22日)の
N響定期も、マーラー・イヤーにちなんだシリーズの一環でしたし、同じ曲を昨年11月にゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団の演奏で聴いたのも記憶に新しいところです。
ところで、ワレリー・ゲルギエフとロジャー・ノリントンって、かなり興味深い組み合わせだと思いませんか。この二人が世界観も持ち味も大きく異なる指揮者であるということは、私も録音を聴いて理解しているつもりでした。でも、まさかあれほどとは。同じ曲を生演奏で聴き比べてみると、二人の個性の違いは予想以上でした。というわけで、ここからはゲルギエフとノリントンの演奏を比較しながらマラ1の感想を書いてみます。
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のっけからこんなことを言うのはなんですが、私はマーラーを好んで聴いたことはありません。むしろ苦手意識があって敬遠していました。その理由は長いから。途中で眠くなりそうだから。しかし、ゲルギエフとノリントンを生で聴き比べる機会なんてそうそうないし、食わず嫌いを改めるいい機会だと思って、11月の演奏会の前に近場の名曲喫茶でリクエストして、はじめてマラ1を終楽章まで通して聴いてみました( マーラーのCDを持っていないため )。やはり長い、というのが聴き終えた感想でした。終わるまで1時間近くかかりました。自分にとってマーラーを聴くことは耐えることなんだと思いました。演奏会で最後まで集中力が保てるか自信がありませんでした。
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マーラーの交響曲第1番を要約すると、次のようになります。
序奏はSF映画っぽくて、宇宙空間で人工衛星が軌道をゆっくりと廻っている感じがします。弦楽器によるフラジョレットのユニゾンは宇宙の神秘を語るようにミステリアスです。やがて時間の経過と共にいろんな動機や主題が現れて、優雅な舞踏会だったり、哀愁を帯びた行進だったり、激しい衝突だったりと、次々にいろんなシーンを展開していきますが、第4楽章の中ほどに来ると、再び宇宙空間が眼前に広がり、曲は序奏の人工衛星の軌道に回帰します。最後にグランドフィナーレが待っていて、どんちゃん騒ぎのうちに曲が終わります( 要約しすぎ? )。
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名曲喫茶で予習した段階で、序奏のミステリアスな音型が一巡する感じはつかめていました。それは起承転結でいえば「起」と「結」にあたり、そこさえ押さえればこっちのもの ・・・ と言いたいところなのですが、私の課題は「承」と「転」のほうにあります。とにかく中盤がごたごたしていてつかみにくい。聴いているうちに無駄に長い気がして歯がゆくなってくる。そういう時は曲中のどこかに目印を置いて、そこに焦点を絞って聴けばいいのですが、その目印はレコードを1回聴いたくらいでは見つかりません。独力でカバーできるのはここまでなので、あとはマエストロに任せることにします。

どうか中盤にうまく目印を置いて、私が筋道を立てて聴けるようにして下さい。
序奏が再び戻ってくるまで私を飽きさせないで下さい。

昨年11月のゲルギエフの時も、一昨日のノリントンの時も、演奏が始まる前はそんな気持ちでした。そして結果的には、それが二人の演奏を聴き比べるポイントになりました。
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・・・ と、ここまで書いたところで時間が来てしまいました。これから晩めしの支度をします。続きはまた明後日。   ( つづく )

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