シベコインチームのみなさんこんにちは。
シベコン広報部長兼ヴィルデ・フラング応援団長のクレタです。
いつもご覧いただきありがとうございます。
さて、本日のテーマは何と言ってもコチラ。
ヴィルデ・フラング、再臨。
無限の可能性を秘めてキラキラ輝くノルウェーのビスクドールが
再び日本にやって来ました。
しかし手放しで喜ぶことはできません。
ヴィルデ・フラング応援団長こと私クレタ、昨年末以降ブログを一度も更新しないままこの日を迎えてしまったことに、忸怩たる思いがあります。今までいったい何をしていた?前回の続きはどうなった?と、ヴィルデの再来日をことほぐ前に、私はまず過去の自分を厳しく問い直さなければなりません。
ブログの更新が滞る。その背景には「自分の体験に処理能力が追いつかない」という本質的な問題があります。テキストを書く前と書いた後では目の前の世界が違って見える、そういうテキストを書きたい、自分のブログに残したい、と私は考えています。でも自分が設定したレベルのテキストを定期的にアウトプットするには私の脳内メモリは小さすぎる。メモリが不足したら増設する。PCなら簡単にできます。でも人間はそうはいかない。人間のメモリは手づくりで増やしていくもので、それには時間がかる。その間ブログは放置状態になってしまう。
2012年前半はマイブログでヴィルデをプッシュして来日を援護射撃(?)するつもりだったのに、結局何もできなかった。応援団長として反省の余地はあります。でもそこにポジティブな側面がないわけではない。脳内メモリを増設すること。能力の限界値を上げること。それは人類史上不滅のテーマです。2011年3月のシベコン演奏会のレビューを書くことは自らの能力の限界を押し拡げるプロセスである。そう考えると、その取組みは私の人生に大きな意味を持ってきます。このテキストを書き終えたら、(わずかでも)世界が変わる。その期待があるうちは、とりあえず納得いくまでこの話題にこだわって時間をかけてみよう、と私は考えています。
とはいえ、1年以上前の演奏会のレビューを書くのは相当面倒くさい作業です。記憶は時間とともに消えていく。それを脳内にずっと留めておくのは時間の流れに逆らっている状態で、すごくエネルギーがいる。古いレビューを記憶だけを頼りに書いていると、新しい体験に記憶が上書きされそうな気がして、だんだん演奏会に行くのが億劫になってくる。その引きこもりマインドは当然ながらヴィルデの演奏会にも暗い影を落としてきます。
ヴィルデの登場が待ち遠しい。ニールセンのコンチェルト超楽しみ。
私は心からそう思っています。でもその気持ちは
耳に残るシベコンの音色をかき消されるくらいなら、いっそ聴かずに済ませたい。
ただでさえ小さいメモリにこれ以上データを追加したら、
ほんとに私の手に負えなくなってしまいそう。
という不安と背中合わせになっていて、その不安は日を追うごとに
ヴィルデのコンチェルトを聴きたいんだけど、聴きたくない。
という矛盾した気持ちを私の胸にもたらすのです。でももちろん聴かないわけにはいきません。勇気を奮い起して行ってきましたよ、オペラシティに。そして行ってみたら・・・・!
というわけで前置きが長くなりましたが、ヴィルデファンのみなさん、お待たせしました。
ここからは先日の東京オペラシティの演奏会のレポートです。
テキストを書いているうちに日にちが経ってしまったので、時間を巻き戻して読んでください。
*** *** *** *** ***
2012年5月11日
東京交響楽団演奏会
シベリウスとニールセン 北欧音楽感謝デー
指揮/サンットゥ=マティアス・ロウヴァリ
ヴァイオリン/ヴィルデ・フラング
楽器への影響を考慮しているのかもしれないけど、開演を待つ間空調が寒くて、スカートを穿いた足元がすうすうして落ち着かなかった。私は普段はスカートなんか穿かない。普段着はもっぱらジーンズ。無理しないで普段着で行こうかな。そのほうが楽だしあったかい。演奏会当日はいつも出がけにそう思う。でも結局スカートを選ぶ。それは私の原則だ。
足元の冷えが膝へと上ってきたころに、ようやく会場係がホールの扉を閉め始める。閉ざされた扉は演奏が終わるまで開かない。さっきまでは扉の向こう側にいて、そこにはいろんな自由があった。私は電話もできたし、食べ物も食べれたし、本も読めた。でもこれからは違う。私は扉のこちら側で自由を奪われてひとつのシートに監禁される・・・そう思うと、とつぜん不安に襲われる。
途中でトイレに行きたくなったらどうしよう。
そのせいで気が散ってコンチェルトに集中できなかったらどうしよう。
トイレにはさっき行ったばかりだし、開演前に水分は採ってない。でも尿意(のようなもの)を感じる。きっと足元が冷えたせいだ、スカートなんか穿いてくるから、と後悔してももう遅い。扉は全て閉じられて、間もなく演奏が始まろうとしている。
客電がゆっくりと落とされて、客席と床と人間が闇に紛れると、自分と外部の境界が暗がりの中で混ざり合い、しだいに曖昧になっていく。客席にいる私の存在が薄れていくのと引き換えに、ステージの上の譜面台や指揮台が、ライトの光を受けてくっきりと存在を主張する。客席が明るいころ、私は自分がステージから遠く隔てられていると感じた。もっと近い席が取れればよかったのに、と不満に思った。でも今は打って変わってステージをとても近く感じる。ちょっと手を伸ばせばあの譜面台に届きそうだ。闇の中では距離は意味を失う。距離のない世界には自分と他人の区別もない。今から私はどこにでも行けるし、誰にでもなれる。
コンサートホールは私にとって特別な場所だ。
私は普通ではない、特別なものを求めて、ただそのためだけに、ここにいる。そして普通ではない、特別なものを手に入れたいと望む人は、まず自らが進んで日常を離れるべきだ、と私は考える。私が普段は穿かないスカートを穿いているのはそのためだ。今日のソリストはヴィルデ・フラング。私が待ちに待った主役の登場だ。ヴィルデがコンチェルトを弾くからには、これからここで普通ではない、特別なことが起こる。そう確信する私が普段着でホールに日常を持ち込むわけにはいかない。多少足元が冷えたとしても、特別な格好をして、特別な気持ちで演奏に臨む。それが私の原則だ。
それに私はこの尿意が幻だと知っている。
待ち時間に尿意を感じて不安になるのはいつものことで、その不安は演奏への期待に比例して大きくなる。それは自分が作り出した幻で、演奏が始まればたちまち消えてしまう。ようするに私はそれだけ今夜のコンチェルトに期待し、緊張しているのだ。そして開演の遅れが私の幻覚パニックに拍車をかけている。オケの人たちよ、早く出てこい。いくらなんでも遅すぎるぞ。心の中でコールが始まる。すると男性がひとりマイクを手にステージに現れた。いよいよスタートだ。そう思ったら案の定、幻の尿意は引っ込んでしまった。
クラシックの演奏会はアンプラグドが前提で、そこにマイクを持った人が出てきたら、それは演奏前のプレトークと相場は決まっている。でも今日はなんか変だ。今からプレトークを始めたら終わるのは何時?プログラムは3曲もあるというのに。それにマイクを持っているのはどう見てもただのスタッフで、プロのオーラをみじんも放ってない。開演を待ちわびる聴衆の前に素人が立っている。みょうに場違いなこの感じは、もはやプレトークではない。なにかアクシデントが起きたんだ。私が異変を感知したのと同時に男性がアナウンスを始めた。
今日の主役のヴィルデさんはさっきまでここでゲネプロをやっていました。その時は元気にコンチェルトを弾いていました。しかしその後突如ハライタとハキケに襲われ、開演時間になっても症状が回復しないため、ステージに立つことができません。代役を立てようにも時間がなく、今日のコンチェルトは取りやめになりました。
・・・ってことは、
ドタキャン キタ――( ゜д゜)――!
ここまで鮮やかなドタキャンを食らうとお客さんも納得するしかない。
不測の事態。苦渋の決断。男性からはぶっつけ本番の空気がひしひしと感じられた。
しかし残念。
私はこの演奏会をほんとうに楽しみにしていたし、事前の準備も万全だった。それは服装の準備だけではない。東京交響楽団がヴィルデをゲストに呼ぶ。そのニュースを知ったのは昨年のことで、私はそれからすぐに東響の後援会に入会した。入会にあたっていくつか事務手続き―― ぶっちゃけ寄付ですわ ――が発生したけど、ヴィルデのコンチェルトをいっちょう盛り上げよう、という気持ちで快く献金した。長引く不況の影響でどこのオケも経営が苦しいのは周知の事実。たとえどんなに優れたソリストがいても、どれだけ素晴らしい曲が残されていても、一緒に演奏してくれるオケがいなければコンチェルトは成立しない。共演に先立って「ヴィルデの伴奏、頼んだよ」とオケにエールを送っておくのは応援団長である私の務めだ。当然チケットも大盤振る舞い。1階平土間のS席で、聴く気満々でスタンバっていた。
その根回しが、一瞬にしてパー。
でもヴィルデが受けたであろうダメージに比べれば、そんなの全然たいしたことじゃない。
彼女が弾く予定だったニールセンのコンチェルト。前半のラルゴからアレグロはCDで聴くと20分ちかくかかる壮大なもので、シベコンにも通ずる異次元性を湛えている。この曲に挑むソリストは、まず第一に、その異次元性に拮抗するオリジナルな価値観を打ち立てなければならない。それができないと、ただ単にだらだらと長いだけの演奏になってしまう。ヴィルデがうまく異次元を突破できるか否か。それは今夜の一番の聴きどころだったし、彼女もそのための準備を整えていたはずだ。
スタミナをつけ、メンタルを鍛え、必要な筋力をアップして、テンションを維持する。そんな地道なトレーニングをヴィルデは人知れず行ってきた。ゲネプロまではものごとは順調に運んだ。でもあと少しというところで、アクシデントに見舞われて、本番のステージに立てなくなった。
積み重ねた努力は、一瞬にしてパー。
それは私に北京五輪の直前に肉離れを起こして泣く泣く出場を辞退した野口みずきの悲劇を思い起こさせる。4年に一度のオリンピックと一緒にしないで、と言って野口さんは怒るかもしれないけど。
指揮者のロウヴァリくんは1985年生まれ。まだ若く経験の浅い彼にとって主役の不在は相当なビハインドだろう。でも逆境を若さで跳ね返すような元気いっぱいのフィンランディアはなかなか面白い。フレッシュな新人なだけにその後ろ姿は貫禄からは程遠く、指揮者というより交通整理のお巡りさんに見えてしまうのは難点だけど。オペラシティの平土間後方の音響効果は申し分ないもので、シベリウス独特の低音ビートを肌で感じることができる。
とはいえ、演奏中もヴィルデのことが頭から離れることはない。
異国で急病。お座敷はキャンセル。
ヴィルデはさぞや心細いことだろう。気落ちしていることだろう。
川崎、京都、名古屋とスケジュールは目一杯詰まってるけど、大丈夫だろうか。
何か私にできることはないかしら。
休憩時間に1階の花屋に降りてバラを買ってホールに戻った。
演奏会が終わると、目に付いた黒服に「ヴィルデさんに渡してください」と花を託した。
黒服は招聘元の人で、必ず本人に渡します、と請け負ってくれた上に
ヴィルデは現在某大学病院にいて、明日(12日)の川崎は微妙だけど、
白寿ホール(16日)は大丈夫かもしれない、と最新情報を教えてくれた。
ってことは、16日のリサイタルが視野に入るくらいには回復したということで、それはひとまず安心ってことだよね。明日の川崎はどうなるだろう。もしニールセンのコンチェルトが演奏されたら、生で聴ける人がうらやましい。ヴィルデはきっと素晴らしい演奏を聴かせてくれるに違いない。でも演奏が無事に始まるかどうかはその時にならないとわからない。演奏者は人間で、人間はいろんな種類のトラブルに囲まれて生きている。いつまた大地震が起こるかもしれないし、突然ハライタに襲われるかもしれない。
それにしてもあの黒服、ずいぶん事情に詳しかったな。
妙な存在感もあったし、いったい何者?
オペラシティの長いエスカレーターの途中でそんなことを考えながらもらった名刺をよく見たら、そこには社長の肩書が(!)
つまりあの人はヴィルデを日本に呼んでくれた人で、
おかげで私はヴィルデに出会うことができたわけで、
あの人はいわば私とヴィルデを結び付けてくれたキューピッド?
人は出会うべくして人と出会う。
コンサートホールで起こるこの手の偶然に私はもう驚かない。ただ
普段着じゃなくて、大正解!
大人の女性として恥ずかしくない格好をしていて、ほんとうによかった!!
(美容院に行っておけば、もっとよかった)
そう思って、新宿へ向かう電車の中でほっと胸をなでおろしたのだった。
(おわり)
シベコン広報部長兼ヴィルデ・フラング応援団長のクレタです。
いつもご覧いただきありがとうございます。
さて、本日のテーマは何と言ってもコチラ。
ヴィルデ・フラング、再臨。
無限の可能性を秘めてキラキラ輝くノルウェーのビスクドールが
再び日本にやって来ました。
しかし手放しで喜ぶことはできません。
ヴィルデ・フラング応援団長こと私クレタ、昨年末以降ブログを一度も更新しないままこの日を迎えてしまったことに、忸怩たる思いがあります。今までいったい何をしていた?前回の続きはどうなった?と、ヴィルデの再来日をことほぐ前に、私はまず過去の自分を厳しく問い直さなければなりません。
ブログの更新が滞る。その背景には「自分の体験に処理能力が追いつかない」という本質的な問題があります。テキストを書く前と書いた後では目の前の世界が違って見える、そういうテキストを書きたい、自分のブログに残したい、と私は考えています。でも自分が設定したレベルのテキストを定期的にアウトプットするには私の脳内メモリは小さすぎる。メモリが不足したら増設する。PCなら簡単にできます。でも人間はそうはいかない。人間のメモリは手づくりで増やしていくもので、それには時間がかる。その間ブログは放置状態になってしまう。
2012年前半はマイブログでヴィルデをプッシュして来日を援護射撃(?)するつもりだったのに、結局何もできなかった。応援団長として反省の余地はあります。でもそこにポジティブな側面がないわけではない。脳内メモリを増設すること。能力の限界値を上げること。それは人類史上不滅のテーマです。2011年3月のシベコン演奏会のレビューを書くことは自らの能力の限界を押し拡げるプロセスである。そう考えると、その取組みは私の人生に大きな意味を持ってきます。このテキストを書き終えたら、(わずかでも)世界が変わる。その期待があるうちは、とりあえず納得いくまでこの話題にこだわって時間をかけてみよう、と私は考えています。
とはいえ、1年以上前の演奏会のレビューを書くのは相当面倒くさい作業です。記憶は時間とともに消えていく。それを脳内にずっと留めておくのは時間の流れに逆らっている状態で、すごくエネルギーがいる。古いレビューを記憶だけを頼りに書いていると、新しい体験に記憶が上書きされそうな気がして、だんだん演奏会に行くのが億劫になってくる。その引きこもりマインドは当然ながらヴィルデの演奏会にも暗い影を落としてきます。
ヴィルデの登場が待ち遠しい。ニールセンのコンチェルト超楽しみ。
私は心からそう思っています。でもその気持ちは
耳に残るシベコンの音色をかき消されるくらいなら、いっそ聴かずに済ませたい。
ただでさえ小さいメモリにこれ以上データを追加したら、
ほんとに私の手に負えなくなってしまいそう。
という不安と背中合わせになっていて、その不安は日を追うごとに
ヴィルデのコンチェルトを聴きたいんだけど、聴きたくない。
という矛盾した気持ちを私の胸にもたらすのです。でももちろん聴かないわけにはいきません。勇気を奮い起して行ってきましたよ、オペラシティに。そして行ってみたら・・・・!
というわけで前置きが長くなりましたが、ヴィルデファンのみなさん、お待たせしました。
ここからは先日の東京オペラシティの演奏会のレポートです。
テキストを書いているうちに日にちが経ってしまったので、時間を巻き戻して読んでください。
*** *** *** *** ***
2012年5月11日
東京交響楽団演奏会
シベリウスとニールセン 北欧音楽感謝デー
指揮/サンットゥ=マティアス・ロウヴァリ
ヴァイオリン/ヴィルデ・フラング
楽器への影響を考慮しているのかもしれないけど、開演を待つ間空調が寒くて、スカートを穿いた足元がすうすうして落ち着かなかった。私は普段はスカートなんか穿かない。普段着はもっぱらジーンズ。無理しないで普段着で行こうかな。そのほうが楽だしあったかい。演奏会当日はいつも出がけにそう思う。でも結局スカートを選ぶ。それは私の原則だ。
足元の冷えが膝へと上ってきたころに、ようやく会場係がホールの扉を閉め始める。閉ざされた扉は演奏が終わるまで開かない。さっきまでは扉の向こう側にいて、そこにはいろんな自由があった。私は電話もできたし、食べ物も食べれたし、本も読めた。でもこれからは違う。私は扉のこちら側で自由を奪われてひとつのシートに監禁される・・・そう思うと、とつぜん不安に襲われる。
途中でトイレに行きたくなったらどうしよう。
そのせいで気が散ってコンチェルトに集中できなかったらどうしよう。
トイレにはさっき行ったばかりだし、開演前に水分は採ってない。でも尿意(のようなもの)を感じる。きっと足元が冷えたせいだ、スカートなんか穿いてくるから、と後悔してももう遅い。扉は全て閉じられて、間もなく演奏が始まろうとしている。
客電がゆっくりと落とされて、客席と床と人間が闇に紛れると、自分と外部の境界が暗がりの中で混ざり合い、しだいに曖昧になっていく。客席にいる私の存在が薄れていくのと引き換えに、ステージの上の譜面台や指揮台が、ライトの光を受けてくっきりと存在を主張する。客席が明るいころ、私は自分がステージから遠く隔てられていると感じた。もっと近い席が取れればよかったのに、と不満に思った。でも今は打って変わってステージをとても近く感じる。ちょっと手を伸ばせばあの譜面台に届きそうだ。闇の中では距離は意味を失う。距離のない世界には自分と他人の区別もない。今から私はどこにでも行けるし、誰にでもなれる。
コンサートホールは私にとって特別な場所だ。
私は普通ではない、特別なものを求めて、ただそのためだけに、ここにいる。そして普通ではない、特別なものを手に入れたいと望む人は、まず自らが進んで日常を離れるべきだ、と私は考える。私が普段は穿かないスカートを穿いているのはそのためだ。今日のソリストはヴィルデ・フラング。私が待ちに待った主役の登場だ。ヴィルデがコンチェルトを弾くからには、これからここで普通ではない、特別なことが起こる。そう確信する私が普段着でホールに日常を持ち込むわけにはいかない。多少足元が冷えたとしても、特別な格好をして、特別な気持ちで演奏に臨む。それが私の原則だ。
それに私はこの尿意が幻だと知っている。
待ち時間に尿意を感じて不安になるのはいつものことで、その不安は演奏への期待に比例して大きくなる。それは自分が作り出した幻で、演奏が始まればたちまち消えてしまう。ようするに私はそれだけ今夜のコンチェルトに期待し、緊張しているのだ。そして開演の遅れが私の幻覚パニックに拍車をかけている。オケの人たちよ、早く出てこい。いくらなんでも遅すぎるぞ。心の中でコールが始まる。すると男性がひとりマイクを手にステージに現れた。いよいよスタートだ。そう思ったら案の定、幻の尿意は引っ込んでしまった。
クラシックの演奏会はアンプラグドが前提で、そこにマイクを持った人が出てきたら、それは演奏前のプレトークと相場は決まっている。でも今日はなんか変だ。今からプレトークを始めたら終わるのは何時?プログラムは3曲もあるというのに。それにマイクを持っているのはどう見てもただのスタッフで、プロのオーラをみじんも放ってない。開演を待ちわびる聴衆の前に素人が立っている。みょうに場違いなこの感じは、もはやプレトークではない。なにかアクシデントが起きたんだ。私が異変を感知したのと同時に男性がアナウンスを始めた。
今日の主役のヴィルデさんはさっきまでここでゲネプロをやっていました。その時は元気にコンチェルトを弾いていました。しかしその後突如ハライタとハキケに襲われ、開演時間になっても症状が回復しないため、ステージに立つことができません。代役を立てようにも時間がなく、今日のコンチェルトは取りやめになりました。
・・・ってことは、
ドタキャン キタ――( ゜д゜)――!
ここまで鮮やかなドタキャンを食らうとお客さんも納得するしかない。
不測の事態。苦渋の決断。男性からはぶっつけ本番の空気がひしひしと感じられた。
しかし残念。
私はこの演奏会をほんとうに楽しみにしていたし、事前の準備も万全だった。それは服装の準備だけではない。東京交響楽団がヴィルデをゲストに呼ぶ。そのニュースを知ったのは昨年のことで、私はそれからすぐに東響の後援会に入会した。入会にあたっていくつか事務手続き―― ぶっちゃけ寄付ですわ ――が発生したけど、ヴィルデのコンチェルトをいっちょう盛り上げよう、という気持ちで快く献金した。長引く不況の影響でどこのオケも経営が苦しいのは周知の事実。たとえどんなに優れたソリストがいても、どれだけ素晴らしい曲が残されていても、一緒に演奏してくれるオケがいなければコンチェルトは成立しない。共演に先立って「ヴィルデの伴奏、頼んだよ」とオケにエールを送っておくのは応援団長である私の務めだ。当然チケットも大盤振る舞い。1階平土間のS席で、聴く気満々でスタンバっていた。
その根回しが、一瞬にしてパー。
でもヴィルデが受けたであろうダメージに比べれば、そんなの全然たいしたことじゃない。
彼女が弾く予定だったニールセンのコンチェルト。前半のラルゴからアレグロはCDで聴くと20分ちかくかかる壮大なもので、シベコンにも通ずる異次元性を湛えている。この曲に挑むソリストは、まず第一に、その異次元性に拮抗するオリジナルな価値観を打ち立てなければならない。それができないと、ただ単にだらだらと長いだけの演奏になってしまう。ヴィルデがうまく異次元を突破できるか否か。それは今夜の一番の聴きどころだったし、彼女もそのための準備を整えていたはずだ。
スタミナをつけ、メンタルを鍛え、必要な筋力をアップして、テンションを維持する。そんな地道なトレーニングをヴィルデは人知れず行ってきた。ゲネプロまではものごとは順調に運んだ。でもあと少しというところで、アクシデントに見舞われて、本番のステージに立てなくなった。
積み重ねた努力は、一瞬にしてパー。
それは私に北京五輪の直前に肉離れを起こして泣く泣く出場を辞退した野口みずきの悲劇を思い起こさせる。4年に一度のオリンピックと一緒にしないで、と言って野口さんは怒るかもしれないけど。
指揮者のロウヴァリくんは1985年生まれ。まだ若く経験の浅い彼にとって主役の不在は相当なビハインドだろう。でも逆境を若さで跳ね返すような元気いっぱいのフィンランディアはなかなか面白い。フレッシュな新人なだけにその後ろ姿は貫禄からは程遠く、指揮者というより交通整理のお巡りさんに見えてしまうのは難点だけど。オペラシティの平土間後方の音響効果は申し分ないもので、シベリウス独特の低音ビートを肌で感じることができる。
とはいえ、演奏中もヴィルデのことが頭から離れることはない。
異国で急病。お座敷はキャンセル。
ヴィルデはさぞや心細いことだろう。気落ちしていることだろう。
川崎、京都、名古屋とスケジュールは目一杯詰まってるけど、大丈夫だろうか。
何か私にできることはないかしら。
休憩時間に1階の花屋に降りてバラを買ってホールに戻った。
演奏会が終わると、目に付いた黒服に「ヴィルデさんに渡してください」と花を託した。
黒服は招聘元の人で、必ず本人に渡します、と請け負ってくれた上に
ヴィルデは現在某大学病院にいて、明日(12日)の川崎は微妙だけど、
白寿ホール(16日)は大丈夫かもしれない、と最新情報を教えてくれた。
ってことは、16日のリサイタルが視野に入るくらいには回復したということで、それはひとまず安心ってことだよね。明日の川崎はどうなるだろう。もしニールセンのコンチェルトが演奏されたら、生で聴ける人がうらやましい。ヴィルデはきっと素晴らしい演奏を聴かせてくれるに違いない。でも演奏が無事に始まるかどうかはその時にならないとわからない。演奏者は人間で、人間はいろんな種類のトラブルに囲まれて生きている。いつまた大地震が起こるかもしれないし、突然ハライタに襲われるかもしれない。
それにしてもあの黒服、ずいぶん事情に詳しかったな。
妙な存在感もあったし、いったい何者?
オペラシティの長いエスカレーターの途中でそんなことを考えながらもらった名刺をよく見たら、そこには社長の肩書が(!)
つまりあの人はヴィルデを日本に呼んでくれた人で、
おかげで私はヴィルデに出会うことができたわけで、
あの人はいわば私とヴィルデを結び付けてくれたキューピッド?
人は出会うべくして人と出会う。
コンサートホールで起こるこの手の偶然に私はもう驚かない。ただ
普段着じゃなくて、大正解!
大人の女性として恥ずかしくない格好をしていて、ほんとうによかった!!
(美容院に行っておけば、もっとよかった)
そう思って、新宿へ向かう電車の中でほっと胸をなでおろしたのだった。
(おわり)
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