「冬蜂紀行日誌」(2009)・《絶筆》

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句に心酔した老人の日記

小説・「センチメンタル・バラード」・《二》

2010-12-27 00:00:00 | Weblog

2009年12月27日

サイダーを二人で乾杯したととき、ボクの恋人は流産した。妊娠していることを知らなかった。ボクは、それによってできた恋人の裂け目に手を入れて、引き裂いたのかもしれない。コドモが出てきただろうか。苦しい。愛しているんです。すべてを忘れた方がいいと思います。退屈な生活があるはずがないというような主張は、生活主義者から革命家の手にゆだねられるべきだろうか。オトナ、すなわちボクと恋人は、コドモをダスター・シュートに捨てた。しあわせだ。罪は、それを犯したことに気づかないとき成立する。ボク達は、犯すことに気づいた。だから、当然のこととして犯さなかった。サイダーがボク達の内臓をつたわって、水洗便所に捨てられた。ところで、ボクと恋人は、生活について討論すべきだっただろうか。討論した。活字を拾い読みすることは生活ではありません。ゴハンを食べて寝ることは生活ではありません。コドモを安産することは生活ではありません。討論すべきではなかった。いっさいのコミュニケーションを拒絶するところに生活はある、ということもできない。ボクと恋人には生活はなかったし、ない。恋人はボクに愛されていないことを誇るべきだ。しかしボクは誇れない。何故か。

【補説】私を捨てた恋人たちは、今、何をしているだろうか。今にして思えば、「ゴハンを食べて寝ること」が生活の《すべて》だったのだ。やんぬるかな、かくて、私は「犀の角のようにただ独り」歩み続けなければならない。

にほんブログ村 シニア日記ブログへ
blogram投票ボタン