「冬蜂紀行日誌」(2009)・《絶筆》

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」(村上鬼城)という句に心酔した老人の日記

小説・「センチメンタル・バラード」・《一》

2010-12-26 00:00:00 | Weblog
2009年12月26日(棺の中に入っていた私の作文・その5)
【小説「センチメンタル・バラード」】

美智子とかいう女の子が、安産をしたちょうどその日、ボクの恋人は流産した。恋人が死んだほうがいい。ボクは恋人を愛していないし、恋人もボクを愛していない。美智子とかいう女の子の、腹のふくらみがしだいにへこんで、その代わりに胸のふくらみが大きくなるにつれて、「しあわせ」というやつが美智子とかいう女の子の非生活的な生活の日々を満たしてくれるのだろうか。とはいえ、ボク達の生活といったところで、彼女の生活にまさるともおとらず、つまり時たま行った施設の子供達の頭をやさしくなでまわしたり、あるいは日々の外交的なおじぎや、微笑みのくりかえしのむなしさと同じように、毎日数ページのインクのしみを頭につめこむむなしさで満たされているのかもしれない。だがしかし、ボクはそのむなしさを愛さなければならない。恋人は流産したほうがよかった。生活はそんなこととは別問題だ。電気音楽にボク達はふるいたつけれど、それが終わると停電のときのあのあせりとはくらべものにならないほど、むなしい。むなしいのは、ボク達のどこかが何かで満たされているからなのだろうが、美智子とかいう女の子とボクの恋人はむなしいだろうか。むなしくないだろうか。パクられることを覚悟でなければ見ることのできない、恥部の象徴なんて、ボクは興味がない。それに比べると、愛してない恋人は大切だ。

【補説】吉本隆明によれば、芸術で用いられる言語は「表出言語」。「指示言語」と違って、「伝達」を目指さない。一切のコミュニケーションを「断絶」する。自己の内部から湧き上がる「心象」を、そのまま表出する。場合によっては「沈黙」も言語だとか。はたして何人の読者が、その「世界」を共感できるか。いずれにせよ、「詩人」は、意味不明な「表出言語」を羅列する。その結果、詩人とは「変人」「奇人」の代名詞ということに。生産社会においては「厄介者」に成り下がる。

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