
千人を収容する神奈川県立音楽堂で開催された、
戸塚区民オーケストラのサマーコンサートを聴きに行った。
連日の猛暑の中、客席は高齢者を中心に満席だったので驚いた。
演奏曲目はドヴォルジャークの交響曲「新世界より」など。
アマチュアオケの良いところは、
団員の熱気と喜びが客席に伝わってくるところである。

アマチュアオーケストラ、鎌倉交響楽団は創立50周年を迎え、
このたび第99回定期演奏会を鎌倉芸術館で開催した。
鎌倉芸術館大ホールを満席にしたこの演奏会の
指揮者、山上純司氏は1960年生まれ、独奏者の
菊地祐介氏(ピアノ)は1977年生まれ。
お若いお二人の演奏は若々しさがあふれて好感が持てた。
特に気がついたことは、ドボルザークの「新世界」で
1番トランペットを吹いた女性の元気いっぱいの演奏は
見事なタンギングぶりでホールにトランペットの音色を
響かせていたことだ。
地域に根付いたアマチュアオーケストラは一定の
ファンを獲得し、今回の演奏会のように有名な
ピアノ独奏者を迎えた場合、当日売りも多く売れた
とのことである。

一橋大学のOBを中心メンバーとする水星交響楽団の定期演奏会を聴きに行った。
プログラムは・・・、
ブラームスの交響曲第2番と
レスピーギの交響詩、「ローマの噴水」、「ローマの松」。
最近のアマチュアオーケストラのレベルは相当高く、
ホールに足を運ぶ人の数も驚くほど多い.

NHK交響楽団のオーボエ主席奏者、茂木大輔(もぎ だいすけ)氏の
著書を読んだ。
今から10年前に文庫版に収録された本であるが、
版元の新潮社は絶版にはしない。
相変わらず一定のファンから支持されている本である。
オーケストラで使われる楽器ごとに、その楽器の奏者を面白おかしく分析。
例えば、オーボエ奏者は、“ストレスに苦しみ、くよくよと細かい?”
ホルン奏者は、“忍耐強い寡黙の人”などなどである。
そのほか、トランペットを吹く人は“単純明快、やる気満々のエース”とも。
クラシック音楽が趣味の方たちにはお薦めの1冊である。
話は変わるが、長年、毎週日曜日の夜9時から放送されていた
N饗アワーという番組が終了になるそうだ。

本屋で立ち読みをして本を選んで買うという方法もあるが、
新聞の書評欄や新聞に載った本の広告を見て買う場合もある。
この本の場合、新聞の書評欄に載っていたので買った。
書評を書いた人は、この本を絶賛していたが、
まったくそのとおりで、興味深く読み進んだ。
しかし、この本をおもしろく感じるには、
ある程度音楽についての知識がないと無理だろう。
この本は対談形式をとっているが、実際には
著者の村上春樹氏の書き下ろしの文学書と感じた。

曲目は演奏順に、チャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」、プロコフィエフの「古典交響曲」、ムソルグスキー作曲ラベル編曲の「展覧会の絵」の3曲。
アマに限らずプロにも言えることではあるが、聴衆が固唾を呑んで最初の音がどんな響きで出てくるかを待っている、その演奏会で最初に演奏される曲目の出だしを注目した。
ロミオとジュリエットは木管のアンサンブルで始まるが、横フィルの木管が奏でる見事なハーモニーにいたく魅せられ、この演奏会場に足を運んだ甲斐があったと思った。
誰にも思い出の音楽がある。
子供のころ、なけなしの小遣いをはたいて買ったレコードがアルトゥール・ルービンシュタインが弾くベートーベンのピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2「月光」だった。
そう、レコードとういう言葉も最近ではほとんど聞かれなくなったが、「月光」はドーナッツ盤といって1分間に45回転する代物である。持っているレコードはこれ1枚だけだから、「月光」を何回聞いたか分からないほど聞いたものだ。
子供のころ、なけなしの小遣いをはたいて買ったレコードがアルトゥール・ルービンシュタインが弾くベートーベンのピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2「月光」だった。
そう、レコードとういう言葉も最近ではほとんど聞かれなくなったが、「月光」はドーナッツ盤といって1分間に45回転する代物である。持っているレコードはこれ1枚だけだから、「月光」を何回聞いたか分からないほど聞いたものだ。
毎週日曜日の午後9時からNHK教育テレビでN饗アワーという番組を放送している。
今晩、3月20日は2004年ベストソリストと題して、N饗と共演した様々なソリストの演奏が紹介された。
そのうち、ベスト2としてベートーベンのヴァイオリン協奏曲ニ長調から第3楽章をセルゲイ・ハチアトゥリヤンが、ベスト1としてチャイコフスキーのピアノ協奏曲変ロ短調から第3楽章を上原彩子が演奏した。
この若い2人のソリストの演奏を聴いて久しぶりに心躍り、血沸き立つ思いをした。
というのは、若さに任せて自由奔放とも思える演奏に振りに圧倒されたからである。司会を担当する若村麻由美さんが「怖いもの知らず」と少々失言ともいえる感想をしゃべっていたが、まあ実は、私もそのとおりだと思ったのである。
今晩、3月20日は2004年ベストソリストと題して、N饗と共演した様々なソリストの演奏が紹介された。
そのうち、ベスト2としてベートーベンのヴァイオリン協奏曲ニ長調から第3楽章をセルゲイ・ハチアトゥリヤンが、ベスト1としてチャイコフスキーのピアノ協奏曲変ロ短調から第3楽章を上原彩子が演奏した。
この若い2人のソリストの演奏を聴いて久しぶりに心躍り、血沸き立つ思いをした。
というのは、若さに任せて自由奔放とも思える演奏に振りに圧倒されたからである。司会を担当する若村麻由美さんが「怖いもの知らず」と少々失言ともいえる感想をしゃべっていたが、まあ実は、私もそのとおりだと思ったのである。
タイトルが適切ではないかもしれない。
というのは、イタリアとかドイツとかいう名前は国家という概念がヨーロッパに生まれてからのものだから。
西洋古典音楽の世界ではドイツの方がイタリアより上という根拠のない評価基準がある。イタリアの音楽で最初に思い浮かぶのはオペラであろう。
一方、ドイツでは器楽を中心とする純粋音楽がベートーベンのソナタ形式の完成によって極められ、日本人の「純」好きの性格にもより、ドイツ音楽を尊ぶ風潮がある。
ドイツ音楽を普遍的な価値として独善的に押し付けるやり方は、乱暴な言い方かもしれないがアメリカの1国単独主義みたいに感じられる。
というのは、イタリアとかドイツとかいう名前は国家という概念がヨーロッパに生まれてからのものだから。
西洋古典音楽の世界ではドイツの方がイタリアより上という根拠のない評価基準がある。イタリアの音楽で最初に思い浮かぶのはオペラであろう。
一方、ドイツでは器楽を中心とする純粋音楽がベートーベンのソナタ形式の完成によって極められ、日本人の「純」好きの性格にもより、ドイツ音楽を尊ぶ風潮がある。
ドイツ音楽を普遍的な価値として独善的に押し付けるやり方は、乱暴な言い方かもしれないがアメリカの1国単独主義みたいに感じられる。
最近流行っている日本のポップスは、その音楽的水準があまりにも低いのだ。アメリカの大衆音楽はレベルが高いことで知られているが、どうして日本ではこれほどまでにレベルが低いのか不思議だ。
思うに日本の場合、聴き手が子供ばかりで、その子供も数年経つと子供時代を卒業し、また新たな聴き手が入ってくるので、音楽を提供する側の水準がちっとも上がらないのでないか。よく言われることだが、日本は子供文化であると。コンサート会場に行けば小、中学生ばかりで、高校生がばかに大人に見える。社会人の姿は少ないので周りから「まだそんな所に行っているのか」と半ば馬鹿にされるのが落ちである。
思うに日本の場合、聴き手が子供ばかりで、その子供も数年経つと子供時代を卒業し、また新たな聴き手が入ってくるので、音楽を提供する側の水準がちっとも上がらないのでないか。よく言われることだが、日本は子供文化であると。コンサート会場に行けば小、中学生ばかりで、高校生がばかに大人に見える。社会人の姿は少ないので周りから「まだそんな所に行っているのか」と半ば馬鹿にされるのが落ちである。
演歌、艶歌と書いたほうがよいのだろうか。演歌は日本独特のものでその歴史も浅く、演歌の良さを理解できるのは日本人と韓国の人たちくらいのものだという、なにかマイナーな印象を与える。酒と涙と港と別れを主題とした短調の曲作りは陰湿で暗く、若い人には到底受け入れられない要素が多すぎる。まあ最近はポップ調の演歌もあるし、演歌のプリンス・氷川きよしが出てきて演歌の様相もだいぶ変わったけれど。
これからが本題なのだが、演歌は日本だけのものと思っていたら外国にもあったのだ。去年、東欧に旅行した時のこと、レストランで食事をしていたら店内で流されている歌がまさに演歌そのものなのだ。店の人にその歌手の名前聞いて、CDショップで東欧の演歌をお土産に買ってきたことは言うまでもない。その後調べてみたら世界の音楽の半分以上は短調で作られているとのこと。なにもモーツアルトの明るい長調ばかりが音楽ではないことが分かった。
これからが本題なのだが、演歌は日本だけのものと思っていたら外国にもあったのだ。去年、東欧に旅行した時のこと、レストランで食事をしていたら店内で流されている歌がまさに演歌そのものなのだ。店の人にその歌手の名前聞いて、CDショップで東欧の演歌をお土産に買ってきたことは言うまでもない。その後調べてみたら世界の音楽の半分以上は短調で作られているとのこと。なにもモーツアルトの明るい長調ばかりが音楽ではないことが分かった。